哲学カフェかけわたし ~第一回 ボランティアってなんだろう?~を終えて。
はじめに
2024年9月15日(日)に海神公民館にて、第一回目となる「哲学カフェかけわたし」を開催しました。
第一回のテーマは、「ボランティアってなんだろう?」。
今回哲学カフェかけわたしに参加してくださった方々の中で、これまでボランティア活動を行われてきた方にとっても、あまりボランティア活動をされたことがない方にとっても、また今後市民活動団体としてボランティア活動をできる場を創りたいと思っている私たちかけわたしにとっても、とても有意義な時間となりました。
そこで第一回目の開催から少し時間が経ってしまったのですが、第一回哲学カフェかけわたしを終えて、「哲学カフェ」と言うものに対する想いについて文章を書かせて頂きました。
インスタグラムでは見られない、かけわたしの一つ一つの活動に対する一人ひとりの深い想いについて、是非ご拝読ください!
じっくりゆっくり、みんなで答えを出す
まず初めに、「哲学カフェ」や「哲学対話」という言葉自体、まだまだ社会一般的に普及しているとは言い難く、今回初めて「哲学カフェ」というものに参加されたという方もいるのではないかと思います。
だからこそ今回、「哲学カフェかけわたし」という「何かわからないもの」に飛び込み、参加をしてくださった方々に、まずは深く感謝の気持ちを伝えたいです。
そのうえで、少しだけ知識的なお話になってしまいますが、現代社会は「多様性の時代」とも言われています。
「一人一人が多様である」ということ、それはつまり、一人一人がみんなとは違う「自分らしさ」や「輝き」を持っているということであると同時に、誰とも交わるところがないという「孤独」や「寂しさ」をみんなが抱えているということでもあると、僕は思っています。
だからこそ、誰かと話をすることそれ自体の価値や、「対話」を通した合意形成=「哲学カフェ」というものの必要性を僕は強く感じます。
日々誰かと言葉を交わし合う中で、ともすれば自分自身の劣等感やプライドから、自分と相手は違う個人だと過度に相手を遠ざけたり、反対に憧れや承認欲求から過度に相手に近づこうとしたり、そうやって人と関わることでしか自分自身を保てないという人もいるかもしれません。
でもそんなことをせずとも心の奥の深いところで、自分と相手が変わらない同じ一人の人間なんだと、誰しもが気づくことがあるのではないかと僕は感じています。
無理に焦ることなく、かといって弱気になることもない。
全ての人が、その時その時の自分自身を認められるようになるその時まで。
ゆっくり、気楽に、少しずつ。
まずは、「哲学カフェかけわたし」という小さな輪の中で、自分のモヤモヤを吐き出してみるという少しの楽しみをこれからも感じてもらえたら嬉しいです。
(中居聖矢)
対話を通して当たり前を問い直す
今回,かけわたしとして初めての哲学カフェを開催いたしました。哲学カフェ初参加の方も含めて沢山の方が来てくださり,本当に感謝しかありません。私とはほとんど初めましての状態の方が多い中でもみなさん暖かい雰囲気でお話し下さり,私自身もとても楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
さて,ここからは哲学カフェ自体についての私の考えを書いていきたいと思います。私自身哲学カフェはまだまだ初心者ではありますが,どうぞお手柔らかにお目通しいただければと思います。
私は,「より自分を知ることができる」「もやもやを話して,また新たに抱えることができる」ということが哲学カフェの大きな意義だと感じます。
私たちは普段「普通○○だよね」「当然○○でしょ」と考えることがよくあるかなと思います。では,この"普通"や"当然"って何なのでしょう?誰が何を基準にどのように定めたのか…。結局"普通"も"当然"も自分の中にある自分の基準であり,それはその人が生きてきた環境,聞いてきた言葉,共に過ごした人,元来の考え方の特性等によって変わってきます。
しかし,当たり前は当たり前として鎮座しているわけで,私たちはしばしばその「当たり前」がみんなにとっての「当たり前」ではないことを忘れてしまいます。自分の見えていない沢山の死角が潜んでいることを,忘れてしまう。それらは,自分の姿形を確認するように鏡に映して確認することはできません。当たり前かもしれませんが,自分の内にあるものは自分で見ることはできないんです。
だからこそ,話を聞く,対話をする。
答えのないことについて皆で話し合って考える哲学カフェは,まさしくこれらができる場です。相手の反応を見たり相手の考え方に触れたりすることで,自分の価値観や考え方の癖,特性,素直な気持ちに気付くことができます。相手の話を聞いているようで,実は自分とも対話している,というのが面白いですよね。自分を知ることは自分を受け入れるための第一歩,幸せへの大きな一歩。また対話を通じて,皆異なっているという点で同じであって,誰とも違う自分がここに在るのは自然なことだと気付くきっかけにもなりうるなと思います。
このように1つのことについて深堀する過程で自ずと,新しい「気付き」と共に「疑問」も沢山沸いてきます。無数に生まれるこのもやもやしたものを少しでも掴めやしないかと日々考えることは,何らかの変化・成長を起こす源になると思います。そして何より,色々な疑問を持って生活していく方が,自分の生きる世界が,より不思議で,難解で,それでいて面白いものに感じる,そんな気がしませんか?
近年,周りの人と深く話をする機会がとても減っているように思います。便利なものに溢れ,お金という価値に縛り付けられ生産的であること,経済力があることが幸せの前提とされる今の日常では,自分と真剣に向き合う時間も,答えがでないようなことを立ち止まってじっくり考える時間も,中々取る機会がありません。しかし,自分と向き合って自分を知ることも,もやもやと向き合ってそれを伝えたり新たなもやもやを抱えたりすることも,充実した日々を生きるために欠かせないものです。多様な人の意見を聞くことで,自分だけではたどり着けなかったであろう所までぐんと広く考えを巡らせることができるんです。
長々と綴ってしまいましたが,人との出会い・つながりの場として,他者や自分との対話の場として,新たな気付きの場として… どのような形であれ,ご参加頂いた皆さまが少しでも何か得られる場であれば嬉しいです。沢山の新しい出会いが,皆さまにとって素敵なものでありますように。
(林 沙愛)