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アルベルト・フジモリと私のゲリラたち

9月11日、元ペルー大統領、アルベルト・フジモリが亡くなった。


南米のペルーで日系人として初めて大統領に就任し、1996年に日本大使公邸人質事件で救出作戦を指揮したアルベルト・フジモリ元大統領が11日、亡くなりました。娘のケイコ氏がSNSで明らかにしました。86歳でした。

アルベルト・フジモリ元大統領は両親が熊本県出身の日系2世で、1938年、ペルーの首都リマで生まれ、1990年に日系人として初めてペルーの大統領に就任しました。

在任中、インフレを緊縮財政で克服して経済を立て直すとともに、反政府武装グループを徹底的に取締り、治安を劇的に改善させるなど手腕を発揮し、1996年に発生した日本大使公邸人質事件では救出作戦を指揮し、大半の人質を救出しました。

(NHK 2024/9/12)


アルベルト・フジモリは、心理学者の岸田秀と、フランスのストラスブール大学で留学仲間だった。

その関係で、岸田秀は、ペルーでの大統領就任式に参列し、フジモリの自伝『大統領への道』を翻訳している。


岸田氏は存命なので、彼の追悼文を読みたいと思った。




アルベルト・フジモリは、私が書いた小説「平成の亡霊」のなかに、間接的に登場する。


小説の主要登場人物の一人、「甲斐正則」は、左翼革命家だ。

1989年(平成元年)にオウム真理教に潜り込み、麻原彰晃の参謀となって、躍進する教団を使った日本の体制転覆を画策する。

しかし、麻原と対立した後、ペルーに逃げて、革命組織「輝ける道(センデロ・ルミノソ)」と合流。その1990年に、フジモリがペルー大統領になった。

甲斐正則は、極左組織掃討をはかるフジモリ大統領と戦い、首都リマでゲリラ戦を繰り広げる。

リマで日本大使公邸人質事件(1996年)が起こる直前、日本でオウムによる地下鉄サリン事件が発生(1995年3月20日)。

甲斐は急遽、日本に帰国し、国松孝次・警察庁長官を狙撃する(同3月30日)ーー


もちろんまったくのフィクションだが、私としては、極左組織の「最後のあがき」とオウム真理教事件を重ね合わせ、冷戦直後の世界の断面を浮き上がらせたかった。


フジモリは、国家元首になった日系人として、大統領就任当時は日本のマスコミでも持ち上げられた。

だが一方、ペルーで左翼を徹底的に取り締まった「右翼」であり、左翼が多い日本のマスコミから密かに憎まれた。

そういうニュアンスは、同時代に生きていないと、わからないだろう。

のちにフジモリは、ペルーを追われて日本に一時「亡命」し、曽野綾子やデヴィ夫人のような日本の保守・右翼人脈の庇護を受けることになる。



私の小説に出てくる「甲斐正則」は架空の人物だが、モデルがいる。

読む人が読めばわかると思う。以前も書いたことがあるが、若宮正則という赤軍派の活動家だ。


若宮正則は1945年生まれ。いわゆる団塊世代。

高校卒業後、故郷の宇和島から上京し、東大入学を目指して2浪する。

このあたり、同じく東大に憧れて東京で2浪した麻原彰晃と重なる。


東大合格はとても無理と悟ったのも麻原と同じで、若宮はその後、横浜の港湾労働者となり、ベトナム反戦運動が盛り上がるなか、ブントを経て赤軍派に入る。

日本での武装蜂起、武力革命を目指したのだ。

しかし1969年、山梨での軍事訓練中に逮捕され(大菩薩峠事件)、約2年間拘置された。

若宮が山梨で逮捕されたのにちなみ、私は、小説での名を「甲斐正則」にした。(甲斐よしひろと世良公則を組み合わせただけ、という説もある)


その後、若宮は、大阪の西成で「釜ヶ崎赤軍」を組織。1972年の連合赤軍事件にはかかわっていないが、同年に阿部野の水崎町派出所を爆破して逮捕された。他の罪状もくわわって、懲役を終えたのは1986年だった。


