手が小さくても弾ける「細幅」ピアノが世界で普及しはじめた
いまの鍵盤は「女性差別」?
ドイツのTVニュースで「細幅」ピアノが紹介されたーー。
元ドイツ語教師で、日本での細幅ピアノ普及に努めている「Kurze Finger」さんが、そんな動画を17日にYouTubeに投稿し、ピアノ愛好家に反響を呼んでいます。
南西ドイツ放送テレビのニュース(4月13日19時半)で、細幅鍵盤が紹介されました。シュトゥットガルト音楽演劇大学のピアノ科教授、U.ヴォールヴェンダー氏が、スタインウェイのコンサート・グランドにDS 6.0の鍵盤(標準鍵盤の15/16サイズ)を装着し、これを普及させようとしているのです。(Kurze Fingerさんの動画解説)
ドイツのTVニュースで、細幅鍵盤(DS 6.0)が紹介されました(Kurze Fingerチャンネル 2024/5/17)
この動画では、とくに現在の鍵盤の幅が、女性ピアニストに不利であることが問題にされています。
手の大きな男の作曲家が書いた曲を、女性が弾くと、どうしても手のサイズが合いません。
現在のピアノは、鍵盤の幅が広すぎて、手の大きな人しか弾けない。
手の小さい女性ピアニストは、男性にくらべていちじるしく不利になっている。
あるいは、
誰であれ、もう少し幅が狭いほうが、弾きやすい。
ーーという声はむかしからあり、西洋のプロのピアニストでも、幅の狭いピアノを特注する人は、戦前からいました。
有名なのは、ラフマニノフも尊敬していたという名ピアニスト、ヨゼフ・ホフマンです。手の小さいかれは、いつも特注の細幅ピアノを持ち込んで弾いていました。
ホフマンは非常に小さな手をしており(だが人並外れて丈夫な手だった)、他の有名な手の小さいピアニストのように難儀していた。スタインウェイ社はホフマンのために、鍵盤が1オクターヴごとに-現在の標準的な6.5インチよりも-1インチ狭い特製ピアノを造った。これをホフマンは、心持ち楽だと述べたという。
(Wikipedia「ヨゼフ・ホフマン」)
細幅ピアノを弾くホフマンの映像↓
まして、体格で西洋人に劣る日本人には広すぎる。
ーーと、戦後の日本では、作曲家の中田喜直さんが、「細幅」ピアノの開発と普及に尽力しました。
それについては、3年前に、わたしも書いたことがあります。
もちろん、鍵盤を狭くしても、従来の音質や音量に影響ないのが前提です。
日本でも、中田などの働きかけで、かつてヤマハは「細幅鍵盤」として、カワイが「縮小鍵盤」として、特注品として製造したことがあったようですが、いまは製造されていません。
いまにいたっても、「細幅」ピアノが定着したとは言えませんが、上のドイツのニュース映像を見ると、ようやく普及に弾みがついた感じがします。
クラシックの本場、ドイツの音楽大学で使われ始めている、というのは大きいですね。
「DS6.0」という規格
その原動力となっているのが、「Kurze Finger」さんの解説文にある「DS 6.0」という鍵盤規格です。
これは、アメリカのDSスタンダート財団(D.S. Standard Foundation)が開発・普及している規格で、おもに以下の3つの鍵盤サイズを提案しています。(DSとは、二人の団体創設者名Donison-Steinbuhlerから)
オクターブサイズの3つの規格
DS6.5 (現在の標準)6.5インチ(16.51センチ)
DS6.0(新しい標準)6.0インチ(15.24センチ)
DS5.5(現在の7/8) 5.538インチ(14.06センチ)
(以上は大人向けのサイズで、それ以外に子供向けのDS5.1などがあります)
上の動画で紹介されているのは「DS6.0」、15/16サイズとも言われます。
1オクターブで、現在より約1センチ強狭い。DS財団は、これを「ユニバーサルサイズ」にしようと運動しています。
ヨゼフ・ホフマンのピアノは、「1オクターブで1インチ狭い」とありますから、もっと狭い「DS5.5」だったわけですね。
実際に、中国の大手ピアノメーカー「Hailun(ハイルン)」は、「DS6.0」「DS5.5」「DS5.1(子供向け)」スケールのアップライトピアノを販売しており、日本でも買えるようです。
「Kurze Finger」さんのHPによれば、4月14日に、このピアノ(DS6.0)を弾けるスタジオが文京区に開設されました。
以下は、Hailun社の宣伝動画(英語)ですが、女性ピアニストが「細幅ピアノを最初に弾いたときは感激のあまり思わず泣いた」と語り、PASK(狭い鍵盤の普及運動、下の追記参照)について解説しています。彼女が着ているTシャツが素敵!
