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風雲!小沢城 川崎市「柿生」中心の日本史[鎌倉〜戦国編]

私が住む柿生(川崎市麻生区)が世界の中心の歴史シリーズ。

戦国時代は歴史ファンの大好物ですが、どうしても京都と、後に天下を取った信長や秀吉がいる関西や中部・東海地方が中心的舞台になります。

その頃は田舎だった関東が地味に扱われるのは仕方ないかもしれません。しかし、近年は、鎌倉幕府が崩壊した後、室町以降の関東の戦国模様も、小説などによく取り上げられるようなった気がします。

ただ、このあたりの歴史は、ややこしくないですか? 鎌倉時代の最初の三代とか、織田信長以降は、面白いし、分かりやすいけれど、その間がグチャグチャしていて分かりにくい。

南北朝とか、応仁の乱とか・・

私は、鎌倉時代のあたりで、日本史の授業についていけなくなりました。

でも、実は、そのグチャグチャのあたりが、私がいま住んでいる「柿生」(川崎市麻生区)が日本史の表舞台になる時代なのです。南北朝も、応仁の乱も、基本的には関東からは遠い京都の話ですが、それらに関連し、関東には関東の戦がありました。

私は日本史はまったく苦手だけれども、自分が住んでいる柿生あたりが、その時代どうなっていたのかに興味があって、調べてみました。「グチャッグチャ」な部分を整理したいと思ったのも動機です。

神奈川の城といえば、小田原城が代表であることに異論はないですが、柿生の近辺、今の川崎市や横浜市、稲城市あたりにも、たくさん城はありました。

近場で有名なのは小机城(横浜市港北区)、枡形城(川崎市多摩区)などです。

もっとも、鎌倉時代にできたそれらの城は、政治の中心地のようなものではなく、天然の山塊を利用した「砦」のようなものでした。

そして、鎌倉時代は、これらの「城」は、実戦ではほとんど使用されなかったようです。

しかし、鎌倉時代の終わりから、戦国時代にかけて、これらの「城」も、わが柿生の近辺も、戦場となりました。

この時代に最も重要だったのは「小沢城」だったようです。

現川崎市多摩区の菅から、稲城市矢の口に渡る地域を、中世は「小沢郷」と言いました。柿生がある「麻生郷」のお隣さんにあたりますが、現川崎市麻生区の一部(高石・細山・金程・向原)も含んだそうです。

この小沢郷にあった、広域の山城が「小沢城」です。多摩川に突出した多摩丘陵の地勢を生かした要害でした。現在の川崎市と稲城市の境に当たり、小沢城址は、よみうりランド周辺の「多摩自然遊歩道」の中に保存されています。

『麻生の歴史を探る』の著者、小島一也は、この小沢城での攻防を中心に戦国時代を語っているので、ここでもそれに従い、整理していこうと思います。

かなり複雑な話になるので、整理が必要なのです。

この小沢城では8回の実戦が行われたとされます。


風雲!小沢城 8回勝負


第1回戦

「サヨナラ鎌倉合戦」(柿生命名)

元弘3(1333)年 
守り:鎌倉北条軍 VS  攻め:新田義貞(足利)軍
Winner 新田義貞軍

鎌倉時代を終わらせた戦い。それまで平和だった柿生周辺が荒らされます。

京都の後醍醐天皇が、鎌倉幕府とバチバチ喧嘩しておった。

いよいよ後醍醐天皇が挙兵するというので、鎌倉幕府の重臣だった足利尊氏(高氏)が、これを阻止するため京都に向かいます。

でも、その途中で、人使いの荒い鎌倉幕府にムカついたのと、自身の野心から、後醍醐天皇側に寝返り、鎌倉幕府に反逆します。尊氏は、鎌倉幕府の京都支社、六波羅探題をさっそく陥落させました。

