川崎・横浜の地理と歴史を要約する 「橘樹郡・都築郡」と「川沿いの人生」
郡制の時代
天皇陛下がインドネシアに行き、ジョグジャカルタのボロブドゥール寺院のことを楽しそうに語られるのを見て、微笑ましく思いました。
現天皇は私と同世代。60を過ぎたこの歳になると、遺跡とか歴史遺産とかが、本当に面白くなる。だから、気持ちがよくわかるんですね。逆に、若い人が一般にそれらに関心が低いのもわかります。私がそうでしたから。
(同時期に、深海の「歴史遺産」を見に行った人たちは、悲惨な事故に遭ったようでとても気の毒ですが)
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私も現在、地元「柿生」を中心に、川崎市麻生区や近隣地域の歴史を訪ね歩くのが趣味で、その一端をこのnoteに書いてきました。
やっぱり、近くの「歴史」を訪ねるのが、カネもかからず、安全です。
そこでどうしても出てくるのが「橘樹(たちばな)郡」「都筑(つづき)郡」といった旧郡制名です。
基本的には、古代の律令制に発する「都筑郡」などの地名が、明治までずっと続いていました。
そしてそれは、現在の「川崎市」や「横浜市」といった区分けと、重なるけれど、かなり違う。
そのことが、歴史遺産を訪ねたときに、理解の妨げになることがあります。
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例えば、つい最近、noteで、麻生区にある「弘法松公園」のことを書きました。
「弘法松」がなぜ重要だったかというと、それが都筑郡と橘樹郡の境界にあったからです。郡境の目印だったんですね。
しかし、現在は、同じ麻生区になっているため、公園の弘法松跡に立っても、当時の「境界」の感覚が得られません。
逆に、麻生区の西部と、現在の横浜市青葉区は、同じ「都筑郡」でした。
だから、当時のそのあたりの人は、現在のような川崎市と横浜市の境界を感じることがありませんでした。
横浜市が誕生したのは明治の半ば、川崎市が発足したのは大正時代です。
それまで、その場所には、「都築郡」「橘樹郡」がありました。
横浜市誕生直前の地図によれば、「橘樹郡」「都築郡」はこんな位置関係にありました。
上述の「弘法松」は、その境界にあったわけです。
「橘樹郡」がおおむね川崎市に、「都築郡」がおおむね横浜市になりました。都筑の名は、今の横浜市都筑区に残っています。
橘樹郡の郡庁は現在の川崎市高津区(千年)にあり、都筑郡の郡庁は現在の横浜市青葉区(江田)にありました。
しかし、現在の川崎市と横浜市の区切りとは、かなりの違いがあります。
以下の、川崎市と横浜市の形や位置関係とくらべてみてください。
目立つのは、かつての都筑郡が、橘樹郡の海に面した部分を大きく奪うようにして、巨大な横浜市になっていることでしょうか。
私が、かつての群制と現在の市制の「ずれ」に敏感になるのは、私が住む柿生が、「元橘樹郡」が多い川崎市でありながら、「元都筑郡」であるという少数派だからでしょう。
ヨコとタテ
川崎や横浜の史跡を回るとき、現在の地図に、かつての群制の地図を頭の中で重ねようとするのですが、これがなかなか難しい。現在の地図とうまく重ならないからです。
現在の「川崎・横浜」の地図と、昔の「橘樹・都築」の地図を繰り返し見比べるうちに、以下のように、おおざっぱにとらえた方がわかりやすい、と思うようになりました。
つまり、
昔の「橘樹郡」と「都築郡」は、ヨコに並んでいる
それに対して今の「川崎市」と「横浜市」は、タテに並んでいる
おおざっぱな位置関係としては、このように捉えられることが、地図でわかると思います。
かつての橘樹郡より、現在の川崎市は、西に張り出していることがわかります。海の方で奪われたのを、山の方で少し取り戻したような感じです。それによって、上下に、つまりタテに並んでいる印象がより強まります(それで、私の住む柿生は、かつての都築郡から、現在の川崎市となりました)。
それによって、こんな変化もあります。鎌倉時代、有名な「いざ鎌倉」のルートで、関東から武士たちが鎌倉に集まろうとするとき、府中の方から、上述の「弘法松」を経て、橘樹郡を通らずに、鎌倉に行けましたが(下図参照)、現在の同ルートでは、川崎市を通らないと鎌倉市に行けません。
なぜヨコ関係からタテ関係に変わったか?
