晩夏
夏は何かもが大きく感じる。
大きく広がる青空、その青を切り抜く白い積乱雲。どこまでも木々が生える山。目に入るものでさえも大きいと言うのに、耳に入る蝉の鳴き声もまた大きいのだから、夏というものは大きく感じて、背の低い僕からも大きなため息が出る。
「久しぶりに、婆ちゃんの家に行くか」
大きな欠伸しながら、車の鍵をチャリン。と鳴らしたのはオヤジだった。自営業も閉じた遅めのお盆休み。自家用のエブリィワゴンを走らせる。
車の窓に吊るした風鈴を指でチリンチリンと鳴らすのにも飽きて来た頃、見えてくるのは先ほどにも述べた通り。空から大地へと視界を移せば、段々畑の茶葉たちと、向日葵たちが立ち並ぶ。
理想的な田舎だ。なんて、祖父母に言った事は無い。言ったら「僕の未来はここに決まってしまう」らしいから。オヤジとのお約束のひとつだ。
坂道を駆け登り、この集落の住民に挨拶をしながら着いた祖父母の家は、二人暮らしにしてはとても大きな木造の平家で、石垣に囲まれている。家屋だけでも30坪くらいあるらしく、大きな蜜柑の木が生えた庭まである。僕が言うのもなんだけど、豪邸といっても差し支えないんじゃないだろうか。とはいえ、その半分近くを収穫道具や収穫物が占めており、生活スペースは普通くらいなのだけれど、木造の建築を見ていると、台風や地震で崩れたりしないのかな。と、少しソワソワしてしまう。
「また、大きくなったねぇ」
「いやいや、まだまだ小さいですよ」
少し奥の方から聞こえてくるのは、お婆ちゃんとオヤジの会話。いつもあんな会話から始まっていて、その内いつもの畑仕事の話になる。
オヤジはよく、「お前の好きなように生きろ」と言ってくれる。
好きなように生きろと、生き方を決めつける。
「ちょっと外、行って来まーす!」
それに抗えるほど、僕に力はない。抗った結果、もうここに連れて来てもらえない可能性だってある。
だからこうしてこの夏も、僕はこの田舎に繰り出すのだ。もう一つの約束を守るために。
△▼△▼△▼△▼
夏は何もかも退屈に感じる。
聞こえてくる蝉の声も、うっとおしく思う暑さも、並ぶ一週間の気温にも、年を重ねても変化の少ない夏は、退屈に感じる。
この集落に関してもそうだ。特に新しい発見だとか楽しみな場所があるとか、そういったことはない。
ただ、畑仕事が終わるまで外にいる。というオヤジとの約束を守るためだけに、外に出る。坂を下って、なんとなく歩く。
ただそれだけのこと。
家に居ると畑仕事を手伝わされる。オヤジが今現在手伝わされてるように、暑い日差しの中、よくわからない格好で茶葉の手入れをする。みたいな。そんな感じのやつ。
僕自身、それはちょっとやってみたいと思っているのだ。外に出たってやることもないし,暑いことには変わりないし,行くところもない。毎年、こんなお盆休みを過ごしている。
初めて来た時はもうすこし心躍ったものだけれど、どんな風に躍ったか、今ではその躍り方も忘れてしまった。
言ったとおり、ここは理想的な田舎なんだ。山に入れば虫取りも出来る。小さな秘密基地を作ったって構わない。坂を下れば辺り一面を埋め尽くすお日様色の向日葵畑で、畦道に沿って山をぐるっと回れば、人知れぬ木々のトンネルと、綺麗な海がある。そのどれもが都会育ちの僕には新鮮で、最初は美しく思った。そして、変わらぬ美しさに感動を覚えなくなった頃、美しさの持つ鮮度が、僕の中で飽和した事に気が付いた。
「何かを好きになって、没頭すればするほど、世界は俺を置いて行って、変わらない目の前の何かだけが好きになる」
「お爺ちゃんは何が好きなの?」
「ここと、畑仕事だ」
