命の灯が消えるときー志賀直哉『城の崎にて』
志賀直哉『城の崎にて』(新潮文庫『小僧の神様・城の崎にて』収録)、読了。
交通事故を経験した筆者が、その後の心理状況を実際の出来事とともに綴ったものです。ストーリーも文体も洗練されていて、古典となるにふさわしい感じがしました。書いていることはまったく古くないのに、内容がいつの時代にも通じそうなことだった…。
※ネタバレがあるので、アウトな人はリターンを!
志賀直哉
1883年生まれ、1971年没。ちょうど明治維新を経験した世代ですね。この頃には夏目漱石や、その門下の芥川龍之介も時期を重ねています。
柳宗悦らと文芸雑誌『白樺』を創刊。「小説の神様」といわれています。徳冨蘆花の著書も読んでいた模様。
(わたくし徳冨蘆花の文章も大好物であります。そのうちnoteに書くかもしれません。)
『城の崎にて』
『城の崎にて』は、1917年の5月に白樺で発表された、私小説です。舞台は兵庫県の城崎温泉。平安時代から1300年もの歴史をもつ温泉です。志賀直哉、有島武郎ら明治の文豪にも愛されてきました。
著者は交通事故に遭い、その療養のためにと城崎温泉を訪れます。この小説は、そのとき経験した出来事を書いたものです。
死に近づいた人間
ちょっと重いタイトルですが…汗
交通事故で著者は一度死に近づきます。けがは「フェイタル」なものではなかったのですが、それでも城崎温泉で出会う生き物の生きざま、死にざまに心を揺り動かされます。
蜂、ねずみ、やもりと印象的なモチーフが歩くテンポに合わせるように現れます。みな、死に近い存在として描かれます。
それらに自らの姿を投影する筆者。医師に、傷が「フェイタル」だと言われていたら、きっと自分は生きようとしたことだろう。しかし、その深刻さに、自分が生を求めても助からない、ということに気づいていなかったら…。
温泉街の中を筆者が歩くのに合わせて、一緒に歩いているような感覚になります。それは、私たちも生き物と、そしてこの筆者と同じように、生きるものであるということを示しているようにも思えます。
そして、物理学を学んでいる身としては、ここが印象に残りました。
「生きていることと死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。」
ー新潮文庫『小僧の神様・城の崎にて』より
古来から中世に至るまで、生きているものは特別視されてきました。生きているものには特別なものが宿っていると考えられてきたのです。しかし、生き物だって自然の一部。物理法則に従って生きています。
それを志賀直哉はわかって書いたのでしょうか。それとも…。
志賀直哉はいいな
テーマの重さに負けず、美しい構成と文体をもつ、永遠の輝きをもつ作品だと思いました。その輝きはいぶし銀で、かつぬめりのあるようなものに感じられます。
あとがきを見ると、彼は読者のことを考えずに書くタイプだったようです。こういうやり方もありか…と、少し視界が広がりました。
『佐々木の場合』も読みましたが、私はこちらのほうが好きだな。
志賀直哉、いいな…。
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新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/book/103005/