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打越研究室/打越さんの生きざま
和光大学の入り口にある通称「和光坂」を早歩きで登り、A棟のエレベーターで8階へ向かう。エレベーターをおりて少し歩くと、そこに社会学者・打越正行さんの研究室はあった。
研究室の外には小さな棚があり、配布資料や書籍、女性支援の学生団体によるナプキンなどが置かれている。
「キツくなったら、ふらーっと寄れる、そんな研究室にしときたい。」
そんな思いから研究室は常に開放されていて、学生だけでなく学外者も自由に訪れることができた。
また「いないときでも勝手に入って食べたり飲んだり自由に使ってくださいねー」と言っていて、学生が好きなタイミングで部屋を使えるように廊下の棚のなかに鍵が隠されていた。
研究室の扉には細長い窓がはめこまれている。窓を一部隠している研究室が多いなか、打越研究室は廊下からでも中が見えるようになっていたため、ノックしなくても安心して入室できるようになっていた。また先客の顔ぶれをみて、学生たちはその繊細な人間関係に応じて入室するかどうか考えることができた。
小窓を覗いて、スクリーンの向こうに打越さんの足もとが見えるときは、ひとりで仕事をしているという合図だった。
研究室はパソコン仕事をするための「デスクエリア」と、来客と長机を囲んでおしゃべりすることができる「歓談エリア」にわかれていて、エリアを区切るために天井からロール式スクリーンが吊るされている。打越さんはスクリーンを空間を仕切るためのカーテンとして日常使いしており、仕事中はおろすことで廊下からの目を遮り、集中できる環境を整えていた。だが前述のとおり、研究室はいつでも入っていいことになっていたので、学生たちはそんな仕事中の合図でもお構いなしに部屋に入っていった。
部屋に入るとオダギリジョーのラジオ「au FG LIFETIME BLUES」(もしくは坂本龍一や作業用音楽)のBGMが聞こえてくる。打越さんはキャスター付きのデスクチェアに座ったままロール式スクリーンを一瞬で巻きあげて、「なに飲みます? 珈琲でもいれますかー」といって、いつもあたたかく迎え入れてくれた。仕事を放っぽり出してのお茶会では、打越さんの悩みごとや講義の構想、学生の自慢を聞いたり、わたしも講義の感想や仕事のこと、子育ての相談などを交換しあうように話した。
あるいは打越さんが仕事をするなか、歓談スペースで学生たちと時間をすごした。学生たちは空きコマの時間潰しの場として休憩したり、冷蔵庫にあるご飯を食べさせてもらったり、人生相談がおこなわれたり、社会人は仕事をしたりしていて、大学のなかで(社会人にとっては社会のなかで)ひと息つくような隠れ家のような場所になっていた。
こんな様子で開かれた場になっていたので、本当に締切に追われているときはネットカフェにこもって執筆していたという。
研究室の空間は、打越さんの人間性をそのまま映し出していた。他者と壁をつくることなく、風通しの良い環境を大切にし、必要に応じてすぐに開かれるスクリーンのように、常に外からの交流や干渉を受け入れる姿勢をもった人だった。
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集中することが難しい仕事場には、普通のオフィステーブルと立ち仕事ができる昇降式テーブルがあり、腰痛予防のために姿勢を変えながら仕事できるようになっていた。パソコンと大きなモニターには、打越さんの個人名刺の写真でもある調査で撮影した写真(バイクの2人乗り)が飾られている。
テーブルの上には自作の手書きカレンダーが置かれていたが、アナログなスケジュール管理のため、出先で予定を確認できず、ダブルブッキングも多かった。過去の映像から、15年ほど前から自作カレンダーを作り続けていたことが分かる。
歓談エリアには長机が置かれており、その都度、自分でパイプ椅子をひろげる仕組みになっていた。この歓談スペースは、講義後にはアフタークラス(ご飯を囲む交流の場)の会場になる。6脚ほどのパイプ椅子では足りず、椅子がわりにダンボールや机、床に座ることさえあった。アフターのご飯目当てに講義をとっていない学生がくることもあり、研究室に入りきらないときは別の部屋で1次会を行い、そのあと人数が減ってきてから研究室に移動して2次会をひらいていた。
冷蔵庫には、アフタークラス用のお酒や食材、調味料がつめこまれている。夏は粉から抽出したアイスコーヒーが硝子ピッチャーに入っていることが多かったが、1日経っても飲みつづけていたので、酸化していることもあった。ほかにもキムチが入っていたプラスチックの容器に入ったお手製の辛味噌や、鶏皮を焼いて出た油のストックなどがあり、倹約家でマメな一面があった。
