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egg(17)

 
第四章 
 
8時になり、オレはどうしようもないかったるさで体が潰れるんじゃないかと感じながら、自転車にまたがって家を出た。学校での勉強からやっと解放されたっていうのに、今度は塾だ。中学のクラスで受験生でもないのに塾に行っているのは、オレを含めて50人中10人くらいしかいない。しかも、他のやつらは妹の由美みたいに小学校からオールAしか取ったことがないってくらいの、頭がいい連中ばかりだ。みんな勉強が大好きで東京大学を目指しているらしいけど、オレにはまるで縁がない話。
駅に向かう一直線のバス通りを自転車で走っていく。辺り一帯ではアブラゼミがジージー鳴いていて、空にはばかでかい入道雲がぽっかり浮かんでいる。まだ多少涼しいけど、今日も暑くなりそうだ。早速体がまとわりつく湿気でべたべたし始めるけど、自転車に乗っていると風が体にあたって不快さも多少和らいでいく。後ろからどんどん追い抜いていく自転車に構わず、オレはゆっくり自転車をこぎながら鶴川駅に到着した。ちなみに塾は小田急線の準急か各駅停車で2つ行った先、この辺り一帯で一番大きな繁華街がある町田駅というところにある。オレは回数券をポケットから取り出した。

「個人塾ではライバルが少なくて競い合えないから、哲治のやる気が出なくていつまでもレベルが上がらない。もっと大きくて実績のある塾に行け」
そんなお父さんのセリフで、オレはそれまで通わさせられていた近所のおじさんがやっている塾をやめて、この夏休みから町田駅の目の前にある”志望校進学率98%!”とうたっている進学塾に通うことになっていた。
鶴川駅の改札につくと、チャチャチャチャ…と切符切りでリズミカルな音を立てている駅員さんがいた。駅員さんは切符切りをずっと動かし続けていて、改札を通る人が切符を手渡すたびに受け取ってはパチリと鋏を入れてお客さんに戻し、またチャチャチャチャと鋏を動かしながら次のお客さんの切符を受け取っている。オレの番が来て回数券を手渡すと、それまで切符を見るためにうつむき続けていた駅員さんがふと顔を上げて、帽子のつば越しにオレを見た。細身で黒縁眼鏡をかけた真面目そうな駅員さんを見て、どこかで会った気がしたけど、誰だったかは思い出せない。じっくり考える間もなく回数券が手渡され、オレはチャチャチャチャという音に合わせて構内に押し出された。
夏休みとはいえ、朝の電車は出勤するサラリーマンや遊びに行くらしいお母さんと子供たち、単語帳を真剣な目でめくっている受験生らしき人たちでかなり混んでいた。オレはつり革につかまって、流れていく車窓の景色をぼんやりと眺めていたが、ふと終業式の日のお父さんのセリフがよみがえった。

