コスパ/タイパと遊びの両立(”有意義疲れ”の社会#2)
(『目的への抵抗』を読んで考えたことを思い出したので、#2をしたためている)
「コスパ」とか「タイパ」は、”遊び”とは対極にある概念のように思える。(”遊び”とはすなわち、「目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動」[P.179])。
なぜなら、「コスパ」とか「タイパ」は、常になんらかの目的や目標を前提としていて、その目的や目標の達成に対する効率性を評価する概念だからだ。地図上でゴールとなるA地点がすでに決まっていて、現在地からA地点までの行程をどこまで最適化できるか、に「コスパ」や「タイパ」は着目するわけだ。
そのため、”遊び”(趣味)にコスパ/タイパを求める人は基本いないはずだ(というか、コスパやタイパを意識してやる活動は、基本的には趣味ではないだろう。ここらへんの厳密な議論は、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ』でも読まないとできなさそうだが、あいにく未読。なんとなく思うのは、映画を早送りで観る人は、映画それ自体を楽しんでいるというよりも、人生のなかで多くの映画を観ることが目的化していて、映画視聴自体は手段化しているんじゃないか、と思うけれども、本を読んでいないからわからん)。
ところが、コスパ/タイパと”遊び”が両立するときがある。それというのは、コスパ/タイパ自体の追求が目的となっているときだと思う。当初は、”目的Aの達成のために”、いかにコスパ・タイパを改善できるかを考えるわけだが、いつのまにか、”コスパ・タイパ改善活動自体が面白い”、と思ってしまうことがある。
このすり替えこそ、たとえば「仕事が面白い」と感じる現象、すなわち、仕事が”遊び”になる瞬間だったりするんじゃないだろうか。別の言い方をすれば、「今目の前にしている活動自体を目的化すれば、けっこう物事は楽しめてしまうのではないだろうか」、ということになる。
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