冷凍庫には、学生たちによく分け与えていた冷凍食品のパスタやグラタン、自炊のお米、広島風お好み焼き(沖縄時代、妹さんを連れ出すためにキッチンカーでお好み焼き屋をやっていた時期があり、得意料理だった)、年単位で保管されていた大根のすりおろし(数年前に畑で種を蒔いたら大量に採れたらしい)、アフターのために製氷皿でせっせと作りためた氷、アイスがわりにといつも薦めてくれたチチヤスヨーグルトなど、いつも食べ物がいっぱい入っていた。
調味料やお酒は、研究室の両脇にある本棚にもたくさん置かれていた。食材は業務用スーパーで調達していて、味醂は本味醂ではなくみりん風調味料を買うタイプだったが、塩だけは「真鯛のだし塩」に激ハマりしていてネットで購入するほどこだわっていた。「何に入れてもうまくなるんすよ」となにかにつけて鯛塩の良さを熱弁していた。
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研究室の窓際には、自分で汲んできた水がたくさん並んでいた。2Lペットポトルを使い回していて、「ペットボトルは雑菌が繁殖するし、何日前からあるのかわからないから怖い」と言うと「煮沸すれば大丈夫ですよー」とひょうひょうとした顔で話していた。たしかにこのいつ汲んだかわからない水は、お湯をわかすときと植物に水をあげるときにつかっていて、氷をつくるときや飲み物割りものは新鮮な水を使っていた。
ところがあるとき、同じブランドのミディペットボトルを毎週講義にもってきていたので気になって質問すると、自作の珈琲をいれて水筒がわりにしていることが判明した。例のごとく、洗わずに注ぎたしているということで雑菌が繁殖して危ないから水筒にしたほうがいいと注意したら、「まずいですかねえ」と言いながらしぶしぶ捨ててくれた。本人曰く、菌に強いタイプだということだが、焼肉のときに生肉をとった箸のまま食べて救急車で運ばれたことがあるらしく、たんに運がよかっただけだと思う。
窓際には水のほかにローズマリーの鉢があった。打越さんはこのローズマリーを消臭剤がわりにしていて、「こうすると部屋がいい匂いなんですよ」と葉をそのまま鷲掴みにしていた。栄養が足らなかったのか、揉みすぎたからなのか、ローズマリーは痩せ細っていく一方だった。
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研究室は開かれた空間ではあったが、打越さんの自室のような側面があった。原稿の締切に追われて泊まり込むこともあり、折りたたみ式の仮眠ベッドや歯磨きセット、着替えが常備されていた。仮眠ベッドは、打越さんが酔ったときに休んだり、学生が休憩に使ったり、椅子代わりに活用されることもあった。
また壁面のいたるところには、思い出の記念写真や手紙、寄せ書きなどが飾られている。デスクの引き出しにも手紙がしまわれており、みんなから寄せられた思いを大切にしていることが感じられた。
研究室は不在時でも打越さんのにおいがして、人の部屋におじゃましている気分になった。名誉のために補足するが、けしてくさいわけではなく、1日のほとんどを研究室で過ごしていたので生活のにおいが漂っていたのだと思う。
膝のうえで指先をこすり擦り合わせ、髪の毛をさわり、Tシャツの肩のところをつまみあげ、考え事をしながら左眉を触り、相槌がやたら多い、そんな癖だらけの打越さんの存在があの研究室にしみこんでいた。
* * *
ねえ、打越さん。あなたがいなくなったあと、研究室にいきました。いつもの部屋でした。木曜日のアフターで使った鍋が机のうえに置かれていて、トイレで離席していた打越さんが、ああ、髪で手を拭いたんだろうなぁという濡れ髪でやってくるような、そんな存在の気配が漂う部屋でした。
少ししてからご家族がいらっしゃって、開口一番に「あなたたち、焼肉の人ですね。知ってます。」といわれました。打越さんといろんな時間を共有してきたので、いつもうちの人を連れまわしてという意味かと思ってドキリとしました。
後からきくと、10月末に焼肉にいったときの記念写真を遺影に選んでくださったそうで、それで顔を覚えられていたのでした。お母様が「最近の写真で笑いすぎてなくて、ちょうどいい写真だったんですよ。正行の顔が斜めになってたから縦に直して、背景を消してもらって。あなたたちのこともちゃんと消しました」とおっしゃって、そりゃそうだと心のなかで笑いました。
遺影になった焼肉の会は、わたしと同じ時期に学外から講義にもぐっていたMさんの大学院進学祝いの会でした。お店に行くまえにお祝いのプレゼントを買うためにふたりで町田にくりだしたものの、打越さんはプレゼントを見つけるより先に自分の欲しいものを見つけていました。意見が割れながらお互い妥協することなく2時間休まずに歩きまわって、革のフィールドノートカバーと院生活で使えるようなタンブラーを選びました。