・・・
「なんだ、この成績は!!」
1学期の終業式の日、珍しく早めに帰ってきたお父さんはオレの通知表を見た瞬間、怒りを爆発させた。リビングのテーブルの上にはオレの1学期の通知表が広がっている。
「哲治、こっちに来い!」
夕飯を食べ終わり、キッチンから脱出しようとしていたオレは、ものの見事にお父さんにつかまってしまった。のろのろとリビングに入り、ソファに座っているお父さんの向かいの床で正座する。お父さんがほえた。
「英語・数学・国語・社会、4教科が1とはどういうことだ!」
オレはちらりと自分の通知表を見た。うちの中学は1~5の5段階評価のはずだけど、なぜかオレの通知表は1~3の3段階評価。それでも中1のときに1だった理科が奇跡的に3に上がっているんだ。ここはほめてもらえてもよさそうなものだけど、お父さんは気づいてくれない。顔を真っ赤にしたお父さんがまたほえる。
「塾の回数も増やしてやったのに、また成績が下がっているのは何でだ! 説明しろ!!」
何でだって言われても、自分にもよくわからない。そもそも小1のころからオレは勉強に挫折していた。国語の授業が始まった日に出た最初の宿題。「あ」という字を国語のノートの片面に繰り返し練習しないといけなかったんだけど、オレが書くと字がはみ出てばかりでマス目にきちんと入れられない。しかも本当に困ったことに、「あ」という字はすごく複雑な形をしているんだ。まっすぐな線だけならまだマシなのに、ぐるりと丸めた線にしないといけないし、それを他の棒線2本と合体させないと文字としてはハズレだと言うんだから。お母さんに「終わるまで席を立ったらダメ」と言われたから、オレは学校から帰ってから丸3時間、机の前でぐにゃぐにゃとした線を小さなマス目に閉じ込めることになった。それでも全部はできなくて、途中で逃げ出したオレをお母さんが捕まえて、夕飯のあとにまた2時間やらされた。やっとのことで全部埋め終わり、これでようやく解放された!と思ったのに、そのあと毎日この地獄が続いたんだ。勉強が大嫌いになったのも、このせいだ。しかも、いやいややっているからか、オレはひらがなを小1で覚えきることができなかった。そして他の教科も覚えないと丸がもらえないやつばっかりだから、オレは国語・算数・理科・社会の主要4教科で最初からつまずいて、そのまま中学生になってしまっている。いくら塾に通おうが、小学校のころからの“わからない”が積み重なっていて、中学校の勉強なんてチンプンカンプンもいいところだ。だからこの成績でもなんの不思議もないと思うんだけど、お父さんは許してくれない。
「黙っていたらわからんだろ! 自分のことすら説明できんのか!」
お父さんのイライラ攻撃がずばずばとオレの体に刺さるので、段々オレもイライラしてきた。
「うるさいな! 頑張ってもできなかったんだから、しょうがないだろ!!」
パーン!
途端にお父さんの平手がオレの頬を張り飛ばした。
「親に向かってうるさいとは何事だ! お前の頑張りが足りないんだろうが! そんな言い訳が通用するほど世の中は甘くない! 謝れ!!」
ぶたれた頬を押さえて、お父さんをにらみつける。口の中が切れて血の味がしてきた。もう限界だ!!
オレはばっと立ち上がった。二人で立ったままにらみ合う。オレは叫んだ。
「大声出してるお前が一番うるさいから、うるさいって言ってんじゃないか!」
お父さんの顔がみるみる紅潮してきた。
「父親に向かって、”お前”と言うんじゃない!!」
もう一度叩こうと右手を振り上げたお父さんを見て、オレは力いっぱいお父さんを突き飛ばした。お父さんがソファに吹っ飛んでいくのを横目で見ながら、オレはダッシュで玄関から飛び出した。
「哲治!!!」
お父さんの大声で、うちのシュヴァルツや近所の犬が狂ったように吠えたてる。隣のおばさんが垣根の向こうで驚いたようにこっちを見ている。オレはみんなに辱めを受けている気がして、猛ダッシュでその場から逃げ出した。

そのあと夜まで時間をつぶして、おなかも空いたし帰ろうかと迷っていたら、同級生で不良の川上直樹と16メーター道路でたまたま出会ったんだ。普段は住む世界が違う感じがして話したこともなかったのに、オレはついお父さんとのことをしゃべってしまった。そしたら直樹が自宅の団地にオレを連れて行ってくれて、おにぎりを作って食べさせてくれたんだ。直樹の家はお母さんとお兄さんの3人暮らしで、お母さんは昼も夜も仕事をしている。夜ご飯の時間は、直樹しか家にいないことがほとんどだから、ご飯は自分でなんとかしているらしい。
「これしかないけど食えよ」
炊飯ジャーからよそったご飯で作った、ほかほかのおにぎり3つをオレはぺろりと平らげて、ちょっと泣いた。そのあと直樹が暴走族の走りを見に行くのにオレも同行して、彼らのカッコよさにしびれまくったんだ。
機嫌がよくなって深夜自宅に戻ったら、家の前でお父さんが仁王立ちしていた。オレの姿を見ると、肩の力がふっと抜けて安心したような顔になったが、二人とも何も言わなかった。
・・・

「次は町田~町田」
電車のアナウンスが聞こえてオレは降車口に向かった。
あのあとお母さんになだめられて、お父さんに謝って、夏休みから別の塾に行くことに同意したんだった。そのときお母さんがオレの肩に手を置いて話をしたので、とてもびっくりした。妹の由美はお父さんやお母さんに抱っこされたりベタベタしてるけど、オレは男の子だからと言われて、お母さんに触れられることすらほとんどなかったからだ。触られている肩にお母さんの体温を感じて、オレは何でも許せてしまった。そのせいで、電車に乗って塾に通う羽目になったんだけど。まあ仕方ないかな。
改札を出た。新しい塾はどんなところなのだろう。オレは慣れない街で迷わないように気を付けて歩き出した。

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