Learn About the D.S. Standard Foundation and PASK!
10度を楽に弾ける幅
どのくらいの鍵盤の幅が妥当なのか。
これについては多くの研究や議論がありましたが、むかしから、「ふつうの手で10度が楽に届く幅」が基準になってきたと思います。
10度とは、「ド」から、上の「ミ」までの距離。
シマノフスキ、スクリャービン、ラフマニノフ(かれらは手が大きかった)以降の楽譜には、10度の和音がふつうに出てきます。
ジャズでも、10度の和音は頻出します。
DS財団のHPに、
「オスカー・ピーターソンのように10度を自由に弾きたい」
という女性ピアニストの声が、開発の基準を示すものとして引用されています。
現状では、むかしより体格が向上した現代の日本の成人でも、10度が届かない人は珍しくない。とくに女性では多いでしょう。
わたしも、左はぎりぎり届きますが、右手は9度しか届きません。
そして、「ぎりぎり届く」だけでは、たとえば10度を連打するような演奏はできません。
いまの西欧人男性でも、「楽に届く」とは限らない。
手の大きさの問題で、バレンボイムはバルトークの協奏曲の何番かが弾けないと言っていましたし、クリスチャン・ツイメルマンもシマノフスキは難しいと言っていました。
上のドイツの番組でも、その理由から、手の小さい女性ピアニストはバッハやモーツアルトなどでしか才能を発揮できないと言っています。
10度が楽に届くためには、親指と小指をいっぱいに広げた幅(ハンドスパン)が、24センチくらいないといけないはずです。
インチに直せば、9.5インチくらいです(1インチ=2.54センチ)。
下のDS財団のグラフでわかるように、西欧男性でもハンドスパンが9インチない人は少なくないですし、女性はほとんど9インチ以下です。9インチでは、10度にぎりぎり届くくらいで、ほぼ余裕はないでしょう。(私の右手は、8インチ=約20センチ=くらいしかありません)
このDS財団のグラフは、DS6.0の鍵盤を使えば、8インチ前後の人でも10度に届く、ということを示しています(が、私くらいの手では、もう少し狭い「DS5.5」がありがたい)。
細幅鍵盤の普及団体「PASK」は、現在の「DS6.5」では、男性の76%、女性の13%しか適応できないが、「DS5.5」にすれば、すべての男性と、女性の89%が適応できると主張しています。
以下は、「Kurze Finger」さんが、標準鍵盤と細幅鍵盤(7/8)で、10度を試奏している画像です。
出典↓
まあ、そうしたわけで、洋の東西を問わず、オクターブは今より1センチは狭い方がいい、と言われてきました。
たとえばパウル・パドゥラ=スコダは、1982年11月27日の毎日新聞で、こう言っています。
「昔はもっと狭かった。いまの幅は北欧の大きな演奏家に合わせただけで、音楽的な必然性はないのです。シューベルトは日本人と比べても小柄だったが、その作品に私でもつらいほどの広い和音があるのは、そのためです。鍵盤の幅が狭いピアノを弾いたこともあるが、とてもうまく弾けた。演奏本位に考えれば、一オクターブでいまより九ミリ狭くしたい。でも、普通のピアノを違和感なく弾けるためには五・五ミリがいい。これでも大半のピアニストはずいぶん楽になるでしょう」
(「鍵盤の幅をもっと狭くと提唱するピアニスト」中田喜直『音楽と人生』p139の引用より)
パドゥラ=スコダが言っている「普通のピアノを違和感なく弾けるために」というのは、ひとつのポイントです。
つまり、現在の標準サイズで練習した人が、狭い「DS6.0」を弾いても違和感がないそうですが、「DS6.0」でだけ練習した人は、現在の標準サイズに戻れなくなる恐れがあります。
だから現状、標準サイズ(DS6.5)のピアノを弾く機会が多い人は、「DS6.0」に移行するのをためらうかもしれません。
「DS6.0」を普及させるためには、演奏会も、コンクールも、「DS6.0」で弾けるようにしなければならない。
上のドイツの映像でも言っているように、せめて現在の標準サイズのピアノにまじって、まずはコンサート会場に「DS6.0」のピアノが1台、オプションとして常備されるようにすべきでしょう。
バレンボイムの「細幅」ピアノ
ところで、これも「Kurze Finger」さんのHPで知ったのですが、2023年10月15日の「朝日新聞」で、編集委員の吉田純子が中田喜直のことを書いていました。
