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【旅行記】松山旅行 2日目 ④
$${\small{前回の話}}$$
冬の夜の道後温泉
僕は今まで観光地というものをあまり好きになったことがないのだけれど、道後の夕方から夜にかけての変容振りは、確かな道後の魅力として僕の心に刻まれている。
湯築城跡に行く前のことだ。
夕方の西日の差す道後は、観光客に開かれている場所という風にしか見えず、それがもどかしくもあった。
広くない道には人が多く、新しい店と古い店の佇まいの違いにうろたえたり、嫌な気分になりたくなくてマナーの悪い観光客から離れることに努める必要があったり、都心で感じる気苦労が石畳の中から立ち昇ってくるようだった。
道後商店街を抜けた先にある道後温泉の佇まいは、もちろん立派なものだった。けれど、色んな疲れが重なって、細かいものに注意が向くほど余裕はなかった。新しくなった道後温泉は確かに綺麗だったけれど、むしろたくさんの人の行き交う中に取り残されている巨人みたいに見える。
どこで足を止めるべきかといった風にもぞもぞ歩いている人たちの中に、僕たちはしばらくの間加わっていたが、結局離れることにした。
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さて、道後温泉と一旦距離を置き、こうして夜が来た。
坊っちゃん列車の前で記念写真を撮ってもらい、カフェでひと休み。お茶でお腹を温めてから、再び道後温泉へ向かう。
道後商店街は、夕方と比べて人通りがかなり少なくなっていた。お土産屋をちらりと覗きながら、快適な気分で歩く。古いお店の壁が光の具合でしっとりしているのが見えて、ここに来て「風情」の存在をようやく認める。
道後温泉に近づくとさすがに人が多くなったが、そのほとんどが不思議そうに前を向いて歩いていた。道後の古き良き雰囲気を楽しもうと、こんな寒いのに浴衣を着たおばあ様方もいる。みんな僕たちと同じく、寒い夜道をそろそろと歩いてきた人たちで、目指す場所は同じだった。
アーケードの先を抜けると、ライトアップされた道後温泉本館の姿が現れる。
温もりと、柔らく晴れやかな佇まいにはそこはかとなく寂しさがある。言葉少なに迎えてくれるような雰囲気にじんときた時、ふと「帰郷」という言葉が頭を過ぎった。
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道後温泉の勢い
道後温泉は、静岡の伊東や大分の湯布院とは違い、温泉地としてはずっと小さい。周辺の観光スポットだって、わいわい練り歩きでもしたらあっという間に通り過ぎてしまうような規模である。
けれど、それは言い換えれば「凝縮されている」とも言える。
そして、僕が経験したところによれば、それは歴史や外観や内装だけの話ではない。
僕たちが利用したその日は、全館営業して間もないということもあってスタッフの接客が太く、温泉としても観光名所としてもなかなかに勢いがあった。
有名観光地といえば、大抵せわしなくて素っ気ない触れるか触れないかみたいな接客が多いイメージだけれど、道後温泉は何というか「ようこそ!」と低く響いてくるような、重心を感じられる接客をしてくれる。
特にお年を召した方々は大らかに声を出し、活き活きしている。若い人たちも、思った以上に落ち着いていて、受け答えも必要最低限のシステマティックな感じではなく、それとなく会話をしてくれる印象だった。
受付を済まし、館内を案内してもらう。人の休める場所にはどこにでも観光客らしき人たちの姿があるけれど、てきぱきしているスタッフのおかげであまり気にならない。
館内は賑やかだけれど、建物の造りなのかそれとも声を出す人の匙加減なのか自分の心持なのか、公衆浴場らしい朗らかさに繋がっていた。
予約した『しらさぎの間』は道後温泉本館の3階にある。
そこは、2人でも4人でも確実に持て余すほどの広い部屋で、『神の湯』、『霊の湯』の説明を終えて若いスタッフが引っ込んでしまうと、僕たちは少しの間途方に暮れた。
何となく目についた襖を開けてみると、向かいに建っているホテルが冷たい夜にぬっと現れる。とりあえず荷物を置き、入浴の準備をした。戻る時間の目安を決めて、別行動。
僕はまず『神の湯』に行き。続いて、『霊の湯』に行くことにした。
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湯につかる
『神の湯』は人でごった返していた。
子供の時、旅行で行った温泉がこんな感じだったなあ、と湯船でぺちゃくちゃ喋る高校生らしき集団を横目で見ながら、決して広くはない浴場の天井を見つめる。
