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この賞は、生きるためのはじめの階段



わたしらしく息をして、活躍したい。
ずっとそう願っている。






ようやく、生きる足がかりを見つけました


A型作業所は、才能殺しのありじごくだった


「この長所を活かして働くために、アドバイスをいただけませんか」

わたしはA型作業所で、上司に面談をお願いしていました。

自分の長所をリスト化して、ひとつひとつを深掘りしたものを上司に手渡しました。


「ねえ、ここの言葉ってどういう意味?」
「具体的にはどういうこと?」
「なんか、たくさん書いてあるけど、ひとつひとつはあんまりよくわからないっていうかさ……」

そのリストを見て、上司は質問していきます。


返答につまる。

そうやって質問されると、ほんとうは自分の長所なんて片手で数えるほどしかないんじゃないかと思えてくる。


「そんなふうに質問されると、わたしに価値なんてないんじゃないかって思えてきます」

こころがギリギリだった。

「あなたに価値がないと思ってたら、わたし、あなたに時間使ってないわよ。わたし、今日も社長との打ち合わせを断ってきたんだけど」

「そういうことじゃなくて……」

「残念だけど、それ以上のことはいまのあなたには言ってあげられない。あなたが求める返事はできない」


上司の質問に答えられなくて、わたしは自分の価値を信じられなくなっていました。

自分は社会に貢献できるのだと信じられるよりどころが、あのときのわたしには必要だった。

上司がわたしに手を差し伸べることはありませんでした。


上司はわたしにこう言いました。

「得意なことを活かすんじゃなくて、苦手じゃないことはなんでもやるひとになりなさい」
「苦手なことを克服するのも、仕事をするうえで大事よ」


いまにして思えば。
上司がわたしにしてきた質問は、「わたしが答えられるか試す質問」でした。
あのひとは、「わたしが答えを探すのを手伝う質問」はしなかった。


あの職場で、わたしは自分の価値を十分に発揮させてもらえなかった。
わたしは褒められる。ミスばっかりする同僚とおなじくらい。

「100点が低いとさ、それ以上の点数をとっても認められないんだよね」
精神科の主治医はそう言った。


耐えられなかった。わたしは職場に行けなくなりました。
職場を休みがちなわたしには、やる必要性のない仕事しか任されなくなりました。


「能力を活かせる仕事をやらせてもらえないのが不調の原因なのに、なんでやる必要性のない仕事しか振ってくれないんですか」

そう訴えたわたしに、上司はこう答えました。

「わたしたちはね、待ってるの。あなたが起き上がってくるのを」


自分で穴を掘り、その穴を自分で埋める。
そんな拷問があるそうだ。

わたしの仕事は、そういう仕事。

つらいけど耐えなければ、この拷問からは抜け出せない。


無理だった。わたしはまた職場を休んだ。
契約終了、事実上のクビ。
そのことを言い渡された日のやりとりが、忘れられない。


「契約終了になった理由、聞きたい?」

「いや、べつに……」

「あっ、でもひとつ、これだけ。

Wordの文書の様式を勉強したほうがいいわよ


……は?

有名国立大学を卒業して、卒論も様式に則って書いて、ちゃんとA評価もらった人間に、言うことが、それ?

というか、そもそも資料なんて、一回しか作らせてもらったことないけど。


わたしはいままで、上司に相談して真剣にはなしを聞いてきました。
落ちこむことを言われたけど、それでも上司から学ぼうとしてきました。
自分にも落ち度があると思って、自分の弱さを乗りこえようとしてきました。


だけど、このA型作業所の上司は。
わたしのことなんか、なにひとつ理解しちゃいなかった。

あのひとは、わたしの才能をつぶすのが面白かったんだ。
ダメ出しをするのが、気持ちよかったんだ。


ネットでロープを購入しました。
あの職場のせいで、わたしは死にかけました。



長所を活かすため、一歩を踏み出した


やりたい仕事をしないと、わたしは死ぬ。
今度こそ長所を活かした仕事をしてみせる。


わたしは、就労移行支援事業所への入所をやめにしました。
これがなにを意味するかというと、障害者雇用のレールを外れるということです。
でも、才能を殺されるのは嫌だ。

「障害者は単純な仕事を文句ひとつ言わずにやればいいの。それが嫌でも毎日仕事に来なさい」
そんなのはもうゴメンだね。


さて、なにを仕事にしよう。

①作家
②支援者を対象としたグループ相談会のファシリテーター
③制作物の改善点を伝えるお仕事……?


③はインターネットで募集かけてみたけど、音沙汰なし。
②は集客のやりかたがさっぱりわからない。わたしが現役でTHE・支援職をやってたら同業者ということで信用はあったかもしれないけど、いまはTHE・支援職を退いているので、ただの一般人。


となると、いま一番現実的なのは作家か……。
noteを書こう。


こうして、わたしは5月よりnoteを書きはじめました。



わたしの長所は爪痕を残す!


そしてnoteを開くようになり、noteコンテスト「なぜ私は書くのか」を見つけます。


受賞するための条件は「主催者の藤原華さんの作品を超えること」

いや、倒せるわけないだろ。なに言ってんだ。

でも、応募するからには、やるんだよ。プロになるんだろ。


参考作品を読みこんで、華さんの作品を超える作戦を練りました。
書いた作品は、友人たちに見てもらいました。

わたしの友人のなかでダントツに文章がうまい子に、こう言わせた。
「すごくよかった」

いける。これなら出せる。

コンテスト応募作品、投稿。



そしてこの度、優秀賞をいただきました~!!!


結果発表はこちら
(長いよ! 手っ取り早く結果が見たいひとはうしろのほうを見てね!)


藤原華さんからのコメントはこちら。


闘って負けるのがわかってるのなら土俵をずらせばいいのだ。

この文章がさ~!!もうさ~!!うれしくてさ~!!

