【音楽レビュー】聴き耳と暮らす / Chip Wickham – Cloud10(The Completes Sessions)
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コロナ禍が明けたばかりの頃のことだ。
友達は会社を出て、先輩の車に乗り込んだ。家まで送ってもらうことはその日、立ち話の中で決まったのだという。友達も先輩も在宅で仕事をする日もあれば、出社する日もある。会社に来ている割には顔を合わせる頻度が低くて、時々会うと話したくなるらしい。電車通勤を躊躇う日もあったから、先輩からの誘いに友達は喜んで乗った。
ビルの多い街を抜け、片側2車線の道路を山に沿うようにゆっくり走らせる。走り出した頃は話すことがたくさんあるような気がしたけれど、街から出た頃にはお互いに口を閉じていた。車は畑ばかりある開けた辺りで速度を緩め、路肩に停車した。
「ちょっとごめん、気にしないでね」と普段通りの口調で言うと、先輩はスマートフォンを取り出し、ぽちぽちと始めた。
「電話かな」と友達は思ったが、違うようだった。唐突に、車内に英語のナレーションが響いたのだ。続いて、聴きなれない民族音楽がスピーカーから流れてくる。音量を少し絞ると、車は再び走り出した。
「なんかおしゃれですねー」と友達はフロントガラスに目を向けたまま、気まずさを和らげようとした。先輩は黙っていたが、しばらくするとハンドルを僅かに傾けた。
「ちょっとごめん。また止まるね」
友達曰く、先輩はラジオから流れる音楽を聴くために止まったのだという。
「驚いたな」と僕は素直に言った。「多分だけど、流れてたのは海外の音楽ラジオだと思う。でも、そんなに真剣に聴くものかな」
「エンジンをかけてラジオを切ってから、先輩にめっちゃ謝られたんだよね。気まずかったよね、ごめんねって。で、気になってさすがに訊いた。何の曲なんですかって」友達は少し考えた。「イギリスのアーティストの曲で、『クラウド・テン』っていうらしいよ。ほら、これ」
「LINEに送って」と僕は言った。
『Cloud10』は友達と別れてから聴いた。
会話の途中に、何度か聴いてよとせがまれたが、1人で聴いて正解だった。
談笑中に聴くには、少し身に余る。そんな作品だったからだ。
それから僕は『Cloud10 (The Completes Sessions)』を買った。
『Cloud10』は、『有頂天』といった意味を持つ『On cloud nine』にちなんで『最上の幸福感』という意味が込められている。
アルバム全体に漂うのは Chip Wickham のサックスやフルートのたくましい音色、どこか敬虔な精神性と知的なムードだ。
シンプルで余白の多いメロディ、クールでスピリチュアルな空気感、さりげないオールドファッション。このアルバム通しで聴いた時、時代を選ばない名作映画を見終えた時のように、胸が熱かった。
以下、3曲紹介しようと思う。
まず『Winter』。
荒涼とした土地に訪れた冬を思わせるオリエンタルなバラードで、アルト・フルートの主旋律の後ろでしっとりとバックホーンが手を添える。曲のムードを深めるのはハープの繊細な調べと、はるか遠くから響いてくるようなパーカッション。
季節の移り変わりがもたらす、避けがたい寂しさ。慎み深い神秘的な空気が満ちている。
続いて『Space Walk』。
こちらもバラードで、高らかなフルートと、ほの暗い宇宙の中にぽっと灯る航法灯のような優しい音色のヴィブラフォンが耳に心地よい。
解き放たれた静謐がふんわりと満ちるような1曲だ。
最後に、僕が特に気に入っている『Love & Life』。
とても真っ直ぐなタイトルでありながら、決して生半可じゃない、質実さと意志の強さに溢れた曲である。
主旋律に沿うように続くフルートやピアノのソロに浸れば、聴き手はその感触の微妙な変化に気づくだろう。ひとつひとつ余白を伴いながら進んでいく曲の中で見えてくるのは、丹精に織られた生地のようなしなやかさだ。
ストイックな演奏から現れる音像が、心にひりひりと迫ってくる。
イギリスのブライトン出身のサックス/フルート奏者である Chip Wickham のキャリアは長い。
キャリア初期の90年代は Roger Wickham という名義でマンチェスターを拠点に活動していた。ストレートアヘッドなジャズはというよりは、DJのサンプラーの横で吹いて即興などをしていたそうだ。それに合わせて、DJもスクラッチをしたりする。昔のジャズの即興とは、また違ったスリルやスピード感に浸っていたのだろうか。
2007年。彼はスペインのマドリードに移り、古い友人でギタリストの Eddie Roberts といくつかのシングルをリリースするなど、それからはソウルジャズやファンクのシーンに加わっていく。
初のジャズアルバムをリリースした時、彼は42歳だった。
スペインのレーベル Love Monk からリリースした『La Sombra』は、イギリスでヒットし、リミックスが制作されたりと各方面から評判が高かった。それからは、カタールやマドリード、イギリスなどを仕事で往来する日々を過ごした。
音楽ジャンルや土地を旅人のように移動してきた遍歴の中で、音楽家としての膂力はますます確かなものになっていったのだろう。
2023年にはGondwana Records から第4作目である『Cloud10』、続いて『Love & Life』をリリースし、今回のアルバム『Cloud10 (The Completes Sessions)』に繋がっていく。
Chip Wickham が織りなす世界は、どこか壁画やフレスコ画にと似ている。不変を想起させる岩盤や石に刻まれた情緒や情景、空気感や重力。世界を忠実に表現する力学は、曲そのものの深いところに何かを隠している。そして、その片鱗を感じた時、自分だけの名画に巡り合えた時のような不思議な安息が、胸に吹き込んでくるのだ。
ある時、僕は友達の先輩が車を停めてまで『Cloud10』を聴いた理由を少し考えた。
そして何となく、1度どこかで聴いたことがあって、あの時は2回目か3回目といった感じなのではないかと思った。
わざわざ車を止めてここぞとばかりに聴くというのは、聴いたことのない曲には向けられない誠実さだと思う。
かくいう僕は、よく『Cloud10』を含んだプレイリストを、パスタを伸ばしながら聴く。
そう友達に言ってみたものの、友達は反応は薄かった。もう『Cloud10』のことは覚えていないらしい。買ったアルバムを貸してみると、「かっこいいけど、険しい曲ばっかりだった」と感想がくる。
「君の先輩は車を停めてまで、それを聴くつもりでいたんだけど」
過去のことを掘り返してみると「もう気にしてないからなー」と友達は素っ気なく返した。
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出典元:
【Web Site】
・https://chipwickham.com/
【Gondwana Records】
・Chip Wickham, https://www.gondwanarecords.com/artists/chip-wickham
【ALL MUSIC】
・Chip Wickham, https://www.allmusic.com/artist/chip-wickham-mn0002400980
・Roger Wickham, https://www.allmusic.com/artist/roger-wickham-mn0000100831#credits
【ele-king】
・質問・序文:小川充 通訳:木村真理, いかにも英国的なモダン・ジャズの労作 ──サックス/フルート奏者チップ・ウィッカム、インタヴュー,
https://www.ele-king.net/interviews/011109/index-2.php
【Willwork4funk】
・Chip Wickham, https://www.willwork4funk.com/portfolio/chip-wickham
【BRIT】
・ON CLOUD NINE, https://www.britenglishschool.com/words-power/idiom-of-the-week-on-cloud-nine/