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火野葦平「自殺」の真相 (付録:俳優の火野正平との関係)
芥川賞作家で、「麦と兵隊」「花と龍」などで知られる火野葦平(1907ー1960)。
1月24日は、彼の命日である。
毎年、命日の直前の日曜日に、出身地の北九州市若松区で「葦平忌」が執り行われる。今年は1月22日だ。
火野葦平の死をめぐる事情は、死から60年以上たった今も誤解されていると思うので、ここで誤解を解いておきたい。私も誤解していたのだ。
え? 火野葦平を知らない?
太宰治が「欲しい、欲しい」と(選考委員の)川端康成とかに土下座の勢いで懇願しても取れなかった芥川賞を、「糞尿譚」一発で取った人ですよ。川端康成とかの推薦で。
「糞尿」に負けて、太宰はさぞ悔しかったろうと思うね。
ちなみに「糞尿譚」は、芥川賞受賞作史上、もっとも面白い小説の1つ。間違いなく傑作だから、太宰治のファンにも読んでほしいな。
「糞男」と差別される、汲み取り業者の男が、糞尿撒き散らして大暴れする。改行の少ない文章に、最初は面食らうかもしれないが、スピード感あふれる、初期筒井康隆的なドタバタ、かつ痛快な人間ドラマです。
1つの町が糞尿の中に沈む、という空前絶後の光景の描写は、以下の通り。
眼下に見下される町の中から叫喚の声がとどろきはじめると見る間に、町は沸きたち、あふれ上って来た黄金の糞尿の流水の中に沈みはじめた。溺れ、救いを求める人々の中に、彦太郎は、汲取り方が悪いから金を払わんと云った会社員の顔や、家族が減ったから十銭引きなさい、でなかったら他の者に頼むから、と云った果物屋の主婦さんの顔や、を見た。ごうごうと音立てて溢れたつ糞尿の中に、またたくうちに町は沈没してしまい、折から上って来た太陽が黄金の上に反射して美しく輝いた。
(60年以上前に亡くなった火野葦平の著作権は、著作権期間が70年に延長される以前に切れているので、「糞尿譚」「花と龍」などは青空文庫で公開されています)
以下、長文すまん。
1 世間でよく言われる説
火野葦平は1960年に死んだが、それが睡眠薬の過剰摂取による自殺であったことは、近親者(とくに母親)の気持ちを配慮して、伏せられた。
自殺であったことが公表されたのは、死から12年後(13回忌)、配慮すべき近親者(母と妻)が死んだあとの1972年であった。
ーーというのが、葦平の死にまつわる通説ではなかろうか。
少なくとも私はそう信じていた。
また自殺の理由については、健康不安(高血圧)を主とした「漠然とした不安」だと聞かされていた。
2 Wikipediaの説
Wikipedia「火野葦平」には、少しニュアンスの違うことが書いてある。
1960年(昭和35年)1月24日、若松市の自宅「河伯洞」の書斎で死去した。命日は戸籍上の誕生日の前日だった。戸籍基準なら満52歳、実際の誕生日を基準とすると満53歳没となる。戒名は文徳院遊誉勝道葦平居士。晩年は健康を害していたこともあり、最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは、1972年3月1日、13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。(Wikipedia「火野葦平」より)
このWikipedia説では、「近親者への配慮で伏せられた」という点がない。また、自殺だとわかったのは、不審に思った友人が調べて遺書を発見したから、となっている。
ところが、真相は、私の信じていた説、Wikipedia説、どちらとも、少しずつ違うのだ。
遺体の発見に立ち会った葦平の三男、玉井史太郎の『河伯洞余滴(かはくどうよてき)』(2000)から、経緯を再構成してみる。
3 自殺はなぜ隠されたのか
1960年1月24日朝10時ごろ、自宅2階の書斎で葦平の遺体を最初に発見したのは、秘書で詩人の小田雅彦だった。
小田は2階から慌ただしく降りてきて、1階にいた当時22歳の史太郎に言った。