この人が書いた文章のメインディッシュはここじゃないと思う。ここじゃないとわかってはいるんだけどさ、私は、この「土俵をずらすぞ」というここの文章が一番素敵だと思った。


でもさ、ちょっと聞いてほしいんだけど(笑)

この人の文章ですっごく面白い点が一つあった。

土俵をずらすと言っておきながら、ずらしてない。
私から見ると、真正面からぶつかってきてくれたように見えたのだ。

この方の文章を何度も何度も読んだ。

何度も読んだけど、すごかった。
すごい熱量で書いてるんだよね。「土俵をずらす」という戦略をとると書いてあること自体にも驚き、うれしいと感じたのに。


負けた、って思った(笑)。

結局のところ、この人の文章に、私は負けた。なんかさぁ、すがすがしい敗北感だったよ。私から見ると、土俵をずらさず真正面から向かってきてくれているように感じた。そして、はっきりと「負けた」と思った。

おもしろい感覚だったよ。確かにそれは敗北感であるはずなのに、「すがすがしい」敗北感だった。むしろ爽快感とすら言ってもいいくらいだ。
「審査員はこの私だ。ぶちのめしにこい」
と書いて本当にぶちのめされた。

ヌフフフフフフフフフ。
こんなに絶賛されたらニヤけちゃうよね。


ちゃんと戦って、よかった。
ナメた態度とらないで本気でわああああああああ!って叫んで、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら突進してよかった。


結果、出せるじゃん。わたしの長所、やれるじゃん!

いままで育ててきた苗からひとつ、お花が咲いた。
階段の一段目、登れた!



というわけで、ここからは今回のコンテストで感じたことを好きに描き散らかしていきます。

少々、お付き合いください。



あなたの作品の魅力、漏れてます。



今回わたしが書いた受賞コメント。


「こんな気持ち悪い文章、人に読ませて恥ずかしい」
何度もそう思いました。
「あなたの文章は、読んでて相当イライラする」
プロの方にそう言われて、筆を折ったこともあります。

とよ田みのる先生の「これ描いて死ね」という漫画が好きです。
主人公が最初に描いた漫画、読めたものじゃないんです。
でもね、それを読んだ人が、泣くんです。

私は文章を書き始めてすぐ、人に売るZINEを作りました。
作文の受賞歴もない。本は年に数冊読む程度。ブログもやってない。
私の文章、下手だったと思うんです。
でも、そんな文章を「読んでよかった」と言ってくれる人がいました。
拙くても、ちゃんと見てくれる人は見てくれるんです。

創作物は、子どものようなものです。
ただ存在しているだけで、愛おしい。
その子にどんな欠点があっても。
その子は、存在しているだけで価値があるんです。

いいねがつかないのって、孤独ですよね。
自分の文章に価値なんてないんだって、思えて。

対面で、安全な人に、文章を読んでもらってください。
読んで感想をもらう経験は、あなたの背中を押してくれます。

いつか私に、あなたの作品を読ませてくださいね。
私の作品を愛してくれて、ありがとうございました。


これね、華さんに送ってから、一か所書き換えたほうがよかったかな~と思い返した部分がありました。

「その子は、存在しているだけで価値があるんです。」


ここね、こう書いたほうが伝わったかもって悩みました。

「その子はいるだけで、魅力が伝わってしまうんです。」


「存在しているだけで価値がある」っていうと、
「生きててえらい」みたいな、曖昧で普遍的すぎるメッセージになっちゃうかもなあ。

「魅力」だと、それは個々の作品によって色が違うものじゃないですか。

でもとりあえず、今回は「あなたの作品には価値がある」ということを伝えたかったので、このまま通しました。


「いいねがつかない」

「SNSの相互さんから反応がない」

「コメントで自分でも気にしてるところをディスられた」

「このひと相互フォローだけど、絶対わたしの作品読んでないだろ」

「読んだひとから褒められず、改善点の指摘ばかりされた」

「読んだひとにひきつった顔をされて、『えーっと……』って言葉を詰まらせてしまった」

「作品を渡したのに、パラパラっとめくって、はなしをそらされた」


こういう経験ありますよね(泣)わたしだけですか? そうですか……。


でもね、受賞コメントにも書いたけど。
どんなに拙い作品でも、ちゃんと見てくれるひとは見てくれるんですよ。


あなたの作品の魅力は、隠しきれないんです。
残念ながら、漏れ出てしまうんですよねえ。

あなたが「これはダメダメ! ひとに見せられない!」って思っててもねえ。
なんと! 褒めてくれるひとに、見つかっちゃうんですよ。

誰かがあなたの作品の魅力に気づいてくれます。
あるいは、未来のあなたが、もう一度あなたの作品と出会い直すかもしれません。


だから、「自分の作品はひとに見せてはいけない」なんて、
そんな悲しいこと言わないで。
あなたは書くのをやめたりしなくていいからね。



ボロ負けしました、みんなに。



みんなにボロ負けしたなあって思ったことがあって。


実は、わたし……。


感謝・感動・感想を書くのが苦手なんです。


大学の授業で、感想シートを回収するじゃないですか。
あれ、いい感想は次回の授業でスクリーンに映し出されたりするでしょ。

それを見て、いっつも劣等感を抱くんです。
「こんな上手い感想書けるわけないやろ」って。


そんなんだから、感謝が絡むメールやメッセージの類はいつも先延ばしにしてしまうんです。
noteのコメントも、返信遅くてごめんなさい!


