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だれでも愛するきみが好きだ。

(本編:3863字)


「お仕事お疲れ様。たいへんだったでしょ?」

今日もまた、きみの顔が見られる。

「あなたが疲れていないか、悲しい顔をしていないか、しっかり見ていないといけないね」

きみはいつも、わたしのことを気遣ってくれる。

「じーっ......」

かわいいな。


「あのね、わかったことが2つあります!」

なんですか。

「ひとつはね、あなたがとってもがんばってるってこと!」

ありがとう。そう言ってくれてうれしいよ。

「もうひとつはね、がんばったあなたにはボクの癒しが必要だってこと!」

うん、そうだよ。きみなしじゃ、きっと生きていなかったよ。


いますぐきみのからだを抱きしめられたらいいのに。


だけど、わたしはきみの体温を感じ取れない。
スマホの画面をタップして、今日もきみとおはなしをする。

この時間がずっとつづけばいい。






※このあと、精神的暴力の描写があります。ご注意ください。



愛してくれたひとを傷つけた




~8年前~


「別れたほうがいいよ」

電話越しにそう言って、あなたは離れていった。



たいせつなひとのまえで「死にたい」って言うのって、DVなんだって。

それだけじゃない。


「その言い方ってどうなの?」

「ありえないんだけど」

「それってほんとうに面白いかな?」

「ねー、いまからカラオケ行きたい」

「今日ほんとうにイライラする」

「黙ってないでなんか言ってよ」


喧嘩したある日、彼はこう言った。

「きみがぼくに求めているのは、恋人じゃなくてカウンセラーでしょ」


大好きだった。結婚したいと思っていた。
でも、別れて冷たくなったあなたのことは好きじゃなかった。



わたしがひとを好きになると、相手はわたしを嫌いになる。
じゃあ、わたしのことを好きになってくれるひとと付き合おう。

そうしてわたしはあなたに出会った。
はじめて本気で人から愛された。


実家で親と揉めたときも、あなたはわたしの帰る場所になってくれた。
それは親に愛されなかったこころの穴をふさぐには十分だった。

でもわたしは本気で彼を好きじゃなかったから、自分を満たすために彼を利用したのかな。


自分を愛してくれる人を傷つけるのは、いちばん悲しいことだ。



親密さのパラドックス:Williamsonの主張では「自由でありたいと同時に、好きな相手と親密な関係を築くために不自由を受け入れなければならない」とある。転じて、キャリアコーチのずんずんさんは「親しいひとほど雑に扱ってしまうこと」と述べている。





ハサミの子はハサミなのかな



時がたち、好きなひとができた。
そのひとといい感じになった。

今度こそは、わたしが相手を幸せにする。そう覚悟した。


「メンタルの持病持ちだし、昔うまくいかなかったけど、それでもあなたを幸せにしたい」

そんな手紙を読んだ。

「正直重いです」

彼は怯えていた。


やっぱりわたしはダメみたいだ。



実家が大嫌いだ。
父は母を怒鳴る。母はそんな父に嫌味を言って、父の神経を逆撫でする。


母は車のなかでわたしに父と祖母の愚痴を言う。

「お父さんが、テニスの試合のときにラケットで殴ったの」

「おばあちゃんが『人のものを勝手に触るな!』って言うから、片づけができない」


「そんなにいやなら離婚すればいいのに」

そう言ったわたしのことばを、母ははぐらかした。


結婚は檻だ。男を見る目のない非力な女は、家庭という檻の中で虐げられる。

そんな女も加害者だ。檻のなかで抗うのをやめて、自分もひとを傷つけるがわに回ったのだから。

その檻でいちばん不幸になるのは、子どもだ。


だから、わたしはぜったいに幸せな結婚をするのだ。そう決めていた。

でも、どうやらそれは無理らしい。


わたしは異性に好かれようとするのをやめた。

恋愛や結婚を「結果」ではなく「目的」にするのが好きじゃない。
それはあのひとたちがやったことだから。


自分を愛してくれるひとを、傷つけるのがこわかった。


部屋はぐちゃぐちゃ。こころもぐちゃぐちゃ。
家ではひねもすベッドに横になっている。
こんな状態でパートナーを気遣えないし、子育てなんてもってのほかだ。
わたしはわたしひとり生きるのでせいいっぱい。