いつかの夜、日本酒を片手に月を見ながら、爺ちゃんはそう言った。おんなじペースで見続けない事が、何かを愛する秘訣なのだ。と、きっとそんな感じの言葉だと僕は思う。
その言葉の意味をまだ、僕は汲み取り切れてはいないが,その言葉にたどり着いた爺ちゃんの生き方に、ずっと憧れている。
まぁ、僕はまだ、その没頭する何かを見つけてはいないのだけど。
考えを巡らせて自己完結する頃には、僕は向日葵に囲まれていた。四角く作られた紐の柵の中に咲き乱れる向日葵。聞いた話によると、この向日葵畑は道が碁盤の目の様になっているのだとか。
地図で見たことはないけれど、曲がっても曲がっても似たような景色に直面するのは、きっとそのせいだ。振り返ればもう下って来た坂道が見えないのも、きっとそのせい。知らず知らずのうちに迷っているのもそのせい。
しかし、迷っても帰れる方法は数年前に学習済みだ。少し上を見るようにすれば、坂の上の祖父母の家が見える。
「うん、あっちだな」
そう、独り言を呟きながら空を指した。
そんな僕を見るように、視界の隅で何かが動いた。
目を凝らせばそれは向日葵の足元、麦わら帽子に白いワンピース。黒い髪に青色の眼の女性が、しゃがみ込んだ姿勢で静かに、こちらへと目を細めていた
「あ、すみません」
小声でそう、言ってみた。届いてはないだろうけど。
加えて軽く会釈すると、彼女の視線はまた、向日葵へと注がれ始めた。
あまり、人をこうジロジロと見るものではないのだろう。けれども、つい目で追いかけてしまうのは、この集落で若い女性の方を見たのは初めてだったから。そしてもう一つ。
淡々と、向日葵を摘み取っていたから。
近付けば、植物特有の青臭い臭いが鼻をついた。しゃがむ彼女に抱え込まれた向日葵たちは、耐え切れんと言わんばかりに顔を覗かせて、けれども彼女は知らん顔して、ポキポキと、一つずつ、またその中に向日葵を差し込んでいく。
「なんで、折ってるんですか?」
そう、聞かれた彼女は立ち上がって僕を見た。背は高く、青空よりも深い青い目をした彼女。溢れんばかりの向日葵を片手で抱き抱えて、遠くを指差した。
「あっち」
そう言われて,後ろを振り向いたその瞬間、背中と服の間に何かが差し込まれた。
小さな毛が生えていてくすぐったく、さっきも感じた青臭い臭いが舞う。
急いでそれを引き抜けば、それは、根元でポッキリと折れた向日葵。
「何するんです!?」
そう言って、振り返った先にはもう、彼女は居なかった。
「綺麗に終わるように」
地面に書かれたその一文と、向日葵だけが彼女の存在を肯定していた。
△▼△▼△▼△▼
夏は何もかも長く感じる。
待ち遠しかった夏休みも、退屈に感じては長く感じる。取り掛かった宿題の中身を見て、これから先の長さを憂う。楽しい時はすぐに過ぎるらしいけれど、楽しく感じるまでもが長い。
僕が迷い始めて、どれくらい経っただろうか。
彼女が姿を消してから,かれこれ30分は経ってると思う。学んだはずの帰り方を実践しようと辺りを見ても、空には祖父母の家どころか、山すらも見えなくなっていた。
「明らかにおかしいことになってる」
いくら前に向かって歩けど、決して向日葵畑を抜けられそうな様子がない。手に持つ向日葵に萎れる様子はなく、僕自身も喉の渇きや空腹を抱かない。歩いても歩いても、足跡は残らず。遠い青空と地面に書かれた「綺麗に終わるように」の文だけが変わらない。
そういえば、なぜ彼女は消えたのだろう。
視線を逸らすように後ろを指差して、煙に巻きたい。とするには千切った向日葵を服の隙間に差し込んで。
「あっち」
そう指差しした向こうに、何かがあるわけではなくて。ただ、「彼女が指差した」というだけ。ただ、それだけ。
それだけでも、今,歩く理由になる。