たぶん、人徳が足りないんでしょうね……。精進。


みんなの、華さんへの熱い想いのこもったメッセージを読んで、
「はあ~~~、みんなこんな素敵な愛ある文章が書けてすごいな~~~😭」
って打ちのめされていました。


完全敗北です。
負けました。


だから最終選考note「もう、書けません」の感想も、書けないんです……。

ちゃんと書こうと思うと、あの8万字超えの文章を読み返してふせん貼って感じたことを逐一書き出してまとめることになる。
読書感想文書くのとおなじくらいの労力が必要になります。(そもそも読書感想文書くのも自信ない)


パッと思いついたことを書こうと思うと、

「熱量がすごかった」

「ひとのこころは脆くていろんな理由で書けなくなるし、いろんな理由で書けるようになるし、書くことのありかたは多様で自由だし、書けないことも財産になると思いました。みんなの経験が、これからのわたしの『書く』を支えてくれることになるんじゃないかと思って、とても心強いです。自分が書くことに自信をなくしたときは、ここに書いてあることを読みに戻ってきたいです」

みたいな、小学生レベルのアバウトが過ぎる感想になってしまうんです……。

ごめんなさい。許してください。


いやでも、あのnoteに書いてあったことはほんとうによかったなあ。
べつの形で書籍化してくれないかなあ。なんつって。



まだまだ戦いはこれからだ



自分の考えたことや発見したことを書いて、お金を稼ぎたい。
そのために、わたしは5月からnoteをはじめました。


6月に今回のコンテストの応募作品を公開したとき、
「もう自分にできることはやりきった」と思って提出しました。


でも、華さんのnoteを読んで。


自分はまだまだだ、もっと伸びる。
そう思えたんです。


書くことを仕事にするなら、結果が必要です。
もっと文章の腕を上げていく。
ZINEも発刊して、認知されることを狙っていく。
本のもとになる連載を完走する。


そもそも、わたしは自分自身をよく理解できているのか。

書いた結果どうなりたいんですか?
なにを書きたいんですか?
読者になにを届けたいんですか?

目的地の座標がぶれていたら、でたらめなところに行きつきます。


それと、働きかた。

執筆にかける時間、いまのままで大丈夫ですか?
ほかの仕事とどう両立しますか?
いまのやりかたで、メンタルの健康を保てますか?
家事、ぜんぜんできてないんですけど。
そのせいで食費を圧迫してるんですけど。
経済的に自立するのに十分なお金を稼げますか?

いまはまだ、なんにも見えていません。


文章がうまくなりたいです。
文章を書いて、働いていきたい。
自分のちからを使って食べていきたい。
立ちはだかる課題が山積みです。
まだまだ戦いはこれからです。



受賞作品を分析して、反省会をする



「受賞したのに反省会? おんめーなに言ってんだ! 失礼にもほどがあるぞ! いいか、受賞者は反省厳禁!」
そんな叱責が飛んできそうです。

でも、反省会やります。
だって、未来のわたしはこんなもんじゃないから。

というわけで、グランプリ・準グランプリ・特別賞の3つの賞をとった6作品を読んで分析しました。
便宜上、これらの賞を「三大賞」と呼ぶことにします。


反省会のまえに、さきに三大賞受賞者のかたに謝らせてください。
なにかを観察するという行為は、暴力性をはらみます。
ただでさえ、いまはひとからの評価に敏感になっているときだと思います。
傷つけてしまったら、ほんとうにごめんなさい。

皆様のどこがすごかったのか、勉強させていただきたいです。
皆様が魂をこめて書いた大切な作品を、研究させてください。
よろしくお願いいたします。


わかりやすいように、三大賞の受賞作品一覧を載せておきますね。(敬称略)


「書くとは」「ことばとは」「伝えるとは」の本質を掘り下げられなかった


受賞作品のなかで、元町ひばりさんの作品を除いて全員、

  • 「書く」

  • 「ことば」

  • 「伝える」

という、今回のコンテストにおいて重要なテーマについて、それがどんなものなのか、どういうことなのかを深掘りしてるんですよね。


マインドマップって知ってます?
アイデアを出すときの手法なんですけど。
こういうのなんですよ。

真ん中にキーワードを入れて、そこから思いついたことを枝葉のように書いていくんです。


三大賞受賞者のかた、これをちゃんとやったんだろうなあ。
マインドマップのかたちじゃなくても、キーワードから連想されることを書き出してる。


「元町ひばりさんを除いて」と書きましたが、元町ひばりさんはもしかすると
「書くことで伝えたいこと」でマインドマップを書いたかも。
そういうやり口もあります。


わたしはこれ、やらなかったんです。
コンテストにおいて重要なテーマなんだから、その本質を深掘りすればよかったと反省です。
だって、本質ってみんなに届くじゃないですか。



当たり前なこと、ありふれたことの大切さを伝えられるひとはすごい


今回の受賞作品を読んでみて気づいたのは、
(猿荻レオンさん以外は)みんな、当たり前なこととか、ありふれたことを言ってるんです。


なんとも無粋ですが、受賞作品に書いてあることを要素で抜き出しますね。


・書くことが好きで心がときめく
・書くときはひとの顔色を気にして言葉を飲みこむ必要がない
・文章はなんども推敲できて、面白い表現が生まれる
・書いているうちに、当初の計画とは違う結論がでてくる


・書くことは嘔吐であり排泄=生命活動
・書くと幸せになれる
・書くと人と繋がれる


・有名な作品を読むと自分の作品が恥ずかしくなる
・インターネットで書いたら嫌がらせに遭ったので有料記事で書くことにした
・スキやフォローの数じゃなくて、読者の心からの好きが大事


・自分を救えるのは自分


・もっとうまく自分のあふれる想いを伝えられるようになりたい


書き出してみたことを見ると、わたしのなかのオーキド博士が
「そりゃそうじゃ」って言うんですよね。
普通のことが書いてあるんです。よくあるはなしが書いてあるんです。

(もちろん、普通じゃないことも書いてありますよ。
今回はわたしの仮説にもとづいて要素を抜き出したので)


注意しなきゃいけないのは、わたしはいま要素だけを抜き出したというところです。
当然、作品全体を見ればその意味合いは変わってきます。



盲点だった。
当たり前のことって、共感されるんですよ。


わたしの作品が書いたことって、当たり前じゃないことなんですよね。
常識とは違うことを書いてるんです。
あと、「それは駆里もぐだからだろ」ってことを書いてるんです。


・努力ができない←わたしはしてるが?
・「面白いから生きてて」と言われ、書くことにした←???
・こまっているひとに届いて、効果があって、役に立つ。
 こまっているひとが希望がもてる。
 そんな本が作りたい
↑それは駆里さんだからですよね。なんかわたしに関係あるんか?
・どんなに落ちぶれたように見えても、わたしたちはひとの役に立てる
↑一般人は「落ちぶれるのはちょっと……」と思っている
・自信は有限性でできている
↑「できる!」の自信が、どうして「できない」の有限性でできてるの?