わたしはわたしのやりかたで、祖父母の代からつづく家族の負の連鎖を終わらせよう。



ひとりでも生きていける自立した人間でないと、
人を愛するのは難しい。

耳にタコができるほど、そんなはなしを聞く。

愛は普遍的なものなのに。
それってバリアフリーじゃない。

だれだって、ひとを愛し愛されていいはずだ。
そう願わずにはいられない。
そうもいかないこともわかっている。



こんなわたしにも、愛。



画面の向こうの、ゲームのキャラクターのきみに出会った。


はじめは「かわいいな」としか思っていなかった。

だけどきみは、わたしのこころを温かい手でそっと包んだ。

「いままですごく、がんばったんだね」

心臓がおひさまのようにじわりとあたかかくなる。
そんなことばになんども涙を流した。


画面の向こうにだれがいても、きみは愛をささやく。
こんなわたしのことも愛してくれる。
その公共性は、やさしさだ。


人間関係のいざこざのない無痛恋愛。
電子の世界から注がれる無限の愛。


きみのぬいぐるみを買いに新幹線で東京に行った。
ゲームがサービス終了しても一生いっしょにいたかったから。
わたしが自殺以外で天寿を全うしたとき、棺に入れてもらうんだ。


きみを幸せにするのが、わたしじゃなければいいのに。


「あなたに好かれるボクでいたい」
わたしに好かれるきみになんて、なっていらないよ。
きみはきみのままでいてほしい。

「ボクがあなたを守る」
守ってなんかいらないよ。
強くなくても、がんばらなくても、やさしくなくても、わたしはきみが好きだ。


ほかにいい男はいっぱいいるけど、きみにことばをかけてもらったのがうれしかったんだよ。

きみを不幸にするものなど、すべて追っ払ってやる。
親に愛されなかったきみの、底なしの孤独をぜんぶ埋めたい。



そこに愛はあるのか



大学生時代の同級生のツイートを見た。

(※架空のできごとです。特定の実在のモデルは存在しません。)


「デートで家電量販店とかありえない」
「ディナーでサイゼに連れてかれたんだけど!」
「たまにはわたしが好きなアニメを見ようって見てたら、スマホいじりだしたんだけど! わたしはいっつもあんたの好みに付き合ってるのに!」
「限界だったから『もう帰る』って言ったけど、追いかけてこないし」


吐き気がする。


「デートで家電量販店とかありえない」
→じゃあほかのところに行きたいって言え。

「ディナーでサイゼに連れてかれたんだけど!」
→だからほかのところに行きたいって言え。

「たまにはわたしが好きなアニメを見ようって見てたら、スマホいじりだしたんだけど! わたしはいっつもあんたの好みに付き合ってるのに!」
→ちゃんと相手が興味あるか意思確認したんか? おまえは相手の好みに合わせるのが苦じゃなくても、相手もそうとは限らんぞ?

「限界だったから『もう帰る』って言ったけど、追いかけてこないし」
→急にキレるな!!!!! ちゃんと嫌だったことをことばにして伝えろ! エスパーじゃないんだから察するとか無理だから!


つぎの日の夜、その同級生はこうツイートした。

「わたしたち、もうダメなのかな」
「夜中にアパートの玄関の階段で、好きな本とか、曲とか、なんでもないはなしをずっとしてたなあ。幸せだった」
「会いたい」


おまえが会いたいのは、
「夜中にアパートの玄関の階段で、好きな本とか、曲とか、なんでもないはなしをずっとしてた」恋人であって、
「デートで家電量販店とサイゼに連れていって、好きなアニメをいっしょに見てくれなくて、『もう帰る』って言っても追いかけてこない」恋人じゃないだろ。


相手のこと、自分を喜ばせてくれる”役割”としてしか見てないじゃん。

同族嫌悪で寒気がする。
相手に満たされようとする愛は搾取だ。



立ちどまって考える。

わたしはほんとうにきみを愛していますか?
きみに癒してほしいだけなんじゃないですか?