「びっくりしなさんなよ、先生が死んどると」
小田は史太郎に、近くに住む葦平の弟、玉井政雄を呼びに行かせ、政雄から、葦平の死が葦平の母(玉井マン)を含めた家族全員に伝わった。
医師が呼ばれ、死因は心筋梗塞と診断された。
葦平は前夜、来客があり、一緒に飲んだあと、夜11時ごろにひとりで2階に上がっていた。その後、就寝中に病死したと見られたのだ。
葦平の「心筋梗塞」による死はマスコミに伝えられ、盛大な通夜・葬式を経て、荼毘に付されるまで、近親者も含め、自殺であったことを知る者はいなかった。
なぜなら、遺書が発見されていなかったからである。
ここで、葦平は、自分の死が自殺であることを、知ってほしかったのかどうか、あるいは、「どの程度」知ってほしかったのか、という微妙な問題がある。
遺書を書いたのだから、知ってほしかったのは間違いないだろう。とはいえ、その遺書は、wikiの記述にあるように、「HEALTH MEMO」という表題のノートの中に書かれていた。
「死にます。芥川龍之介とはちがふかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるし下さい。さようなら。あしへい 昭和三十五年一月二十三日夜十一時」
そのノートは、書斎の机の上に置かれていた。「遺書」と表書きされていれば誰もが気づいただろうが、そうではなかった。そこには、自殺を「大々的には」知らせたくない、葦平の微妙な心理があったはずである。
(「HEALTH MEMO」自体は、高血圧症の記録のために、前年の12月から書き始められたものだった。谷崎潤一郎が自らの高血圧症を短編にしているように、小説のねたにするつもりだったかもしれない。ただ、書き始めのときから、高血圧症で「いつ倒れるかわからない」としており、遺書としても意識されていた。)
(2023.11.21追記 谷崎潤一郎は「高血圧症の思い出」を昭和34年4~6月に週刊新潮で連載している。それを読んで高血圧が気になり始めた可能性は高い。)
そのノートは、遺体発見の当日、史太郎の目にとまっていた。だが、彼は直感的に「イヤな思い」がして、中身を見ずに、そのノートを見えないところに移動させた。
この時の史太郎の心理が、またなかなか微妙だ。父と息子、葦平と史太郎は当時仲が悪く、葦平から見れば、学校をドロップアウトして放蕩生活を続ける史太郎は悩みの種だった。
史太郎は「HEALTH MEMO」を遺書だとは思わなかったが、そのノートに、自分を含めた家族への不満や悪口が書かれていることを「直感」した。「HEALTH MEMO」という欧文を使ったのは、英語ができない葦平の母や妻に読まれないようにするためとも感じた。
実際、そのノートには、上の「死にます」云々という死の直前の記述だけでなく、ほぼ1カ月前からの家族内での出来事や、その中での自分の苦労などが記されていた。
いずれにせよ、もし遺体の発見直後に遺書が発見されていれば、医師にもそれが伝わり、自殺であることはストレートに公表されただろう。
葦平は、「遺書」ではなく「HEALTH MEMO」と表書きしたノートを残すことで、母と妻(脳溢血で病床にあった)には自殺と知られたくない、という微妙な意思を示したと言える。
史太郎は、「HEALTH MEMO」に重要なことが書いてあることを察知しながらも、「読みたくない」思いから、無意識にそのノートを見つけにくくした。
この父子の微妙な心理の合作が、「自殺の発表が遅れた」最初の原因になった。
「HEALTH MEMO」が遺書であることが発見されたのは、「死後の混乱の数日後」、葬儀一切が終わった後であり、発見したのは、葦平の次男「英気」であった。(だから、wikiの「友人が発見した」説は誤り)
英気は、長男・闘志、三男・史太郎の兄弟3人で、自殺を公表すべきかどうか相談した。葦平は子沢山で、7人の子供がいたが、成人している男性はその3人だけだった。