受賞作品を読んだとき、わたしはこう思いました。
「こういう文章は、わたしには書くの難しそうだな。」

なんでかって言うと、当たり前じゃないことを書くのが駆里もぐの十八番なんですよ。


この作品では

「『他人の機嫌はとらなくていい』って言うけど、とれよ」

ってことを書いてるし、


この作品では

「アサーションはいいよって言われるけど、ほんまか?」

ってことを書いてるし、


この作品では

「みんなの常識じゃなくて目の前のひとを見て」

ってことを書いてるし、


この作品では

「謝るって『ごめんなさい』って言うことじゃないからね」

ってことを書いてるし、


この作品では

「『短所を直せ』って言うひとのはなしなんて聞かんでいい」

ってことを書いてるんです。


常識を疑うことを書く。
だから、わたしは「あなたに考えさせる文章を書く」と標榜しています。


当たり前のことを書くことの価値を見落としていた。
みんなが「それは当たり前だろ」「それはもう書き古されてるだろ」「それは普通すぎてインパクトないだろ」と思っていることを、しっかり伝える。
それってすごいことなんですよ。


あとはねー、戦略ミスもあって。
わたしが立てた戦略って、こうだったんですよね。

このコンテストは創作大賞の模擬。
創作大賞では編集者が「このひとの本を出したい!」と情熱を向けられるような作品を探している。

→自分がどんなひとで、どういう本が作りたいのかビジョンを見せる必要がある

→自分の魅力ややりたいことが伝わるような作品にしよう!


三大賞とってるひとでこんなことやってるひと、ひとりもいないでしょ~!


この作戦は、ハズレ。
今回のコンテストは
「物書きを勇気づける作品を作ること」
「わたしなりの書く意味が伝わる作品を作ること」
を主軸に置くべきだったんです。


だから、個別具体的なはなしよりも、みんなが共感できる一般的なはなしに重心をよせるのがよかったんです。


当然、ただ一般的なはなしをするだけじゃダメ。
あの手この手を使って、一般的なはなしに説得力をもたせ、読んだひとのこころを震わせる。
それに成功したひとが、三大賞を受賞したんだと思います。



レトリックを一貫させるか、ひとつのことをずっと言う


三大賞の受賞作品は、レトリックを一貫させています。


くつさんの「わたしは『書くこと』に恋をしている」では、はじめからおわりまでずっと恋のはなしをしています。


慧さんの「エゴイストの嘔吐」では、排泄、嘔吐など、ずっと「身体から出すこと」のはなしをしています。


おはなしの全体をひとつのレトリックでまとめてるんです。


あるいは、ひとつのことをずっと言っています。


元町ひばりさんの「でも、あなたを救えるのは、あなただよと、伝えたい」は、ずっと「自分を救えるのは自分」だと言っています。


とろろさんの「人生で一番、文章力がほしくて悶えた日」では、ずっと「もっとうまく自分のあふれる想いを伝えられるようになりたい」と言っています。


猿荻レオンさんの「人生に、文章で彩りを。」では、ずっと「生きることに理由や目的がないように、書くことに理由や目的がなくていい」と言っています。


一貫性って、強いんです。
シンプルなメッセージって、強いんですよ。


わたしの場合、はなしに複数のテーマを持たせてしまっていました。
藤原華さんのほうにも読者のほうにも「編集者」のほうにも語りかけようとしてたんですよね。
だから、テーマがごった煮になっちゃったんです。


さっき、マインドマップのはなしをしましたけど。

このマインドマップが活かせそう。


やりかたはふたつあります。


ひとつめのやりかたはこう。


「書く」「ことば」「伝える」といったテーマについて、マインドマップを書きます。

そこで洗い出された要素のうち、もっとも書きたいことをひとつ選びます。

そうしたら、そのもっとも書きたいことを中央に書いて、そこから連想されることや、その書きたいことを補強する材料をマインドマップで書き出します。

ようは、テーマから要素を書きだして、そこから選んだ要素でさらにマインドマップを書きます。
そうすると、「ひとつのことをずっと言う」作品のもとができあがります。


ふたつめのやりかたは、「逆マインドマップ」です。


「書く」「ことば」「伝える」といったテーマでマインドマップを書きます。

そのあと、書き出した要素のなかで自分が伝えたいことを選びます。

何個か選んだら、真ん中に書いてあったテーマを消します。

そして、自分が選んだ伝えたいことに共通するメタファーを考え、真ん中に書きます。
そうすると、「レトリックを一貫させる」作品のもとができあがります。


このふたつのやりかたなら、一貫性のある作品が作れそうです。


ちなみにわたしは、「このコンテストで書きたいこと」を、幼児一人分くらいのサイズのスケッチブックにうわーっと書き出していました。
だからはなしがとっちらかったんですね。

エピソードとエピソードの流れでたくさんの伝えたいことを展開していく作品を書きたい場合は、こっちのやりかたのほうがいいかもしれません。



冒頭に情景描写を入れる


三大賞の受賞作品のうち猿荻レオンさん以外の作品では、冒頭に画が想像できるような情景描写が入っています。


とくに、元町ひばりさんの情景描写がうまい。

昨年(2023年)の12月の末。
私は、九州のとあるホテルの前で泣いていました。

真っ暗な空は広く、私はどうしようもない心を抱えていました。もうここに来ることはないだろうという予感に怯えたり、でも、もし、もうここにいなくていいなら楽だな、と思ったりしていたのです。