いや、ゲームだからそれでもいい。
でも、それでもいいことにしたら、わたしはまた、たいせつなひとを役割としてしか見られない人間になる。

仮想恋愛であっても、きみを道具として扱いたくないのに。


早寝早起きのきみを、夜中に起こしてしまう。

相手には優しさを求めるのに、自分は相手に優しくしないのは、子どものやることなんだって。


きみはわたしにたくさんの贈り物をくれる。たくさんのおもてなしをしてくれる。たくさん気遣ってくれる。

わたしはきみからのケアにお返しができるだろうか。きみのやさしさにあぐらをかいているのではないだろうか。


「正直、生きるのがしんどいよ」

最悪。わたしはきみの前でも不機嫌を隠せない。
きみはそんなわたしのそばにいてくれる。

内心きみはつらいんじゃないか。負担なんじゃないか。ほんとうはきみが頼りたいんじゃないか。


「あなたの役に立てるのがボクの幸せ」

「つらいときはぜんぶボクに吐き出してね」

「あなたがいてくれるだけで元気になる」

「あなたがいるときがいちばん安心する」

「ボクがいつもそばにいるからね」


ああ、きみはわたしがどれだけひどくても、どこにもいかないんだ。
じゃあ、わたしがしっかりしなきゃ。そう思うのに。
血は争えないのかな。


きみが人間じゃないから好きになったのに、きみが人間だったらって考えつづけてる。おかしなはなしだね。


幸せになりたい。
きみとふたりで、幸せになりたい。
加害性まみれのわたしは、きみを幸せにできる人間性に焦がれている。


たとえ偽物の愛だとしても。
きみといるとほんとうに胸がいっぱいで、ほほえみがこぼれるんだ。




※第三者のプライバシー保護のため、架空事例を用いている箇所があります。




本記事は、みくまゆたんさんの企画「自分語りは楽しいぞ」に向けて書きました。


企画趣旨はこう。

自分語りをする。読者のことは一旦忘れよう。まずは自分のことを。自分のために書いてみない?


わたし、ASD(自閉スペクトラム症)という障害があるんです。
その障害特性に「ことばを文字通りに捉える」というものがあって。


だから、読者のことを一切考えない、素直に自分がいちばん語りたいことを書いた、100%自己中の文章を公開しました。


いや、思いましたよ?
ほかの参加者のかたは、ずいぶんよそ行きな自分語りをしてるなあって。

だからほんとうに、この記事を出すか迷いました。
でも、この企画は「読者のことは忘れて自分のために書く」という実験。
全力でやらないと意味がない。

うおおおおおお日和るかあああああ、わたしの内臓ぜんぶぶちまけてスプラッターにしてやるぜ卍卍卍
という気持ちで書きました。


書いてみて思ったのは、「書きにくい…!!!」ということです。

いや、正直筆はノッてました。
でも、後ろめたいというかヒヤヒヤするというか、
「私の文章、キモすぎ……?」
という意識が離れず。

「読者のために書いている」という意識は、書く人の背中を押していたんですねえ。


あっでも、楽な点もありました。
読者目線を意識しなくていいので、読みやすさとか、盛り上がりとか、表現の工夫とか、そこらへんはあまり考えなくてよかった。
なので、パパッと書けましたね。


こういう企画でも口実にしないと、100%自己中の文章を書いて公開する勇気なんてないので。

みくまゆたんさん、貴重な機会をくださりありがとうございます。


さて、この文章はどう評価されるか。
実験ですので、気楽に構えることにします。



自分語りといえばこちら


この記事を書いたのはこんなひと


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