あの遺影で白く消えたところには、そんなわたしたちの笑い顔と時間がうつっていました。
打越さんは、人といる時間を大切にしてくれるひとでした。
与論島でのフィールドワークの夜、打越さんの誘いで星を見にいくことになりました。海の浜辺に寝転がって、夜空にひろがる星を眺めながら思い出話を聞きあっているうちに、気がつくと一時間経っていました。その間、わたしたちは流れ星がいくつも見えて、その度に大盛り上がりしていたのですが、夜盲症の打越さんは星もほとんど見えず、流れ星は大きな流れ星ひとつしか見つけられなかったそうです。いま思えば、ほぼ暗闇しか見えないとわかっているのに私たちを誘ってくれたこと、一時間ものあいだ隣で語り合う時間を過ごしていてくれたことに驚かされます。
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ねえ、打越さん。上間さんの追悼文のとおり、告別式の日はそれはそれは透き通った青空のもと、斎場におさまりきらないほど多くのひとが別れを惜しんでいましたね。
棺桶のなかの打越さんは頭や髭をきれいに剃っていて、「いつもフィールドワークの前に丸刈りにしていたから、これから長いフィールドワークに行くみたいだね」とみんなで話していました。
打越さんとの最期の時間を思い起こすと、あの日のような青空の情景がいくつも浮かんできます。
11月、45歳の誕生日もそうでした。「清々しいまでの晴天ですね。いい1年になりますように」とお祝いの言葉をおくったので、とても記憶に残っています。
でも、あのころから症状があらわれていたんですね。「露天風呂で風邪ひいちゃいました。年とると長引きますねー」と会うたびに体調が悪くなっていくので心配していたけれど、11月末には「マイコプラズマ肺炎でした。抗生剤のんだら一発で直りましたよー」と話しながらエンジン全開で人生最後の講義をして、いつものように終電までアフタークラスをしていたので、すっかり安心してしまったものです。
ねえ、打越さん。アフターのとき、首元があれているのをみつけて「首どうしたの、なんか赤くない?」と指摘したら、くだらない冗談を重ねてふざけ倒したのを覚えていますか。いつものようにつっこんで、みんなで笑いあって話題が流れていってしまったけれど、皮膚症状のあらわれにもっと違和感をもっていればと、いまでも強く後悔しています。それにしてもあの冗談はなんなんですかね、ばかだなあ。苦しい記憶でもあるけれどとても楽しい時間でした。
最期の講義といえば、講義前に研究室にいったとき、結婚式のご祝儀袋を画用紙で手づくりしていたのには驚きました。真っ黄色の画用紙に白い帯を貼って「打越正行」と書いて、紐で結んで。
結婚式は教え子同士のめでたい席でした。「乾杯の挨拶をするんですよ、どうしましょう」と嬉しそうに話すので「打越さんがつくる授業や場がおもろくなければ芽生えるものも芽生えなかったかもしれないので、攻めの姿勢でいいと思います」と煽りました。
入院中、「ぜひ聞いてほしいんで」とスピーチの動画が送られてきました。打越さんが調査で大切にしていたことが詰まったすてきな挨拶でした。共有してくれたということは、自分なりの仕事になったと思っているんじゃないかと思うので、さわりだけみなさんにも紹介させてください。「毎日平凡な、ありきたりな、いつもと変わんない時間に、必ずいままで生きてきたこだわりとか生きてきたなんかの癖とかそういうことが現れている」。最後の大仕事でしたね。
そんな結婚式の翌日、12月1日にはわたしの仕事(メンタルに不調がある人たちとの演劇公演)を観に来てくれました。
以前、同じプロジェクトを観にきてくれたとき、片付けがおわって飲み会に合流したら、興奮した打越さんが誰よりも熱くプロジェクトの魅力を語ってくれていました。みんなで語りたおして飲み歩き、打越さんは帰れなくなり、東横インに電話したら「犬部屋があいてました」とペット可の部屋に泊まる展開になって。今回も「今年も犬部屋ですかね〜」と意気込んでいたのに、身体がいうことをきかないと休憩時間で帰ってしまったので、相当、体調が悪いんだとわかりました。
あの日の横浜も海を照らすような青空で、でも空の色とは対照的に白い顔をしてしんどそうに頭をおさえる姿が最期になってしまいました。あのとき足早に去るのを腕を掴んででも引き留めて、話を詳しく聞いていればよかったと、何度も想像しました。こうして分岐点となりそうな時間を探して反芻しては明るい未来を想像してしまいます。でも半年前から予定に入れてとても楽しみにしてくれていたし「どうしても行きたかったんですよー」と言ってくれそうで、それが打越さんなんだよな、とも思います。入院してからも「一部だけでしたが考えたこと送らせてもらいます」といってくれて、けっきょく感想を聞くことは叶わなかったけれど、最期まで応答することを大切にしてくれていました。