そういえば、アルベルト・フジモリの死去が報じられた翌日には、企業爆破事件などにかかわり、49年間逃走していた桐島聡を描いた映画「桐島です」のニュースが出ていた。


毎熊克哉(37)が、連続企業爆破事件に関与したとして指名手配され、49年もの逃亡の末、今年1月に70歳で死亡した桐島聡容疑者を描いた映画「桐島です」(高橋伴明監督、来年公開)に主演し同容疑者を演じたことが12日、分かった。報道、史実にフィクションを織り込んだ社会派エンターテインメント作品。数少ない情報から、手配書に貼られた写真そのものの外見を完成させ、逃亡人生を1人で演じきった。ベルリン映画祭(ドイツ)など海外の映画祭への出品を目指す。
(日刊スポーツ 2024/9/13)


桐島聡は若宮より若いが(1954年生まれ)、武装革命組織にいた点で近いところにいた。

桐島の組織「東アジア反日武装戦線」の一部メンバーは、のちに日本赤軍に合流する。

1972年のあさま山荘事件も、同年の若宮らによる交番爆破事件も、桐島らによる1974〜75年の連続爆破事件も、同じ時代相で起こったことだ。

そして、桐島らの丸の内街爆破事件が起こっていたとき、ちょうど麻原彰晃が熊本から上京してくる(1975年)。麻原(1955年生まれ)と桐島は1歳ちがいである。


それはともかく、若宮に話を戻すと、1986年に釈放された後、再び釜ヶ崎で左翼活動を始めた。

だが、すぐに行き詰まり、新たな活動の場所を求め、向かった先がペルーだった。

当時、ペルーでは、「ペルーのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)」と呼ばれた毛沢東派の革命組織「輝ける道(センデロ・ルミノソ)」が勢力を広げ、注目されていた。

フジモリがペルー大統領に就任した直後の1990年10月、若宮はペルーに着いた。



若宮正則のような人のことは、桐島聡と同様、いまの若い人にはまったく理解不能だろう。

私は左翼ではない。しかし、若宮正則には、昔から興味を惹かれる。

はっきり言って好きだ。人間的な魅力がある。だから、小説のなかのモデルにさせてもらった。

愚かしいと感じる一方、私も10代のころに感じたような「正義」を、純粋に、潔癖に追求して生きたら、若宮のような人生になったかもしれないと思うのだ。

若宮正則の評伝には『釜ヶ崎赤軍兵士 若宮正則物語』(高幣真公)という名著があり、小嵐九八郎の『蜂起には至らず』でも1章が割かれている。

読んでみれば、お札の肖像になるような人とは正反対の生き方をした日本人がいたことがわかるだろう。



ペルーに渡ったあとの若宮正則のことは、よくわからない。

私の小説の「甲斐正則」は、フジモリ大統領と張り合ってその後も「活躍」するが、現実の若宮正則は、ペルーに着いてから約1カ月後の1990年11月14日、山中の村で死体で発見された。

胸を2度刺され、首にも絞められた跡があった。45歳だった。


その村は、ゲリラ組織との接点に当たる場所だった。

若宮は、左翼ゲリラ組織「輝ける道(センデロ・ルミノソ)」と接触し、できれば合流するつもりだったのだろう。

しかし、若宮はスペイン語が話せない。出会いがしらに、何か誤解が生じて、ゲリラから殺されたのかもしれない。

このペルーでの殺人事件は、朝日新聞記者が現地に飛んで取材したが、犯行の理由も、犯人も、結局不明とされた。

ただ、上述の『釜ヶ崎赤軍兵士 若宮正則物語』によれば、

「フジモリと同じ日本人だから殺した」

という「輝ける道(センデロ・ルミノソ)」の声明が出たという。



*フジモリ時代のペルーのことを描いた「最後の正義」といういい映画がNetflixで見られたのだが、残念ながらいまは見られないようだ。

この映画のことは、以下の記事で書きました。


<参考>


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