それに全国の御家人が呼応しました。いまの群馬県に当たる上野国の新田義貞が鎌倉に向かって攻めてきました。

鎌倉北条軍・北条泰家は、分倍河原に布陣してこれを迎え撃ちます(分倍河原合戦)。いったんは鎌倉側、北条軍が勝つのですが、義貞の奇襲に翻弄され、北条傘下の小沢城は落城。菅の名刹法泉寺の薬師堂、細山香林寺所縁の寿福寺などが放火されました。

この情勢を見て、関東の御家人は続々と義貞につきました。義貞は鎌倉を包囲し、最後の得宗(北条本流)の北条高時は自害。

こうして、あっけなく鎌倉時代が終わりました。

私の住む柿生を含む武蔵国は、鎌倉時代は北条氏の領土だったのですが、後醍醐天皇から足利尊氏が武蔵守に任命され、正式に足利氏の領土になります。


第2回戦

「鎌倉ちょっとだけ復活合戦」(柿生命名)

建武元〜2年(1334〜5)
守り:足利軍 VS 攻め:北条時行軍
Winner 北条時行軍(→だけど、すぐに負け)

ところがどっこい、北条高時の遺児、時行が信濃国で兵をあげました。関戸の渡しから多摩川を超え、足利勢がこもる小沢城を撃破します。

足利尊氏の弟、足利直義が、時行を井沢田(今の町田市本町田)で迎え撃とうとしたが、時行はこれも撃破。

勢いに乗って、時行は鎌倉を奪還しました。

これを聞いた京都の足利尊氏は、勅許も得ずに挙兵し、鎌倉を時行から奪い返します。

時行が鎌倉を奪還していたのはわずか20日間。いわゆる「中先代の乱」と呼ばれるものの一環です。(時行は、武士の旧棟梁・北条高時と、現棟梁・足利尊氏の中間の存在として「中先代」と呼ばれた)


ここから京都のほうで、尊氏と後醍醐天皇が仲違いしたりとかいろいろあって、南北朝時代、室町時代が始まります。(京都のほうの話は、私は昔からあんまり興味がない。ウジウジ陰湿で、好きじゃない)

でも、足利尊氏は、「武士の幕府といえば鎌倉っしょ」という思いから、いずれ鎌倉に本拠を移す気もあり、関東に拠点を残します。とりあえずは、弟の足利直義に関東を任せていました。

この「関東支社」が後々、「鎌倉公方」となって、我々柿生住民にはえらい迷惑になるのですが。


第3回戦

「足利の兄弟喧嘩」(柿生命名)
正平6(1351)年
守り:足利直義軍 攻め:足利尊氏(基氏)軍
Winner 尊氏軍

征夷大将軍となった足利尊氏は室町幕府を樹立。しかし、弟・直義とは仲が悪い。結局、幕府は尊氏派と直義派に分裂します(「観応の擾乱」)。鎌倉地方を領有していた直義は、小沢城に軍勢を集めていました。

関東の多くの武士は尊氏に味方して多摩川を渡り、尊氏の4男で初代鎌倉公方の足利基氏が、府中に押し出た直義を打破、小沢城は焼き払われます。

尊氏は是政で多摩川を渡り、稲城、高石、萬福寺、早野、寺家、鴨志田、青砥(中山)と軍を進め、鎌倉に直義を追い込んだとされます。その行路は「尊氏道」と呼ばれ、その跡が王禅寺ふるさと公園などに残っています。

直義は1352年に死にますが、この戦で、小沢郷、わが柿生がある麻生郷の全域が被害を受けました。

また、新田義貞の遺児、新田義興らが鎌倉奪還を目指した「武蔵野合戦」(1352)がありましたが、それについては小沢城は関係なかったみたい。

いずれにせよ、足利の兄弟喧嘩で、わが柿生もえらい迷惑をこうむった。

とはいえ、南北朝の争いは遠い都での話。以後、しばらく柿生周辺は平和な時期が続きました。

しかし、本格的にグチャグチャになるのはここからです。

<続く>




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