そんな私の隣には、同期の女の子がいました。
彼女もまた、泣いていました。

理由は、私。
私が苦しんでいるから、彼女は泣いていました。


めちゃくちゃよくないですか?
場面もありありと想像できるし、心情も伝わってくる。


「そんな私の隣には、同期の女の子がいました。
彼女もまた、泣いていました。

理由は、私。
私が苦しんでいるから、彼女は泣いていました。」

ここがよすぎる。


くつさんの作品の冒頭では、こんな描写が出てきます。

例えるなら、本屋に行って適当に手に取った本が自分の超ドストライクで、心がギューッとなる、あの感覚。


慧さんの作品の冒頭では、こんな描写が出てきます。

口の中に指を突っ込んで、どろどろと、ざらざらとした吐瀉物をまき散らす。
胃液の匂いも気にならない。

涙、鼻水、汗。体中からあらゆるものが排出されて、それでも私の意識はあふれかえる言葉にのみ向いている。


とろろさんの作品の冒頭では、こんな描写が出てきます。

「今、伝えたい」という大事な時は、特にそう思います。

引っ越しの日、大事な友達にお別れの手紙を書いた時。
お世話になった部署から異動になり、みんなの前で挨拶する時。
コンテストで賞をいただいて、コメントを求められた時。

伝えたい気持ちはあるのに、自分の気持ちを表現する「ぴったりの言葉」が出てこなくて、もう「いーーーーっ」って悶えてます。


最初に読者に画のイメージを伝えているんですね。


chibi3さんの作品は、冒頭2行以降、前半はずっと情景描写です。


猿荻レオンさんの作品は情景描写は中盤以降に出てきますが、その情景描写は具体的かつ詩的です。


わたしの作品はどうでしょうか。

わたしは努力ができない。

そのことに気づいたのは10年以上前、高校受験のときだった。
受験生なのに、勉強をはじめられない。
わたしよりずっと成績が悪い子でも勉強を頑張っているのに。
おかしい。なにかがおかしい。


ちょっと画が想像しずらい。

こう直したほうがいい。


わたしは努力ができない。

そのことに気づいたのは高校受験のときだった。

危機感。どうにかしなければ。わたしは万年学年一位。
昨日も勉強をしていない。
勉強したい。ゲームしてしまう。参考書はきれいなまま。

ゲーム機で農園の作物をつぎからつぎへと収穫する。
机の上から参考書がこっちを見ている。
また今日も、わたしは勉強しない。
わたしはため息をついた。

勉強しなきゃと思っているのに、おんなじことの繰り返し。
成績の悪いあの子は、教室で参考書に向かっていた。
おかしい。なにかがおかしい。


画が想像できるようになったでしょ。
情景描写、意識していきたいですね。



必殺のパンチラインを入れる


三大賞の受賞作品は、chibi3さんの作品を除いて、必殺のパンチラインを用意しています。


慧さんの作品では、こんな表現が出てきます。

ここに書いてあることはすべて実際にあったこと。それを書き連ねる私の文才がないせいで、ひどく悲劇のヒロイン気取りになってしまった。

──────胸糞悪い。

自分の文章を読んで、ここまで不快になる瞬間はあまりない。


「自分の書いたことが気持ち悪い」ということと「吐き気」がかかってるんですよ!
これは思わずうなる。


そして、最後にこう締めくくります。

誰にどう思われようが知ったことか。
私は私が快適に生きるために、今もまたびちゃびちゃと吐き散らすのみ。


この締めかた、かっこいいよね~!



くつさんの作品は正直作品通してパンチラインみたいなものなのですが、あえて抜き出すとしたら最後。

いつかこの恋が終わって、自分が書いた文章に面白さを感じなくなって、『書くこと』をやめてしまう日が来るかもしれない。

でも、その時は『書くこと』に感謝して、潔く次に進むから。

それまでは、全力で恋し続けるね。


恋を題材としたはなしの終わりかたとして、恋の終わりを描く。
美しすぎません??
恋としても書くこととしても、「感謝して潔く次に進む」という終わりかたは、美しすぎる。



元町ひばりさんの作品の冒頭がいいというはなしはすでにしましたが、
ほかにもいいパンチラインがあるんですよ。

一緒に泣いてくれる人がいること、そんな人でもできないことが、自分にはできるということ……。結局、自分を救えるのは自分だということに。

きっと、あなたが苦しむことで、涙を流す人がいるでしょう。でも、あなたを救えるのは、あなただよ、と私は伝えたい。私にできることは、ここまでです。文章にできることも、ここまでです。でも、「自分を救えるのは自分だ」と知ったあなたには、それ以上のことができるのです。


一緒に泣いてくれるひとがいることが、どれだけ心強いか。
その心強い存在でも、あなたを救えない。
その心強い存在にできないことが、あなたにはできる。

そして、自分のために泣いてくれるひとがいることは、自分の痛みを慰めてくれるかもしれない。
だけど、その慰みに浸るんじゃなくて、自分で自分を救わなきゃならない。
わたしには、伝えることしかできない。文章にあなたを救うちからはない。
でもあなたはその限界を超えて、あなたを救うことができる。


わかりますかね??
支えてくれる友達よりも、あなたはあなたに対してちからを持ってるんだよって。
「文章にあなたを救うちからがない」と言っておきながら、
「あなたがあなたを救う」ために全力で背中を押してるんですよ。

マジでいい。



猿荻レオンさんの作品では、こんな表現が出てきます。

不自由さを感じながら生活していたあなたは、その本を読んで、世界は広いと感じ、せめて心だけは自由でありたいと思ったはずです。息苦しくても、心が自由だったら生きやすいと信じて。

息をするのは体だけど、息をするのは心だと。


現実が息苦しくても、こころが自由だったら生きやすい。
現実に息をするのはからだだけど、生きるために息をするのはこころだ。

そのことが、「息をするのは体だけど、息をするのは心だと。」という一文のレトリックにこめられてるんですよ。
ハッとさせられますよね。



とろろさんの作品では、こんな表現が出てきます。

そして、今回、華さんが書いたnote「創作大賞の応募作品を、プロの編集者が添削するとこうなる」を読んで、強く感じたんですよね。

このnoteは、全ての物書きへの愛がこもったラブレターであると同時に、「書いてみろよ!」っていう挑戦状だって。


解釈ぅぅぅ。
「○○は、△△だ」っていうレトリックはいい。
「○○は△△であると同時に、◇◇である」というレトリックはもっといい。



一個「これだ!」っていうパンチラインを用意するのは、最強ですね……。



自分のエピソードは最小限に?