だがその3人では結論が出ず、秘書の小田雅彦にも遺書の存在を知らせ、彼を含めて、どうするかを相談した。
しかし、ここでも結論が出なかった。
「この場でただちに公表ということにしなかったのは、死後数日が経過していたことと、病身の祖母や、母がその事実を知らされる結果に対しての配慮も無視できなかったからである」(「河伯洞余滴」)
4人は、葦平の文学上の同志であり、九州文学界の重鎮だった劉寒吉を小倉に訪ねて相談した。
劉寒吉は、
「いまさらどうするか、伏せとけ」
と言い、それが結論になった。
この経緯を見れば、自殺が隠された第一の理由は、「祖母や母への配慮」というより、劉寒吉のいう「いまさら」感である。
葦平の死という大事に対応して、遺族は疲弊していた。そのためか、結論を出すのが遅すぎ、遺書を公表する機会を逸した。
「葦平は病死」ということでマスコミ含めた世の中が動き、葬式その他ではその前提で多くの人に接している。その直後に改めて「自殺」と説明し直す、間の悪さ、面倒は、想像できる。
結果、「そのまま」にするしかなかった、というのが実情なのだ。
こうして、自殺という事実は、3兄弟と秘書の小田、劉寒吉の5人だけの秘密になった。
「HEALTH MEMO」は、封印され、3兄弟で保管することになった。
4 自殺はなぜ公表されたのか
葦平が自殺だったことは、1972年3月、葦平の13回忌に当たる時期に、遺書の内容とともに「文藝春秋」誌上で公表された。
その1月、葦平の妻・良子が死んでいる。(葦平の母「マン」は、葦平の3回忌のころに死んでいる。)
自殺が隠された経緯が、上述のように親族の「優柔不断」のせいだとしても、公表されたのは、母と妻が死んだからであろう、と世間は思ったし、そう説明もされた。
しかし、これも少し違うのである。
秘密を知っている葦平の息子たちは、たとえ母や葦平の妻が死のうとも、自殺を公表する意図はなかった。
自殺が永遠に隠された可能性もあっただろう。
公表するしかなくなったのは、秘密が漏れたからである。
東京での葦平の秘書役だった作家の小堺昭三は、当初から自殺であることを疑っていた。
葦平が、それとなく周囲に自殺をほのめかしていたからだ。
小堺などを通じて、自殺説はマスコミでも流布していた。
決定打となったのは、九州での葦平の秘書であり、秘密を知る小田雅彦の「裏切り」だった。
小田は、密かに「HEALTH MEMO」をコピーし、文藝春秋に持ち込んだらしい(「遺書をもう一度見たい」と小田に言われ、とくに警戒することなく封印を解いて貸したのは史太郎だった)。
小田は、自殺を隠しておくのは間違いだと考え始めていた。自殺を疑っていた小堺からの促しもあったかもしれない。
1970年ごろ、文藝春秋からの問い合わせで秘密が漏れたことを知った3兄弟は、文藝春秋と交渉のうえ、葦平の妻(良子)が死んだ後なら、という条件で公表を許した。
ーーというのが真相であった。
(なお、夕刊フジにも情報が漏れていたので、これも兄弟と編集部の交渉の末、同紙も文春発売日に「スクープ」した。情報を漏らしたのは、葦平の葬儀委員長を務めたので兄弟から自殺発表をあらかじめ聞いていた丹羽文雄だったらしい。丹羽は、早稲田の同人誌「街」以来の仲間)
その公表時期が葦平の13回忌と重なったのは、良子が偶然に13回忌近くで亡くなった、という2重の偶然によるものだった。
5 なぜ自殺したのか
ところで、火野葦平はなぜ自殺したのか。
・健康不安 自殺直前に眼底出血があり、高血圧を気にしていた。葦平の父(玉井金太郎)も脳溢血を起こしている
・作家的苦悩 兵隊作家として戦後は「戦犯」扱いされたのに加え、「火野葦平はもう古い」と見なされていた。また、同じ九州から松本清張が台頭し、九州文壇のボス的な地位もあやうくなっていた
・戦争責任 自らの戦争責任を追求した『革命前後』を脱稿した後の虚脱感、あるいは、戦争責任への罪責感(そこに意味があるかどうかわからないが、自殺した1960年1月24日は日米新安保条約調印の5日後だった)
