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弾いて味わう天才の真髄 モーツアルトの緩徐楽章ベスト3


私の楽譜棚でひときわボロボロなのが、モーツアルトのピアノソナタ集だ。

高校生の頃、学校のピアノで弾いたのが最初だから、もう40年以上前だ。

実家にはピアノがなかったし、サラリーマン時代のアパートにもなかった。お金があっても賃貸ではピアノが置けないし、そもそもお金がなかった。

でも、楽譜だけは細々と買い集めていた。いわばピアノのイメージトレーニングだ。私は絶対音感はないが、頭の中で音楽を鳴らすことはできる。モーツアルトの楽譜は最も古く、やはり40年くらいは眺めている。

50歳前に安い電子ピアノを買って、定年後の今にいたっている。

独学ゆえにテクニックの限界がある。

モーツアルトのピアノソナタの(通常第2楽章に置かれる)緩徐楽章は、そんな私にも優しい楽譜だ。

モーツアルトの音楽は、簡単そうに聞こえて難しいとは、言い古されたことだが、一面事実である。意外に暗譜しにくい、というのはリヒテルも言っていたと思う。

しかし、あまり気難しく考えるのもどうかと思う。

ピアノの実奏に飢えていた私は、会社の近くにあったスタインウエイのショールーム(東京御茶ノ水、今あるかどうかは知らない)に行って、時々触らせてもらっていた。スタインウエイなんか一生買えないのだから、冷やかし客にちがいないので、遠慮して弾いていた。

ある日、小学生くらいの男の子が、そこでモーツアルトのK330のハ長調ソナタを試奏していた。私はその演奏に聞き惚れて感動してしまった。子供が無心に弾いても十分美しいのがモーツアルトである。

今でも、電子ピアノの前に座ると、指が奏で始めるのは、モーツアルトの緩徐楽章であることが多い。

40年、さまざまな楽譜を眺め、頭の中で訓練しても、暗譜しているのは、いくつかのモーツアルトの緩徐楽章だけなのだ。それも、かなり怪しい暗譜で。

いまはボケ防止を兼ねてそうした曲を弾く。

ピアノソナタの緩徐楽章だけを取り出して弾かれることは、通常のコンサートではないだろう。

しかし、アンコールで弾かれることはある。ダニエル・バレンボイムは、故郷のアルゼンチンでおこなったデビュー50周年コンサート(メインはアルベニス「イベリア」)で、乗りに乗って10曲以上のアンコールを弾いたが、最後に弾いたのがモーツアルトの「やさしいソナタ」(K545)の緩徐楽章アンダンテだった。

ピアノ学習者が最初に弾くようなその曲を、現役最高のモーツアルト弾きが記念コンサートの最後に弾いたのは、もちろん誇りとメッセージを込めている。

こうしたゆっくりした、単純だが偉大な楽譜にこそ、音楽の真髄がある。演奏はテクニックではなく、その偉大さを伝えられるかどうかだ、みたいな。

バレンボイムは別の機会に、アンコールでK330のアンダンテ・カンタービレも弾いていたと思う。

どちらも、私がよく弾いている曲だ。もう1曲をくわえ、ベスト3としてみた(順位はつけない、つけられない)。


1)K330ー2 アンダンテ・カンタービレ へ長調

そのアンダンテ・カンタービレだが、私の楽譜では、ちょうど見開き2ページに収まっている。

そのわずか2ページの中に、モーツアルトの全てがあると言ってもいい。

小洒落たターンと共に、へ長調で始まるが、すぐにハ長調、ハ短調、変ロ長調と調性を揺らして変化をつけ、心地よい陶酔に誘う。

カンタービレだから歌わなければいけないが、左手がオクターブで動くので、意外に分厚い和音が鳴るーーそれにも耳が惹きつけられる。

特に私が好きなのは、16小節目のdorce(ドルチェ・柔和に)のところで、ここでの「転調感」に私はいつも「持っていかれる」。別世界に連れていかれるのだ。

そのあと、ピアニシモで長調から短調に移る(23小節目)。「モーツアルトの短調」の、悲しいというより淋しい笑みの世界だ。ずっと弱音の箇所なので、演奏は神経と心を使う。

それが変イ長調になってパッと視界が開ける(32小節目)と、さらに2小節ごとに調性感が変わるような箇所を経て、へ短調に回帰する。

ここまでで、まだ1ページ分くらいだ。もう相当変化にとんだ「旅」をしてきた感じがする。

かなり遠くまで来たーーと感じたところで、へ長調に戻り、「帰路」につく。コーダに入ると、優しく「お疲れさま」と言われている感じがする。そういう音楽だ。

わずか5分でも、モーツアルトを弾いた充実感をいつも味わわせてくれる。


2)K545ー2 アンダンテ ト長調

「やさしいソナタ」の「やさしい」楽章。

私が最初に取り組んだモーツアルトがこれだった。

そして、いまだにちゃんと弾けない。

この曲は4ページあって、意外に長い。緊張感を途切れさせずに弾き、聞かせるのは至難の業で、しかもごまかしが効かない。これをアンコールの最後に弾いて聞かせたバレンボイムは、やはりすごいのである。

楽譜も単純に見えて難しく、暗譜で弾き始めて自信がなくなる箇所がいまだに2、3箇所ある。

初心者向けに書かれた曲だから、単純な繰り返しの音形が多いのだが、そういう音楽でも、モーツアルトの本能みたいなのがうごめいて、少しずつ変化する。そういう部分が覚えにくい。

強弱記号なども原典にはなかったので、どう聞かせるかは奏者に任せられている。

しかし、頭で「演出」を考えていると、指が単純な音形を外したりする。

K545全体がそうだが、この曲をどう弾くかは、プロにも難しい問題ではなかろうか。一種の練習曲として、「模範演奏」をするのはプロなら容易いだろうが、それでは弾いていても面白くないだろう。

全てレガートで弾くと面白くないので、スタッカート気味にしてみたりと色々工夫して弾いている。

モーツアルトでは、いちばん長く弾いている曲だが、飽きない。


3)K310−2 アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッシオーネ へ長調

ピアノソナタの緩徐楽章でもう1曲選ぶなら、この曲で広く異論はないのではないか。

劇的なイ短調ソナタの第2楽章。モーツアルトとしても渾身を傾けたことがわかる、6ページにわたる「大曲」だ。

エスプレッシオーネ(表情豊かに)で弾かなければならない、完全にプロ向きの曲だと思う。テクニック的にも難しい。

でも名曲なので、何度も挑戦している。

嵐のようなハ短調の中間部は、ほとんどショパンのようになる。

つっかえながら弾いても、必ず興奮してしまう。

そして、最後まで弾くと、ぐったりと疲れてしまう(とても3楽章に移れない)。バレンボイムでも、さすがにこの曲をアンコールでやれまい。

この曲含め、K310が全部弾ければ、モーツアルト弾きとしては免許皆伝ではないか。

それを生涯の目標として、今日も楽譜に向かうのである。






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