【日本保守党16】「万世一系」と百田尚樹のリベラル性
(タイトル画像はYouTube「百田尚樹チャンネル」より。敬称略。これまでの経緯は下の参考記事を参照ください)
27日夜、日本保守党党首の百田尚樹が、がん告知を受けたことを公表した。
がんの部位など、詳細は不明ながら、同日朝の森永卓郎(66歳)のがん公表に次いで、百田(67歳)の公表は、近い世代の者として、ショックであった。
1月に手術するということなので、まずはその成功を祈りたい。
「万世一系」をめぐる対立
以下、池内恵VS飯山陽戦争のなかでは、番外的な話なのだが、あまり注目されなかったと思うので、書いておきたい。
日本保守党界隈と係争中の和田政宗(自民参院議員)は24日、百田尚樹の「日本国紀」の一節を引用したポストに対して、以下のようなポストをした。
貴方が述べている「万世一系でなく、継体天皇で王朝交代」論ですが、根拠としているこちらの文章以外に、根拠はありますでしょうか? お知らせいただければ幸いです。
これを、上念司も同日、リポストしていた。
上念はこれまでも、百田尚樹を、「万世一系を否定する」「皇室と日本の伝統への尊敬が皆無」と非難してきた。
日本保守党界隈と、和田政宗や上念司らの
「どっちが、より保守か」
という争いの一環だ。
私は、和田や上念らの姿勢をまったく評価できない。
いまどき「万世一系」にこだわるほうがおかしい。
私はリベラルであり、現皇室に敬意をもっているが、天皇制には否定的だ。
以下は、そういう人の意見として読んでください。
百田の姿勢
私も『日本国紀』を読んだが、神武天皇からの「万世一系」にこだわらない点は意外に思い、好感を覚えた。
小林よしのりが「男系」にこだわらないのと同じように感じる。(百田は「男系」派だが)
「どっちが右翼か」競争に、上念や和田が勝つとしても、現代の日本の保守として、正しい姿勢は百田や小林のほうだと私は思っている。
「万世一系の嘘」について、私は以下の記事に書いた。
もっとも、『日本国紀』初版での批判にこりたのか、百田はその後、「新版」発行時には「日本は万世一系」を強調していた。
百田は、継体天皇での「交代」について、以下の動画で解説している。
要は、継体天皇で権力の交代があったが、継体は応神天皇の5代あとの孫なので、神武からの男系での「万世一系」は成り立つ、と。
その真実性よりも、「日本書紀」がそのような「設定」にした、という点を百田は強調する。つまりは、フィクションだとしても、フィクションの筋書きに価値がある、という考えだ。
「日本書紀の書き手は、中国の易姓革命ではない、日本の万世一系という設定を守ろうと努力した。その努力が同じ書き手としてわかる」
というわけである。
その考えに同意するかどうかはともかく、神話を頭から信じる姿勢とはちがう。その点を評価したい。
百田は、実在性がはっきりしているのは継体天皇以降であり、それ以前の天皇の実在性はあやしいことも、上の動画ではっきり述べている。
歴史学との融和
いまの天皇陛下は、歴史学者でもある。専門は日本中世だ。
非学問的な「万世一系」で自分たちの地位を基礎づけられるのは、喜ばないのではないか。
歴史学者らしく、天皇はよく過去の天皇の事跡を引用されるが、私の知る限り、いわゆる神話時代にさかのぼって言及することはない。
右翼が好きな仁徳天皇に言及することもなかったと思う。45代聖武天皇あたりから話題にする。
つまり、歴史学的に「安全」な範囲で選んでいる。百田も認める、実在性がはっきりした天皇しか引用しない。
現代の歴史学と矛盾することを、天皇は言わないと思う。そのあたりをくみ取るべきではなかろうか。
右翼の恐怖
池内恵の「日本保守党」に対する過剰反応を見ていると、学者たちの「右翼」への恐怖心は、まだ生きていると感じる。
飯山陽は、池内らを「あっち系(左翼)」のように言うことがあるが、池内は決して左翼ではない。
しかし、リベラル系の学者にも残る「右翼」への恐怖心ーーそれは、丸山真男などに共通していた。
東大はとくに、戦中に右翼にいじめられた。右翼学生に、東大教授がつるし上げられたのだ。池内のような家系なら、そういう「遺伝的」な記憶があるのかもしれない。
その恐怖は、「理屈が通じない」「理性的な対話ができない」という恐怖だ。
百田が、そうした部分を排除しようとしている点を認めたい。
神がかりの「万世一系」にこだわる上念や和田こそ、時代錯誤であり、批判されるべきである。
「保守」のなかのリベラル
百田尚樹も、小林よしのりも、作家なので、思想・言論の自由の価値はわかっているはず。その信頼は私にはある。
池内恵や和田政宗が、つねに保険をかけてものを言うのにたいし、百田や飯山がストレートなもの言いを好む点も、「自由」の価値をわかっていると感じる。
「言論の自由」というのは、そういうことだからだ。失言・暴言の自由まで含めて言論の自由である。
百田の日本保守党は、保守思想上はいい加減かもしれないが、私は、そのいい加減さにある「リベラル性」こそ、値打ちだと思うのである。
少しでも「リベラル」と思われたら、保守の中で価値が下がる、というのは間違っている。
要は、「統制」よりも、つねに「自由」を希求するべきだ。
たぶん、安倍晋三にも、そういうところがあった。
神武天皇や神話の実在性を信じる人は、それはそれでいい。
だが、神がかったことを信じないと「愛国者」になれない、となれば、いまの時代に支持を広げることは不可能である。
私はリベラルだが、健全な保守はもっと発言力を持ってほしい。
そういう点で、日本保守党に期待している。
リベラルも、保守のいい点は、どんどん認めるべきだと思うのだ。
「保守」「右翼」のなかのリベラル性を見逃すのは、リベラル側のよくある誤りである、ということを、思想史家の河野有理・法政大教授(最近この人に共感することが多い)も言っていた。
というか、「右傾化」とされているもののなかには実は本当はリベラル化であるものがずいぶんとあるということなのではないだろうか。
<参考 これまでの経緯>
<日本保守党 参考>
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