歩く方向を変えたからと言って、景色が変わるわけでもない。相変わらず向日葵は大きいし、空は変わり映えのない青。まだ歩き始めて間もないのに、経った時間を数えたがる。
そんな、僕の後ろに足跡が付き始めた頃、あの文が見えなくなった頃、見覚えのあるワンピースが目に入る。
彼女は、どうやらこちらには気付いていないようで。ずっと、ポキポキと、しゃがみ込んでは向日葵を折っていた。
「これ、返しますね」
そう、声を掛けると彼女もこちらに気が付いて、僕が手渡した向日葵を、彼女は立ち上がってから受け取った。その顔はどこか申し訳なさそうで、それでいてやっぱり、この集落では見たことの無い人だと感じた。
「夏は好き?」
「ここで過ごす夏は心地良くて、嫌いじゃないよ」
「でも、きっと。たまに来るから、夏も、ここも心地良いんだ」
少し,間を置くようにそう答えた。
夏は退屈な事ばかりで、長く感じて、世界は広く大きいのに、僕は小さくて。それをありありと感じる夏の事を、普通は嫌いになるのかもしれないけど。
この集落で過ごす夏を、嫌いになった事はないから。
「そっか、そっかそっか」
彼女は言葉を飲み込むように頷いて、向日葵を一輪、地面に置いた。
「この先に行けば、君は帰れるよ」
道を譲るように端に寄って、彼女はそう言った。見える道の先には何もないけれど、遠くの方を見ようとすれば、陽炎のように薄ぼんやりとしている。
「あなたは、ずっと夏を摘み取るんですか?」
「うん、そうだよ」
「綺麗に終わらせるために?」
「うん」
「そうなんですね」
まぁ、分かってはいたけれど。きっとこの空間はあの集落ではないし、この人も集落の人ではないのだろう。
「それでは、失礼致します」
そう言って,彼女の前を横切って、向日葵の先に足を踏み入れていく。
「また、この夏に会いましょう」
小声でそう、言ってみた。次は届いてくれてると良いな。
△▼△▼△▼△▼
ふと、目が覚めた。ずっと歩いていたはずなのに。気が付けば気を失っていた。見えたのは木目を数えたくなる天井と、祖父の顔だった。
祖父の話によると、僕は向日葵畑で倒れていたところを、散歩中の人に見つけてもらい、そのままここまで運び込まれた。との事だった。
「熱中症や脱水症状かと思った」
そう言われた。全然そんな感じはしなかったのだけど、きっとあの世界とこの世界は別物だから。と、そう考えることにした。
「なんか、あったのかい」
「どうして?」
「向日葵を一輪、もっとったから」
起き上がれば、枕元に一輪の向日葵。花瓶に挿された向日葵は、少しだけ萎れていた。
「いや、特に何もなかったよ」
「……そうか」
「ねぇ、お爺ちゃん」
「ん?何だ?」
「夏は好き?」
向こうの世界の話をしようとは思っていなかった。けれど、一輪の向日葵を尋ねてきたお爺ちゃんには、この質問をしてみたかった。
「ああ、ここの夏は綺麗で、好きだ」
「そっか」
「おぉ!目を覚ましたか!」
会話を断ち切るように、オヤジが部屋に入ってきた。「飲み物を持っておくように」とか「まだまだ身体が弱い」なんて宣うオヤジを見て,お爺ちゃんが踵を返す。
「ご飯は出来とるから,食べれるようになったら来なっせな」
その言葉を最後に、背を向けるお爺ちゃん。
「ねえお爺ちゃん」
「ん?なんだ?」
「明日から、僕も畑仕事しても良い?」
そういう僕を見て、オヤジは声が出ないほどに、驚いていた。
「何か、あったのかい?」
「僕も、ここで過ごす夏。嫌いじゃないから」
何かを好きになるために,次はまた、しっかりと「好きだ」って言える様に。
好きに生きてみよう。って、そう思ったから。
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