こういう時、どうしていれば良いんだっけ、などと考えているうちに身体はどんどん温まっていった。出よう出ようと考えていたが、出ようとすると誰かが腰をざばっと持ち上げるものだから、なかなか出られない。何となく、人に続いて湯船から出たくないな、と思っていた。ちょっと待つと、すぐに僕の番が来た。
続いて『霊の湯』に入る。『霊の湯』は隠れ家的で、どことなく贅沢な雰囲気がある浴場だった。僕が入った時は、僕ともう1人だけしかおらず、僕はやけに深い浴槽を持て余すように、浮かんだり沈んだりして時間を過ごした。聖徳太子が来浴した時も、きっとこんな感じで泉の精のフリみたいなことをして遊んでいた付き人がいたんじゃなかろうか。
暇で暇で、ついそんなことを考えていた。
保存工事と足の指
しらさぎの間に妻がいなかったので、2階にある展示をふらっと見て回り、傍にあったベンチに腰かけた。目の前のテレビ、保存工事の映像が流れている。
少し経つと、足の指先にひんやりとした空気が触れた。一瞬受付のおじさんに目配せされるが、僕は気に留めず保存工事の映像から目を離さずにいた。
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京都から来た職人が障子を修理したり、漆職人がしらさぎの間の丸窓の縁を塗り直したりするのを見る。保存工事というのは、考えてみると途方もない話だ。古いものを保存するためには、お金や労力はもちろん、保存するための技術が欠かせない。長い年月に渡り、磨かれ、時に変容を許しながら保たれてきた揺るぎない営みである。使わない技術は廃れ、僕たちが時代劇の殺陣で満足しているように、技術から生まれた純粋な感興というのも自然と失われてしまうものに違いない。そう考えると、古い技術やそれを活かせる仕事があるというのは、時代を跨ぎ脈々と続いてきた僕たちの感情が守られていると言っても差し支えないのではないだろうか。
僕は勢いよく立ち上がった。
もう、指先が限界だった。
入浴後
妻と合流し、ちょっとぬるいお茶と一緒にお菓子を食べる。足が冷たかったせいか、味の方に集中できなくて困った。
一方で、妻は満足していた。「買って帰りたい」と喜んでいるくらいだから、大正解だったということだろう。
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だだっ広い部屋でひとしきり休み、帰り支度をして 又新殿 へ。先ほどのテレビがあった場所が、どうやら受付だったらしい。
声をかけると係りの男性が「よしきた」と言わんばかりに腰を上げる。寒々とした階段を下りながら、「ここの階段の天井が低い理由は、暗殺者に太刀を振らせないためなんです」と説明を受ける。
僕たちと同行していた男の子が「いや、横には振れますよね?」と訊くと、「横だと命奪えないですよ。縦、袈裟に斬らなきゃ」と男性は不敵に笑った。本格的なガイドである。
どこか幽玄さの残るお部屋や、『霊の湯』で見たようなやけに深い石造りの浴室、皇族専用の便器を見学した。
さっきの男の子が皇族専用の便器の説明を受けるや否や「じゃ、これの便器、新品未使用ってことですよね?」と言う。「確かに」と僕と妻は顔を合わせる。こちらの便器は使用者の健康状態を確認するために特殊な仕掛けが施されていたが、結局使わずじまいだったという話だった。
漆塗りの便器はピカピカで、薄っすらと天井を映している。おそらくこの便器も、どこからか職人を呼びよせて、保存作業をしたのだろう。
しかし、保存のために手を加えた便器を「新品未使用」と言っても良いものだろうか?
さすがにガイドさんには聞けなかった。
帰る前にお土産を見る。みかん石鹸をお勧めされたので、試しに手に取って眺めた。袋越しからでも、みかんの匂いがしてくる。これには何のみかんを使っているんだろう? 子供がかじってしまいそうな、嬉しい香しさだ。
妻とスタッフの女性が話しているのを聞く限り、観光客以外にも地元の人が大量に買っていくこともあるらしい。1個50円大きさもちょうどいいし、何かの集まりで配るのにも良さそうだ。
僕はお土産に人数分買った。
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道後温泉を出ると、身体はほかほかしていた。
もう分かっているはずなのに、「身体温かいね!」と僕は口に出す。白い息が薄っすら出てくる。
道後商店街の方から、続々とこちらに向かってくる人の姿が見えた。温かく迎えてくれる大きな建物を目の前にして、みんなどこか安堵しているようだった。
緩んだ表情を見送りながら、僕たちは駅の方向に歩き出した。
$${\small{1日目にあったこと}}$$
$${\small{2日目の始まり}}$$