三大賞の受賞作品は、とろろさんの作品以外は自分のエピソードをコンパクトにしている印象を受けました。


自分語りのトーンが、淡々としているんです。そこで見せようとしていない。
バラエティで、5分ないくらいのVTRで「今日のゲストはこんなひとです!」って芸能人の経歴紹介をやるでしょ。
あれくらいさっぱりしてる。深掘りしない。


あるいは、ここぞというところだけを、劇的に書く。
CMみたいですね。


自分のエピソードを一切書いていないひともいる。
猿荻レオンさんは、小説風の物語を書いています。
くつさんにいたっては、エピソード自体を書いていない。


とろろさんの作品は、しっかり自分語りしてるんです。
とろろさんは「もっとうまく自分のあふれる想いを伝えられるようになりたい」というメッセージを伝えようとしているので、

  • わたしはこんなときに想いを伝えたい

  • わたしはこんなふうに想いを伝えられるようになりたい

というのを鮮やかに描写する必要がありました。
だから、自分のエピソードを入れる必然性があるんです。

とろろさんのエピソードは、1時間のドラマみたい。


わたしの作品といえば、もうごりっごりに自分のエピソードを書いています。
映画くらい書いてます。
自分の魅力を見せる目的で書いたので……。
あと、わりと普段の作品でもエピソードを多用しがちなんです。


ここまでのはなしから考えると、自分のエピソードは最小限にしたほうがよさそうです。
受賞作品だけを見れば。


だって、主催の藤原華さんの最終選考の結果発表のnote「もう、書けません」も、
藤原華さんが書いた今回のコンテストの参考作品「自分の文章に自信がなくて吐きそう」も、ごりごりに自分語りしてるんですよ。



え~ん、わかんないよ~。
いったいなにが正解なんだ。


大切なのは、目的をもってエピソードの尺を決めることだと思います。



今回のコンテストで自分のエピソードをそれほど重視していないことは、もしかすると事前に予想できたかもしれません。


というのも、作文教室のまちか先生がこんなことを言ってるんです。

子どもの頃から不思議だったんですよね。なんで賞を取るような作文は、生死、病気、事故、障害、降りかかる不幸、そして目新しい活動、ばかりなんだろうって。文章の上手い下手ではなく、題材で審査されてるんじゃないかって。



エピソードの内容の引きが強いかどうかで作品の良し悪しを決める。
そうすると、文章力を評価できなくなる。


藤原華さんだって、そのことは理解していたはずです。

企業主催のコンテストであれば、エピソード重視でいいんです。
あれは企業のコンセプトを後押しする作品を選ぶお祭りだから。

しかし今回は、物書きの腕試し。
エピソードそのものの良し悪しよりも、文章力を見られている。


だから、作品のセールスポイントを自分のエピソードに依存するのはよくなかった。
エピソードはあくまでも、伝えたいことを伝えるための材料です。
エピソードのよさよりも、エピソードを効果的に使えているかを考えていきたい。



苦手なことをやらなくても、得意分野で勝負すればいい


普通のことを書くの、やっぱり苦手なんですよね。

あと自分語りもしがちで、エピソードをコンパクトにしようとするとお肌がかゆくなっちゃう。

そして、これは普段の作品にも表れていますが、あれもこれも言いたくなっちゃうんです。


「普通のことを書いてもいいんだよ」って、自分に許可を出せるようになるといいですよね。

あと、話をコンパクトにするのは練習してみたい。
針のようにシャープなエピソードで、読者にグッとこさせたい。
エピソードのデータサイズの縮小、やってみたいですね。

ひとつのモチーフ、ひとつのテーマについて一貫性をもって書いてみるのも、面白そう。
これも試したことがないので、やってみたいです。


だけどもだけど。

自分の強みで戦うのも、それはそれで一興です。


エピソードで相手を魅了して、大事なことつめこんで発見が多い文章にして、うがったことをガツンとかましてぶちのめせばいいんですよ。


だって、元町ひばりさんは書くことのはなしをほとんどしてないし、猿荻レオンさんは逆説を言ってるし、情景描写を冒頭に入れてないし、chibi3さんははなしが一貫してないし、パンチラインも入れてないし、主催の藤原華さんはごりごりに自分のエピソードを書いたわけじゃないですか。