・経済問題 流行作家であった葦平に大家族が寄生していた。東京と九州の2重生活や、本人の大盤振る舞いもあり、経済的に追い詰められていた(ヤバい筋から借金していたという説もある)
・女性問題 東京に恋人がいた。妻の良子は脳溢血で長く病床にあった
・家庭内問題 父の愛人問題(愛人の子が3人いた)、永続する嫁姑問題(母のマンは芸者出身の良子を差別した)、問題の多い子供たち
ーーなどなどが指摘される。
遺書には、「漠然とした不安」以外にはっきりした理由は書いておらず、上記のいずれか、あるいはその複合的理由であろうとされる。
しかし、上記はどれも事実ではあるが、それがすべて合わさっても、必ず自殺せねばならない理由とはならないと思う。
もし経済的苦境や「落ち目」を理由とするなら、戦後の公職追放の時こそ、自殺すべき時だったろう。まだ成人していない7人の子供を抱えて仕事を失い、破産状態となって、まさに途方に暮れていた。
火野葦平は、追放が明けた1950年から文壇に復帰し、「花と龍」のようなヒット作を出し、流行作家として全国紙含めて多くの連載を持っていた。
また、その頃、各社から多く出ていた日本文学全集の類にも、火野葦平の作品は必ず入っていた。その意味で、すでに地位を確立した作家であった。
確かに「落ち目」で、「火野葦平はもう古い」とされていたのは事実だ。
しかし、「第一次戦後派」以前の戦中作家は、みんな大なり小なりそう見られていたし、「中間小説」ブームの中で、そういう作家たちにも多くの仕事が与えられていた。
つまり、まだ多くのファン、読者がいた。「花と龍」などは、石原裕次郎や高倉健の主演で、葦平の死後も続々と映画化されている。支出が多すぎたのは事実だが、収入も途絶えることなく入っていた。実際、葦平が死んでも、多少の苦労はあったが、彼の家族が破産することはなかった。
火野葦平は「革命前後」という作品を書き上げ、単行本用の「あとがき」を出版社に送った直後だった。
この作品は、葦平が自己の「戦争責任」に向き合い、自らの文学の集大成として書いたものとされる。
その出版記念会も予定されていた。
結果的には、その出版記念会は追悼集会となり、葦平は「『革命前後』その他の業績」で死後の日本芸術院賞を受ける。
遺児の史太郎は、
「(「革命前後」を)書き上げたという充実感の裏で、胸のつかえを全部吐露してしまったという虚脱感が大きく支配し(た)」
ーーことを自殺の理由に挙げている。
一方、「革命前後」の社会批評社版解説(2014)では、「革命前後」を書くことで葦平は改めて戦争責任に苦しんだ、「革命前後」自体が遺書だ、という見方をしている。
たしかにそういうこともあるだろう。
ただ、それを含めても、自殺の第一の理由は「初老期うつ病」だと私は思う。
遺書の中の「不安」という言葉がやはりキーワードだ。悲哀感より不安感が出るのが初老期うつの特徴である。
また、血圧に関する心気症状(気にしすぎ)も、うつの病前症状である。(「HEALTH MEMO」に記された血圧は160ー100程度であり、確かに高いが、医師も「おちついてきた」と言っており、特に強く警告されていたわけではない)
上のような客観状況が病気の引き金になった可能性はある。しかし、それよりも「脳」の生理的病理だと考えるべきだと思う。
うつ病でなければ、どんなに苦しい生活状況であったとしても、「革命前後」の発刊を契機に、作家として進境を見せることができただろう。
そして、思うに「革命前後」も、火野葦平という「オプティミズムの作家」(田中艸太郎)らしくない、うつ的な作品であった。
うつ病のために、何もやる気がなくなり、知性も感情も鈍磨した。目の前に堆積している膨大な仕事をただ避けるために、葦平は死を選んだのだと感じる。
必要なのは、病気だと自覚し、すべての仕事をストップし、適切な治療を受けることだった。
しかし、当時は「うつ」について十分な知識が人々になかった。今のように治療法も確立していなかった(今は薬や認知療法などがあるが、当時は難治とされていた)。