それにしても、なぜこのように変わったのか、を考えるうちに、その理由がわかった気がしたんですね。
もしかしたら、専門家とかには常識のようなことかもしれませんが。
なぜ、かつての橘樹郡と都筑郡が、ヨコに並ぶようにできていたかというと、多摩川と鶴見川に沿って人びとが住んでいたからではないでしょうか。
川に沿って文明が始まるのは、それこそ常識でしょう。同じ川沿いの住人たちは、治水を含めて管理する一蓮托生の共同体になる。
この地でも、2つの大きな川(とその支流)に沿って村や街ができていったと思うんです。それが「橘樹郡」「都築郡」という2つの塊りになったと考えるのが自然でしょう。
鶴見川は、最後の方で「お前どうしたんだ」と言いたくなるほどひん曲がって、最終的にはかつての橘樹郡で海に注ぐのですが、ほとんどは都築郡の中を流れます(いずれにせよかつての都筑郡は海に面していませんでした)。
いわゆる鶴見川水系と多摩川水系です。
多摩川は、東京と神奈川の境界になっていますが、多摩川の両岸で同じ地名が多いのはよく知られています(布田、等々力、宇奈根、和泉、丸子、沼部、瀬田など)。
それは、多摩川が流れを変えて、同名地域を分断したからだ、と説明されますが、川を生活のまん中に置いて、その両岸で同じように人が住み始めるのは、本来自然なことに思えます。
(ちなみに、川崎とは、多摩川の先=向こう、という意味でしょう)
それが、なぜ今の「川崎」「横浜」の、タテに並ぶ形に変わったかというと、鉄道の線路に沿って区切り直したからではないでしょうか。
横浜・川崎が誕生したのは、ちょうど東京からの鉄道路線が完成したころでした。
東京から伸びる鉄道にそって分けるならば、現在のような位置関係が自然なのがわかります。
鉄道や橋は、川を垂直に横切る(それが最短距離だから)。
川ではなく、線路沿いに生きるようになれば、生活圏が90度ひっくり返り、ヨコがタテに変わるわけですね。
本来、川の恵みに頼って生きていた人間が、遠くに移動する必要が生じると、川が障害だと意識されるようになる。
その価値観の逆転によって、人間にとっての「地理」も90度回転する、というのがおもしろいと思ったのでした。
鉄道が「川に沿った生活」を無視して走り始めると、かつての「都築郡」「橘樹郡」の地理感覚も失われていく。
さらに車が普及して、道路が縦横に引かれるようになると、川のウエイトは生活意識の中で無に近づいていく(かつての都筑郡庁の遺構は道路工事で消失したそうです)。
かつて川は住人の生活のすべてとも言えるものだったはずですが、現在では単なる「風景」になった(たまの氾濫でその存在に気づくまでは)。
このあたりに住めば、どこであろうと、そばに多摩川か鶴見川の支流が流れているはずですが、引っ越してくるとき、それを気にする人は少ないでしょう(たぶん農業関係者以外は)。気にするのは、鉄道駅との距離です。
「川沿い人生」と「線路沿い人生」
もちろん、世界を広く見渡せば、川を中心に生きている人はまだたくさんいるでしょう。
昔、九州に住んでいたとき、「川筋(かわすじ)もの」という言葉を聞きました。
ざっくり言えば「乱暴者」「ヤクザもの」という意味です。
普通には、筑豊を流れる遠賀川沿いの炭鉱夫や、それが海に注ぐ北九州市若松区の港湾労働者の気性の荒さを指す、と言われます。若松は、かつて「花と龍」などの任侠映画のロケ地でした。
しかし、私はそういう説明を聞くたび、納得できないでいました。「川、関係なくね」と思ったからです。石炭の積み出しというなら、川というより海が関係あります。
ただ、川沿いの人たちへの、一種のマイナスイメージは感じたものです。
仮にそうした差別意識があったとしたら、それは、川沿いに生きるのは時代遅れで貧しい生活だ、いい生活は川を離れた都会にある、みたいな価値観があるのかもしれないと思ったのです。
我々は、川の有難さを忘れたばかりか、むしろ忌避している感じがある。
しかし、私のように退職して、通勤電車に乗らなくなると、線路や道路を中心に考える生活から、意識の上でも遠のいていきます。
そして、川沿いに生きる生き方が自然だと考えるようになるんですね。
現在の私にとって、川沿いの散歩ほど心が休まるものはありません。
だから、今や、「川崎市」「横浜市」の区切りよりも、「都筑郡」「橘樹郡」の方が心にそうようになりました。
「川沿いの人生」と「線路沿いの人生」という対比を考えたりします。
私は「鉄オタ」の心理がわからないですね。鉄道なんて、つい最近のものに、そんな魅力があるのでしょうか。
私は断然、川沿いの人生を選びたいですね。
ところで、「都筑郡」「橘樹郡」にも、それぞれ個性がありました。
昔読んだ『オオカミの護符』には、伝統的に橘樹郡の方が豊かで、都筑郡の人は橘樹郡を羨望していた、みたいなことが書いてあったと思います(本が手元から消えたので確認できませんが)。作者の小倉美恵子さんは、代々橘樹郡に住む、現在の川崎市宮前区土橋の人でした。
「弘法松」伝説なども、都筑郡の人が橘樹郡への対抗意識で作ったのではないか、と思ったりします。
都筑郡や橘樹郡について、さらに調べていきたいと思います。
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