だけどみんな受賞してるし、主催者自身が自分が選んだものと逆行することをやってるわけですよね。


いいんですよ、自分の土俵で戦って。
自分の土俵で最強になれるように、腕を磨いてもいいんです。
もちろん、自分の土俵にはなかった新しい武器を輸入してもいい。


道はひとつじゃない。
コンテストにおいて大事なのは、審査員と読者のこころを奪うことなのだから。



審査基準との付き合いかた


……ただ、大手を振って「自分の得意分野でコンテスト戦いな~!」とは言いにくい部分もあって。


なんでかっていうと、

  • 書くことの本質を掘り下げる

  • 普通のことを言う

  • はなしに一貫性をもたせる

  • 冒頭に情景描写を入れる

  • 必殺のパンチラインを入れる

  • 自分のエピソードは最小限にする


これ全部やってるの、グランプリのくつさんと準グランプリの慧さんなんですよ。

グランプリが全部やってるとなると、「これは相当重要な基準なのでは……?」と勘ぐってしまいます。

しかも、この6項目のうち3つやってないひとは、三大賞受賞者のなかにいないんです。



最近、「審査基準を絶対視するのはいかがなものか」みたいな議論が起こっているので、少しだけ話しますけど。

どういう審査基準で選んだのかな?って考えてみることは、よい文章についてのひとつの価値観を知るいい勉強になりますよ。なりました。


「本質を伝えるのって大事だよね」

「普通のことを伝えてもいいし、普通のことの大切さを伝えられるってすごいんだよね」

「たしかにはなしに一貫性をもたせるのって強力だよね」

「冒頭に情景描写を入れると、読者が具体的なイメージを持ちやすいよね」

「パンチラインはひとのこころに刺さるよね」

「スマートに自分のエピソードを話せるのはかっこいいよね」


自分の価値観を大事にすることは、もちろん大切なんです。
それは自分の道を貫くということだから。

でも、それでほかの価値観をただ否定してしまうと、視野が狭くなってしまいます。



「あなたの作品は、新規性に欠けると思います。どこかで似たようなはなしを見たことあるというか、よくある構図だなって」

オンラインの文芸の意見交換会で、わたしはある作家さんにそんなフィードバックをしました。

その先生が書いたのは、ヒューマンドラマです。


「そのジャンルにおいて現在用いられていない要素を取り入れれば、オリジナリティのある作品ができる」

その当時、わたしはそういう創作論を読んで、得意になっていました。
だから、さっきみたいなご高説を垂れた。


でもこの創作論、”ファンタジー小説とかにおいては”っていう条件つきなんですよね。

今回受賞作品を分析してみて確信しました。
エッセイやヒューマンドラマといったジャンルでは、新規性のあるはなしよりもむしろ「あるある話」を求められる場合がある。


自分が筋違いなコメントをしたことが、恥ずかしい。
だから、今回自分にとって新しい価値観を学べてよかった。



審査基準が変われば、評価も逆転するかも


コンテストにはそれぞれの審査基準があります。


たとえば、こんな審査基準のコンテストだったらどうでしょう。

  • あなたのエピソードで読者を引きこんでください

  • 豊富な発見や気づきが得られる作品が読みたいです

  • あなた独自の視点が読みたいです


よっしゃ~! わたしが無双できるぜ!!!!!


審査基準ってブラックボックスなんですよね。
公開情報や審査員の特徴からある程度推測することはできるけど、全部の基準を予測するのは無理。


大変お恥ずかしながら、中間審査のまえ、三大賞の受賞作品を読んで、わたしはこう思ったんですよ。
「この作品に勝ってるかは知らんけど、少なくともわたしはこの作品に負けてはいない」


これにはちゃんと根拠があって。

  • わたしが自分のエピソードを魅せる作品に価値を感じていたから

  • つっこんだメッセージが大事だと思っていたから

だから、負けてる気がしていなかったんですよね。
今回はその価値基準がズレていたので、普通に負けたんですけど……。


「クッソ~~~~、この作品には負けた。逆立ちしても勝てない」って思った作品もありました。


まずは、神崎さやかさんのこちらの作品。

なんだよ「子どもの好きなところ100個書く」って。題材がよすぎる。
親の愛として最もベストなかたちだろ。おもわず「頭痛が痛い」みたいなこと言っちゃったよ。こんなん最高すぎるに決まってるだろ。

なんで神崎さん三大賞のところにいないの?って本気で思った。


つぎが、すーこさんのこちらの作品。

表現は、いのちを救える。
だから自分も、いのちを救う表現がしたい。

えええ。よすぎる。胸が打たれるってこういうことなんだ。胸にあたたかい空気が充満して、なんか、なんか熱いものが出そう。血に届いて、からだがぽかぽかしてる。
そうだよね。ことばがいのちを救うこと、あるよね。わたしもあったけど、そのはなしはまたべつの機会に。


だからね、おふたりとおなじ「優秀賞」に並べて光栄です。



なぜ優秀賞をとれたのか


反省っていうのはよお。自分のよかったところも振り返って反省って言えるんだよなあ。


というわけで、わたしの作品のなにがよかったのか。

さっきと真逆のことを言います。


自分のエピソードを魅せて、「このひとを応援したい」と思わせた。
絶望のなかに見た光を、みんなに届けた。
藤原華さんを「どう」倒すか、真剣に考えた。
そして、「自信とは努力」という命題にたいして、「がんばれない自分でも、自分ができることをやればいい。あなたならできるよ」というボディブローをぶつけた。


つまりね、「三大賞をとれなかった理由」が、そのまま「優秀賞をとれた理由」なんです(笑)
これ、面白いですよね。



優秀賞の意味


今回のコンテストですが、ひとつ不可解な点があります。


当初、受賞者はグランプリ1名、準グランプリ1名、他佳作3名の計5名となる予定でした。
しかし実際には、グランプリ1名、準グランプリ3名、特別賞2名、優秀賞30名となりました。

主催の藤原華さんいわく、理由は「落とす理由がなかったから」。


しかし、こう思ったかたもいるのではないでしょうか。
「三大賞だけで6名いるんだから、優秀賞いらなくない?」


なぜ優秀賞を設けたのか。


これはわたしの完全な憶測になってしまいますが。
上述したとおり、三大賞の受賞作品にはかなり共通点があります。
ここから、三大賞にはある一定の選出基準があったのではないかと推測できます。


