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【音楽レビュー】聴き耳と暮らす / Phil Smith – Tagebuch

レコード店のガラス越しに偶然それを見つけた時、しばらくの間目が離せなかった。
買ったばかりのアイスコーヒーを少し飲み、小さい字のキャプションに目を凝らす。「詩集付き」と書かれているのは間違いじゃない。それを確認するだけなのに、1分はかかった。
どこかで見たことあるような気がして、色々と考えていたからだ。

もう一度、視線を戻す。
窓辺に渡された1枚の布、タイルの上の物言わぬ調度品や植物。真ん中にあるのは、薄暗いと思って眺めると明るさが満ちてくる不思議な写真で、絞られた布の下に配されたものたちの佇まいに小さく息を呑む。
レコードを支える台座は12インチ用にしてはかなり小さいが、しっかりフィットしている。クリーム色の絵画のようなジャケットということも相まって、妙に丁重な雰囲気があった。

コーヒーカップに水滴がじんわりと浮かんでいる。
僕はそれだけ買って、足早に店を出ることにした。


https://philsmith.bandcamp.com/album/tagebuch

『Tagebuch』はドイツ語で"日記"という意味の言葉だ。収録されているのは、Phil Smith がベルリンに住んでいた2013年から2017年に渡って制作した日記のような音楽たちである。

針を落としてみると、様々なジャンルの音楽に行き当たるものの、さらりとして穏やかな雰囲気、品がありどこか頼もしい心地よさは作品全体に通じている。
繰り返し聞くと、音楽や日常に対するちょっと大袈裟にも思える喜びが顔を出す。それは時に神秘的に、時に子供っぽく閃いて、目に留まったら思わず頬が緩んでしまう。

僕はB面が好きだ。B面には、"窓辺"、"(食器を)すすぐ"、"橋"や"裏庭"といった言葉を含むタイトルが並ぶ。A面よりも素朴な雰囲気のトラックが多くて、小さな空間でしか生まれない奔放さがより感じられるような気がする。

B面の『Prelude to the Hinterhof (For LG)』――"裏庭"だ――を聴くと、プリペアド・ピアノの格調高さ、ほんの少しの不気味さが先行する。けれど、次第に鳥や名もなき隣人の声が織り交ざり、小さな部屋の中で感じる小さな多幸感が満ちていく。

『Tagebuch』は Kit Records からリリースされている。2013年設立したロンドンのレーベルで、その作品たちは同じくロンドンのラジオ局である NTS Radio で毎月流れている。
Phil Smith 自身もプロデューサーとして NTS Radio で2012年から約10年ほど『Phil's Jazz Dis-Junction』を手がけていた。カルト的人気を誇った番組だという。

――Carefully formulated but never formulaic, an inclusive hour of the straight-ahead and the experimental.

NTSの番組概要抜粋: https://www.nts.live/shows/phils-jazz-dis-junction

「――じっくりと考えて組んだけれど、決して型にはめたものじゃない、ストレイト・アヘッドで実験的な1時間」

執筆しながらひとつ聴いてみると、どことなく硬派な仕事という印象があった。曲の繋がりや重さやトーンの移り変わりがとても自然で、丁寧に編纂された本のようだ。



初めて『Tagebuch』をかけたのは、妻とコーヒーを飲んでいる最中だった。
その日は9月も中頃だというのに残暑がひどく、くたびれた色の建物の向こうでオナガの群れが暑さに喘いでいた。
ちょっと1枚かけながらコーヒーでも飲もうということになって、僕は深煎りの脂っこい豆でアイスコーヒーを淹れた。
針を落とし、できたてのコーヒーを何口か飲むと、僕たちはさっさと牛乳を入れ始めた。Phil Smith の歌声を聞きながら、コーヒーは優しい色になっていった。
優しいコーヒーを飲みながら、僕たちほとんど寝起きの姿で、取り留めのない話をした。煽り運転や、エンジェルブルーのガチャガチャや、どこかの居酒屋の話。

会話が止んでしまうと、薄暗さの中で、A面の『Imperfect / Conditional』だけが小さく聞こえてきた。うるさかったオナガの声も、トラック運転手のオーライの声も、この辺りの子供たちの叫び声もない。
古めかしいアコーディオンの小さな響き中で、僕たちはぼんやりとしていた。
そして、ついに針も持ち上がってしまうと、妻が言った。
「なんか、このレコード良いね」
「ね」と返した時、ふと、これを買った日のことが頭に浮かんだ。

つんと澄ましたように、クリーム色の詩集は本棚の真ん中に差してあった。
僕はソファに寝転がって、それを読み始めた。

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