病名をきいた日、呆然としながら電車に乗ったときも、車窓からは世界のすべてを包みこむような青空がひろがっていました。
「今日は打越さんの誕生日の日のように、綺麗な青空がひろがっています。病室からも見えるかな。少し離れてますが、こころはいつでも打越さんの隣にいますよ。」と送ったら、返事の冒頭に「いい天気でしたね。空をみて感動したの初めてくらいです。」と書かれていて「初めてくらい」って素直な表現なのか照れ隠しなのかわからないけれど打越さんらしいなあ、と思ったものです。
先日、ある人から打越さんが病室から撮ったという写真を見せてもらいました。きれいな青空のしたに住宅が並んで、山のむこう、遥か遠くに東京のビル群が小さくみえて、「あの日、この青空を見ていたのか」と思うと同時に、見慣れた景色に懐かしさがこみあげました。奇しくも打越さんが最期の時間をすごした病院は、わたしの地元でした。
実は闘病期間にむけて、学外の有志数名でふたつの差し入れ企画を用意していました。
ひとつは、「打越さんが大切にしてきたこれまでの時間が、いま、そしてこれからの時間を支えてくれる」という願いを込めた、思い出写真付きの日めくりカレンダーを毎日送り届ける企画でした。カレンダーづくりのため、病気のことを伏せて学生たちから思い出の写真をもらいました。そこには、いい顔をしたり、ときにばかなことをして笑い合う人たちが並んでいて、打越さんがかけがえのない時間を共有してきたことがよく分かる写真ばかりでした。
もうひとつは、講義の後の「アフタークラス」の場を繋げていく企画でした。打越さんのアフタークラスでは、講義について意見を交わすだけでなく、人生を分かち合うような豊かな時間が流れていました。ねえ、打越さん。いまも教え子たちによるアフタークラスのコミュニティは続いていますよ。この場を大切に、相互に聞きあい、学びあう場を耕していきたいと強く思っています。
年末にハガキが一枚届きました。骨髄バンクのドナー登録ができたそうです。訃報を聞いたとき、私はちょうど献血ルームで骨髄バンクのドナー登録のための採血をしていました。あの日の思いを胸に、もし適合の連絡が届いたときには誰かのために行動できたらと思っています。
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あれからもうすぐ2ヶ月が経ちます。正直、わたしはまだ未来にむかう意欲と過去の思い出をなぞることのあいだで揺れ動いています。
これからも長く隣で人生を見せてもらいたかったし、わたしの人生も長く隣で見てもらいたかった。
わたしにとっての打越さんは師であり、共振しあえる友であり、大切な同志でした。 「アフタークラスのように地域のなかに人が前向きになれる場をつくりたい」「自分たちのコミュニティをつくりたいですね」「スナックみたいな本屋さんええですな」「銭湯も」と夢を語りあっていて、たくさん一緒に「おもろいこと」を企てていくものだと思っていました。
でもこころのなかに打越さんの席を置くことで、隣で人生を見つづけてくれるのでしょう。これからの人生を支えてくれるような時間と友人に出会わせてくれたこと、本当に感謝しています。
打越さんのことについてメールやブログを書くと、「いやぁー、印刷してもう何度も読んでますよー。痺れちゃいました。」といっていて、なんて素直な喜び方をするひとなんだろう、といつも思っていました。いろんな人からもらった言葉を教えてくれることもありました。不遇な時期が長かったからこそ、自分にかけられた言葉を一つひとつ、宝箱に入れるように大切にしていたのでしょう。ねえ、打越さん。あなたが旅立ったあと、あなたの仕事を讃えるたくさんの文章が書かれました。天国にプリンターってあるんでしょうか。印刷できなくてもすべて大事に読んでいるんでしょうね。ねえ。
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打越さんとの時間を書き残したいと思い、この文章を書きはじめました。しかし、開きっぱなしの記憶の箱をひとりで見つめ続ける孤独に耐えかねて、ただ多弁になっているだけなのかもしれない、と思う瞬間もあります。
生前、打越さんは「書くこと」について語るとき、石岡丈昇さんの「書くことは考えることである」という言葉を引用しながら、こう言っていました。
「書くことで、あの時のことをもっと見ることができますし、あの時いかに見えてなかったかがわかりますよね。」
まさに今、いかに見えていなかったか、いかに聞けていなかったかを実感しているところです。それでも、打越さんがどういう人だったのか、少しでも近づいていくために、打越さんにこだわって書きながら考えつづけてみたいと思います。
<わたしから見た打越さんの仕事>