また、もし「うつ」の知識があったとしても、火野葦平のような「ボス」気質の人は、自分が精神病だとなかなか認めないものだ。
*なお、火野の家系には自殺者が多く、遺伝的な自殺性向があったとも言われる。自殺した親戚などの事実が確認できなかったが、それもまた「脳」の問題である。
6 自殺をすぐに公表していたら文学的評価は変わったか
この「自殺の隠蔽」が、火野文学評価を決定的に傷つけた、という面白い論説をネットで見つけた。(以下、太字は引用)
自殺の隠蔽で画竜点睛を欠いた火野葦平の文学、自殺を誘った「漠然とした不安」とは?(つぶやき館)
芥川龍之介、原民喜、太宰治、田中英光、などの自殺した作家はその文学は自殺抜きでは語れないはずだ。火野葦平もそうであったはずだ。その時、事実そのまま自殺説が発表されていたら火野葦平文学の評価も変わっていたはずだ。
それで文学が完結していた。だが話題性も全くなくなった時点で発表しても、もはや、時期を失したことを思い知らされただけである。
死の真相を勇気を持って発表することこそ火野文学を世間に理解させうる、後世に活かす好機であったはずである。そのタイミングは完全に、しかも永遠に失われたのである。芥川がもし病死だと偽って公表されていたらどうだったろうか、芥川文学は後世に活かされなかったはずだ。
もし1960年時点で自殺が公表されていたら、火野文学が今よりも「後世に活かされていた」はずだというわけである。
上に引用したwikipediaでは、1972年の自殺の公表は「社会に衝撃を与えた」ことになっている。
しかし、この筆者は、東京での秘書の小堺昭三の言葉を引いて、正反対のことを伝えている。
小堺は自殺公表後、九州の反応を知ろうと電話したら、まったく冷淡無関心そのものだったという。
「もう12年前のことでしょう、もう誰も関心も興味もないし、忘れられた作家ですよ。もう火野葦平の本なんて全然、売れてもないですよ。もう切羽詰まって人気回復のために公表したんじゃないか、って云ってますよ、でもなんの効果もなかったですね」
1972年、私は10歳をすぎた読書好きの子供だった。当時のことは少し覚えている。たしかに、それほど話題にならなかった気がする。2年前の三島由紀夫の自決などとは比較にならない。とはいえ、自殺と聞いて火野葦平に興味を覚えたことも事実だ。
この筆者は「岡山県出身、神戸大学法学部西賢ゼミ、広島大学歯学部、第二口腔外科教室、倉敷市在住」の人。 文学通らしく、火野の作品にも精通していることをうかがわせる。
「自殺する作家にとって自殺はまた自己最高の作品なのである」というこの考えは面白い。
とはいえ、私は別の見方をしている。
自殺が隠蔽されたことが、結果として火野葦平の名声に有利に働いた面もある。例えば、もし1960年時点で「自殺」が公表されていたら、1960年代の「花と龍」の映画化ブームが起こっただろうか、とか。
(私は、劉寒吉が自殺を隠蔽すべきだとした理由の1つには、自殺が葦平の作家イメージに合わない、ということがあったかもしれないと思う)
長い目で見れば、自殺の公表が1960年であれ1972年であれ、また仮にそれが公表されなかったとしても、火野葦平評価に決定的変化はなかったと私は思う。
結局は、作品の力、その文学に普遍性があるかどうかの問題だ。
私は火野葦平の文学に価値があると思っている。例えば「青春と泥濘」のような作品の素晴らしさが再認識されてほしいと思う。その点でもこの「つぶやき館」の筆者とは考えが違うが、それはまた別の機会に論じたい。
[付録] 火野葦平と火野正平の関係
付録として、火野葦平と、俳優の火野正平の関係について書いておきたい。
「火野葦平と火野正平は関係あるんですか」という声がネットには多くアップされている。
「火野正平は火野葦平の息子だ」と書いているものもある。
火野正平自身、「よく火野葦平の息子だと間違えられる」とインタビューで言っていた。
火野正平は1949年生まれだから、1907年生まれの火野葦平の子供であってもおかしくないが、もちろん血縁関係はなく、会ってもいないだろう。