中田の「細幅」ピアノ普及活動については、以下のように書いています。
中田さんは本気だった。通常より1オクターブが約1センチ狭いピアノを考案。はからずもそれはショパンの時代のピアノとほぼ同じサイズだった。ショパンも手が小さかった。
甘党の中田さんをケーキで誘い出して雑談した時、このピアノの話になった。「現実には難しいのでは」と問うと、こう返した。「難しいとしか言わない人は、大体において現状を変えたくない人なんですよ」
手が小さいから仕方ない。戦争だから仕方ない。仕方ない、と諦めざるを得ない立場にいる人々への労りと、そう言わせている人々への怒りが強い語調ににじんだ。あなたひとりが頑張ってもどうしようもないのだ。そんな風に個の意志を冷笑する人たちが、やがて多数派という「権力」になってゆくのだと。
99年、特注したピアノを携えてドイツとオーストリアへ。講演で普及を呼びかけた。「大好評。帰ったら、詳しく報告します」。角張った文字が3枚の便箋の上で誇らしげに躍っていた。翌年、がんで旅立った。鍵盤幅の狭いピアノの開発は今も、ピアニストのダニエル・バレンボイムらが独自に取り組んでいる。
(朝日新聞「少数派の痛み 見ぬふりしない」)
まあ、なんでもかんでも「反戦」とか「反権力」に結びつける、朝日新聞のサヨク構文にヘドが出ますが。(久しぶりに朝日の記事を読んで、鳥肌が立ってしまった。なんでプロパガンダ以外の文章が書けないのか・・)
そういう思想偏向とともに、
「鍵盤幅の狭いピアノの開発は今も、ピアニストのダニエル・バレンボイムらが独自に取り組んでいる。」
というのは、情報としても、視野狭窄で偏向しています。
手が小さいバレンボイムが「細幅」ピアノを開発したのは事実ですが、中田の運動と直接関係ないと思いますし、より重要なDSスタンダートに触れていません。
バレンボイムは、自分が開発したスタインウェイのピアノを、2015年に大々的に発表しました。
The 'radical' Barenboim piano unveiled(NewsUK 2015/5/28) *記者会見時の映像
そのピアノでリストなどを録音したCDを、わたしも持っています。
Daniel Barenboim - On My New Piano - Domenico Scarlatti (Trailer) *上記CDの宣伝動画
2021年の来日コンサートでも、そのピアノを持ち込んで弾いていました。
そもそもバレンボイムのピアノは、「細幅」が目的ではなく、「ストレートストラング straight strung」を特長としていました。これは、20世紀のピアノのように弦を内部で交差させず、まっすぐに弦を張る19世紀までの様式で、音の混濁が少ないと説明されました。
とはいえ、記者発表時はつまびらかにされませんでしたが、そのピアノが「細幅」だったのは事実です。
バレンボイムのピアノは、どの程度「細幅」か、については、以下の倉田調律師の証言があります。
アクションはスタインウェイそのもので、鍵盤の幅が少し狭く、鍵盤全体にすると3~4鍵分くらいの差があったと思います。普段はドからかろうじてレまで(9度)しか届かない私の手で、10度届きました。
(ダニエル・バレンボイム 16年ぶりのピアノリサイタル「マーネ・ピアノ」を調律して 調律師 倉田尚彦さんインタビュー 2021/06/24公開)
バレンボイムのは、おそらく「DS6.5」と「DS6.0」の中間サイズなのでしょう。
前述のパドゥラ=スコダが言っていた、「1オクターブで5.5ミリ狭い」に近いのではないでしょうか。
DSスタンダート財団は、この「バレンボイムサイズ」よりも、さらに狭い「1オクターブで約1センチ強(狭い)」を標準化しようとしています。
これは、ほとんどのピアニストにとって、間違いなく福音です。天国の中田喜直も大満足でしょう。
日本人としても、この標準化に賛同し、その普及をビアノ教育界やピアノメーカーに働きかけていくべきではないでしょうか。
<追記>
上でも触れたPASKという団体が、「DS6.0」や「DS5.5」のピアノをコンサート会場、学校、スタジオに普及させようと運動しています。PASKは、「PIANISTS FOR ALTERNATIVELY SIZED KEYBOARDS」という意味。
オーストラリアの鈴木メソード指導者たちが創設したそうです。
公式サイト(英語)↓
<参考>
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