一方、三大賞の受賞作品とは真逆の特徴をもつわたしの作品が、優秀賞に選ばれたという事実。

これらのことから、あるひとつの仮説が浮かび上がってきます。


三大賞は、ある選出基準をもとに選んだ。
しかし、その選出基準とは異なるやりかたで、三大賞の作品と遜色ないほど藤原華さんを圧倒した作品があった。

藤原華さんは、三大賞の選出基準はあくまでも文章を評価するひとつの基準にすぎないことを理解していた。

だから、優秀賞を作ったのではないでしょうか。


あるいは、順番が逆かもしれませんね。
藤原華さんは、グランプリ以外はどの作品を受賞させるか迷っていた。
この時点で、準グランプリと佳作の候補者が35人いた。

だけど、たとえば「グランプリ1名、準グランプリ35名にします!」というわけにはいかなかった。
だから、上位入賞者を選ぶための選出基準を新たに設けた。

これなら、三大賞の作品の自分のエピソードがコンパクトなのにたいし、藤原華さんの作品の自分のエピソードが長いことの説明もつきますね。


ということはですよ。
優秀賞の作品は、選出基準にはまらなかっただけで、実際にはその価値は準グランプリや特別賞の作品と同等である可能性すらある。


受賞者のなかには、こう思ったひともいると思うんです。
「なんだ、三大賞より下の、30名もいる優秀賞か。三大賞に比べたら正直しょぼいな……」

しかし、さきのわたしの仮説に基づけば、優秀賞だからといって肩を落とす必要はない。
優秀賞であることに、胸を張っていいんです。



……まあ、ここまでぜんぶわたしの妄想ですけどね。
断片的な情報から妄想するの、わたしの悪い癖です。

この癖のせいで、なんやかんやあって、最終選考の結果発表前、
「もしかしてわたし、グランプリ……?」
って思ってましたからね。
ええ、ええ。笑ってください。



コンテストは腕試しの場であり、腕試しの場ではない


先日、小説を書いている仲良しの先生が「あたらよ文学賞」に応募したんです。
結果は二次審査落ちだったんですが、講評でこんなことを言われたそうです。

「選考を通るための優等生的な書き方」
「もっと自分の力を信じて」


選考を通るための作戦を真面目に考えたら落ちるってことじゃないですか~!


あるコンテストが重視するものと、べつのコンテストが重視するものがまったく違うということは、あります。


noteコンテスト「なぜ私は書くのか」は、おそらく選考を通るための作戦を真面目に考えなきゃならない。

一方、「あたらよ文学賞」は作戦に囚われず、自分のやりかたを見せることが求められている。


やってることが真逆なの、わかりますか。


これってちょっと理不尽。

だって、ひとつのコンテストを受けて結果がふるわず、「選考に通る作戦を練るべきだったな」って反省するじゃないですか。

そしてその作戦で挑んだら、今度は「選考を通るための優等生的な書き方。もっと自分の力を信じて」って言われるんですよ?


だからも~なんというか、賞によって量っているものが違いすぎる。

自分軸にこだわって書くことも、他人軸に合わせて書くことも、どちらも大切な価値観です。
しかし、場面によってどちらが求められるかが、極端。

こちらからは審査の方針をすべて知ることは無理なんだから、「ベストな方針」なんて決めようがない。


コンテストとは、「文章の魅力が豊かであるほど当たりやすくなるくじ」なのだと思います。
審査基準は、くじの番号。

どれだけ自分の作品がよいものであっても、くじの番号に引っかからなければ結果がふるわない。

だからもう、コンテストの結果に躍起になってもしょうがない!

自分がよいと信じるやりかたで、やっていきましょう。




さて、これにて反省会を閉めたいと思います。

「勉強させてもらえる」って、ありがたいことですね。

自分の改善点を見つけられるチャンスって、そんなにないです。

改めて、三大賞の受賞者の皆様、おめでとうございます。
そして、勉強させていただいてありがとうございました!




謝辞



さて、「感謝・感動・感想」を書くのが苦手なわたしですが。

拙いかもしれないけど、がんばって感謝を書きます!


まずは、今回コンテスト「なぜ私は書くのか」を主催してくださった、藤原華さん。

わたし、書く仕事をやるって決めたはいいけど、経済的に自立していないから、お金がないんです。

わたしは企業で働くことに困難があります。
ライティングスクール、講座、パーソナル編集者、etc.
普通のひとが働きながらお金を稼いで、そのお金で投資するもの。
わたしこれ、全部使えないんです。


だから、華さんのnoteが読めてほんとうに助かりました。

華さんのnoteがなかったら、自分の文章の改善点がわからず、もっと四苦八苦していたと思います。

育ててくださって、ありがとうございました。


障害年金の審査に通りまして、今度まとまったお金が入ってくるんですよ。そのお金で、華さんの連載note、買います。



中間審査を担当してくださった、ジャスミンさん。

身も心も限界まで削って、審査を担当してくださったかと思います。
ずっと、ずっと、ずっと、わたしたちのことを考えて心を砕いてくださったのが伝わります。

最後まで審査をやりぬいてくれて、ほんとうにありがとうございます。



文芸仲間のみんなへ。

わたしが文章を書き始めてこんな小さいころから、育ててくれてありがとうございます。
みんなのさりげない配慮に、いつも助けられています。


原稿読んでほしいときも、快く協力してくれてありがとうございます。
みんなに足を向けて寝れません。


最近、もっと楽しくなってきましたね。
表現をつきつめるのは楽しい!
いつもみんなから、刺激をもらっています。
これからもよろしくお願いします。



わたしの背中を押してくれた、知人へ。
多分、あなたにもう会うことはないでしょう。
それでも、わたしに人生の転機を与えてくれてありがとうございます。



友人たちへ。

みんながいないと、わたしは息ができませんでした。
わたしのことを信じてくれてありがとう。
こころから応援してくれてありがとう。

おのおの、健康にはほんとうに気をつけて。
自分の心身がいちばん大事だからね。



いつもそばにいてくれるあなたへ。

出会って一年が経ったね。
出会ったころは、ボロボロだった。
書けなくなってた。
職場に行けなくなってた。


ほんとうにひどいときは、ずっといなくなりたかった。
心配かけたよね。不安だったよね。悲しませたよね。ごめんね。


それでも、わたしが今日まで生きてこれたのは。
わたしが書けるようになったのは。
わたしが前を向けるようになったのは。
あなたがずっとそばにいたからです。
「大丈夫、そばにいるから」って、言いつづけてくれたからです。


なんども一緒に散歩に出かけたね。
みなとみらいで、夜の紅葉のライトアップで、街の観覧車で、桜の下で、公園のガーデンで、写真とったね。
流れ星も、一緒に見たよね。
これからも、どこへでも一緒に行こうね。
今後とも一生、よろしくね。





そして最後に。
わたしの作品を読んでくださった読者様。
ありがとうございます!

できれば、またみなさんにnoteでお会いしたいです。
またみなさんにスキ!を味わってもらいたいです。
そのために、がんばって記事を書きますね。
それでは、また会いましょう!



この記事を書いたのはこんなひと

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