どちらも本名ではなく芸名(筆名)なのに、なぜこんな紛らわしい類似が生まれたのか。
火野葦平の本名は「玉井勝則」だ。
火野葦平という筆名は、「日野良子(よしこ)、または、よしの」という妻の旧名をもじって生まれている。
火野葦平資料室の鶴島正男は次のように解説している。
「火野」は、奥さんの旧姓の日野から。葦平はヨシノさんからです。その頃、学生の間で愛妻や恋人を○○ベーと呼ぶのが流行っていたのでヨシベー。水辺の葭(よし)も葦(あし)も同じようなものだから葦平になったんですね。
葦平の三男の史太郎は、別の解釈をしていた。
良子は元芸者で、日野家の養女であり、複雑な生い立ちの女性だった。葦平の母マンは、彼女の「素性」を嫌って、つらく当たったようだ。良子への愛情と、家庭内で良子を守る意味もあり、あえて良子の旧名をもじって筆名としたのではないか、と史太郎は推測している。
一方、火野正平の本名は「二瓶康一」で、最初はそれを芸名にしていた。改名したのは1973年で、その事情はwikipedia「火野正平」によると以下のとおり。
1973年、1965年度のNHKの大河ドラマ『太閤記』で緒形拳がブレイクしたことで、第二の緒形を作るべくNHKの指示で改名、池波正太郎が名付け親となり(「火のように力強く」から火野、池波正太郎の「正」から正平)、「火野正平」として大河ドラマ『国盗り物語』に羽柴秀吉役で出演、当たり役となり人気を集めた。
つまり、いずれにせよ火野葦平と火野正平の命名の由来は別で、両者は関係ないように説明されている。
だが、それは本当だろうか? 私にはどうしても信じられない。
「火野正平」の命名者の池波正太郎と、火野葦平は、同じ作家というだけでなく、同じ「芥川・直木賞作家」で「文春文化人」である。基本的に近い関係にある。
もっとも、世代は違い(池波が16歳下)、池波正太郎が直木賞を取ったのは葦平の死後だ。東京生まれで長谷川伸の一派である池波と、九州の純文学界出身の葦平とは、接点がなさそうではある。両者は面識がなかったかもしれないが、作品の掲載誌が重なるうえに、池波は葦平の生前すでに直木賞候補になっており、葦平も池波の小説は読んでいたと思う。
1960年時点では、火野葦平の方が断然有名だ。池波の「鬼平犯科帳」ドラマ化は1960年代の後半で、1970年になれば、池波の方が有名だったろう。
しかし、いずれにせよ、池波が火野葦平の名を知らなかったはずは絶対にない。
火野正平が改名したのが1973年であるのも気になる。それは火野葦平の自殺が公表された1年後である。当然、池波の頭には火野葦平の自殺のことがあったと思われる。
その火野葦平の「葦」を、自分の名前の「正」に変えただけである。池波正太郎は何を考えていたのだろう。なぜ、自殺した先輩作家の名前に自分の名前から1文字加えて売り出し中の俳優につけたのか。
火野葦平の自殺の謎より、こちらの方がよっぽど謎だ。
最近の火野正平は、Vシネなんかでヤクザの大物役をやっている。そういう役が似合う年齢になってきた。(例えばNetflixなどで見られる「織田同志会 織田征仁」での三島会会長役など)
![](https://assets.st-note.com/img/1672895913454-3pgpZ88g5e.jpg)
「花と龍」みたいな火野葦平原作の任侠モノに、今後出演しないとも限らない。
そうすると、原作・火野葦平、出演・火野正平、みたいになる。
ますます混乱する。どうするつもりだ、と思うのだ。
<参考>
火野葦平の「疑わしき武勇伝」↓
火野とインパール作戦・牟田口中将↓
共産党や松本清張との関係↓
谷崎潤一郎「高血圧症の思い出」と火野の自殺との影響関係に触れました↓
映画「人生劇場」にかこつけて尾崎士郎と火野葦平を並べて論じました↓
報われない愛国心 火野葦平、徳富蘇峰、小林よしのり
2024年の葦平忌に書いた記事
太宰治との類似
吉永小百合と火野葦平
火野葦平研究者への批判
火野葦平の8月15日メモ