さいたま国際芸術祭2023が突きつける諸行無常、諦め
さいたま国際芸術祭2023メイン会場
さいたま国際芸術祭2023のメイン会場に行ってきた。特に印象に残ったのは以下の要素だ。
複数ルートの存在
スケーパー(作品として置かれているのか/パフォーマンスしているのか判然としないものや人)
変化していく作品やパフォーマンス
展示の思想
スケーパーによって生まれる鑑賞経験については、こちらの記事でよく書かれていると思った:https://www.timeout.jp/tokyo/ja/news/saitama-international-arts-festival-112923
さいたま国際芸術祭2023の真テーマ?
さて、公式な開催テーマは「わたしたち」らしい※(P5)が、僕は「わたしたち」ではなく「諸行無常」とか「諦め」をより強くテーマとして感じ取った※2。(まあ、それはどちらかというと、僕自身の内面の投射に近いのかもしれないが)
この結論にたどり着くためには、同芸術祭の開催態様を知る必要がある。当日配布されたチラシの文章をそのまま以下に引用する。
現代、あらゆる物事が飽和している。それでもなぜか、多くの人はなぞの切迫感によって、飽和している物事を逃さないように仕向けられているように思う。
たとえば、娯楽コンテンツは飽和しているわけだが、それでも自分の好きな作品をすべて見たい!と思ったりする。あるいは、より一般的に、「何かを取り逃したくない」という原始的な切迫感がいつもある。
しかし、同芸術祭では文字通り「すべてをみることができない」ため、「一部しかみられない」気持ち悪さを受け入れなければ同芸術祭を楽しめない。あるいは、そもそも同芸術祭は存在しなかったものとして、一切コミットしないということもできる(そうすれば、一部しか楽しめないという気持ち悪さと相対する必要がない)。
「一部しかみることができない」ということを受け入れさせようとするこの芸術祭からは、僕は、「楽しむことに完璧主義になってはいけない」「あきらめが肝心だが、あきらめを恐れてはいけない」「すべてを体験したい、人生を最大化したいというのは無理な願望で、その時々に充足を覚えるべし」「あきらめることで初めて目の前のことをよく見て、充足しようと思えるのだ」といったことを考えさせられた。
……という理屈で、同芸術祭の真テーマは、「諸行無常」とか「諦め」がふさわしいのではないかと思った。
※1 僕はこのPDFの文章をうまく読解できなかったので、当日配布されたチラシの文章も手がかりにすると、そちらでは「[わたしたちという]言葉の持つ、ほわほわとした違和感のようなものを察知したとき、[「わたしたちって一体、誰?」という]問いが頭を打つ」とある。
これはたとえば、「『わたしたち日本人』と自然に言ったりするけれど、実際のところ日本人を規定する要件ってなんだろうね」的な、国民国家への疑義みたいな
※2 もちろん、このような”解釈違い”を起こすこと自体も、ひとつの「わたしたち」への疑問の投げかけなのかもしれない。すなわち、「同じ芸術祭を見ているのだから同じ解釈になるはず=ひとつの「わたしたち」が成立するはず」という思い込みを、ここで認識させることも想定のうちなのかもしれない。有為転変な状況によって各人特有の鑑賞経験を作り出し、「わたし」がいかに「わたしたち」とゆるく分断され、ゆるく重なり合っているかを強調すること、すなわち「わたしたち」がメインテーマとして回帰する、と解釈できるのかもしれない。
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