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桜三月散歩道

3月ですね。
井上陽水さんの「桜三月散歩道」って曲が浮かびます。
知ってる人は少ないかもしれません。

これを聞いていたのは、一人で暮らしていた高校生のころ。
当時は寂しいと思った記憶はないのですが、今、この曲を聞くとたまらなく切ないので、寂しかったんでしょうね。


私が両親と暮らしたのはたった12年です。
中学生から親元を離れて叔母の家に下宿しました。
父は「『かわいい子には旅をさせろ』っていうから」と言って、いつの間にかそういうことにしていました。
母には「どうする?」と聞かれたような気もしますが、嫌だと言える雰囲気ではなかったかなぁ。

それから、いろんなことがありました。
叔母のもとから幾度か逃亡し(🤣)、そのたびに大騒ぎになり。
父とも何度も喧嘩しました。

一度だけ「帰りたい」と泣きながら訴えたことがあります。
父は困った顔をしたけれど、連れて帰ってはくれませんでした。
父がデイサービスに入って、同じように「帰りたい」と泣きながら訴えたとき、そのことを思い出しました。
「父も辛かったんだな。」と頭ではわかっていたことですが、やっと心で理解できた気がします。

これ以降、私は一度も帰りたいと言うことはありませんでした。
でも二度目の逃亡のあと、叔母は面倒見きれないと白旗を上げたので、私は一人暮らしをすることになりました。
中学3年の冬。父の期待を木端微塵にした日。

高校受験のときは、母がそばにいてくれました。
なんか照れくさかったなぁ。
その頃は、小椋佳さんをよく聞いていて、「屋根のない車」って曲が流れるたびに「屋根のない車って変なの。」と真剣に言っていたのを思い出します。
母は昔っからそんな人でした。私を一度も叱ったりしませんでした。

高校時代は、妙に冷めてて、淡々と生きていました。
栄養失調で救急車に乗ったり、男の子を部屋に入れていると大家さんにチクられたり🤣、両親には心配ばかりかけていました。

あの頃が一番、家族として辛い時代だったかもしれません。
農業だけじゃ現金収入が足りなく、子どもたちを育てていけない。
だから、二人して勤めにも出るようになった。
勤めに出る前の朝早くと、帰ってから暗くなるまで畑や田に出る生活。
両親が歯を食いしばって頑張った時代。
今、父の嫉妬妄想の原因となる根っこの部分を辿っていくと、この時代まで遡ります。

私のせいだった・・・・。

それだけではないにしろ、私も十分絡んでいたことがわかり、衝撃を受けました。
何十年ぶりかに一緒に暮らし、そこで聞くあの頃の話。
私の知らなかった両親の本音。
認知機能が低下しているからか、まるで他人事のようにつらつらと語ってくれます。

私がずっと抱えてきた「期待に答えられなかった」という後ろめたさ。
「お前がいてくれてよかった。」という父のことばで、少しずつ昇華していたけれど。
そんなものじゃなかったんですよね・・・。

いつの間にか自分で大きくなった気になっていました。
両親への思いの底の底に蓋をして、・・・が頑張ってきたような気でいました。
ただ単に、父に褒めてもらいたかっただけなのに。

***

こんな記事を書くつもりではなかったのです。
記事を書き始める前に「みぞおち空間」さんの記事を読んでしまって。😆

みぞさんのお祖父さまと父が重なってしまって、「今日から三月かぁ」と思ったら井上陽水の「桜三月散歩道」を思い出して、その曲を聞いたら、こんなものが飛び出してしまいました。🤣

家族との絆というか縁というか、そして一緒に家族として生きてきた時間って、なかなか味わい深いものです。
いっしょに暮らした時間は短いけれど、たしかにつながっていたもの。
そのすべてが、今を作っているんですね。

そう思うと一緒に暮らす残り1ヶ月がますます貴重なものになりそうです。
今日も嫌味バトルやりましたけど。



タイトル画像は”カツオ@マンション管理頑張り中”さんにお借りしました。


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