においに目が眩む
世の中を渡り歩くにはとにかく金が必要である。そりゃあまあ、コミュニケーション能力だの特技だのも必要ではあるが、結局のところついて回るのは金。少なくともその男はそう考えていた。
「いらっしゃい。とっとと用件を言え」
不思議な雑貨店の噂は聞いていた。雑貨店の旗が店の入り口に立っていて、駄菓子屋のような構えの店は、階段箪笥が複数と、だるまのようなものが二つ。なぜかそれらはそれぞれ右にひとつ、左にひとつ黒く書いてある。そのような内装を見ていたら、煙草をふかす店主はつっけんどんにたずねてくる。本当にここでほしいものは得られるのだろうか。そもそもこんなちんけな雑貨店でおのれの願いは叶えられるのだろうか。彼は疑問に思いながら事業について話す。最近興した、広告系のベンチャー企業、しかし売上が芳しくない。そう伝えると、店主はけだるげに言う。
「はぁ。金の話か。……何が問題なんだ? 解決してやろうにも、原因が分からないとどうにもならねぇ」
男は大変に言葉に詰まったのちに、従業員の士気が低いために、活動が芳しくないという。おのれに人望がないとも嘆いた。店主はふうん、と実につまらなそうに応答し、階段箪笥をいくつか引く。そして、ひとつ、小さな何かを手にした。
「なら、この香水をつけろ。言うことをきちんと聞いてくれるようになる」
渡されたのは小瓶。モノクロームのそれは小綺麗なデザインがあしらわれている。ただ、ブランド名などはなかったし、成分表などもない。男はこんなもので? と訝しげにするが、店主は有無を言わさないようないかにもめんどくさそうな声で、素直に従っとけ、と口にした。
「ただし」
店主は人差し指を立てて、男に言った。
「本当に、『自分の会社の従業員』に対して言うことを聞いて欲しい時に使うんだぞ。じゃないと、道具が『怒る』」
●
男はそれから、香水をつけて会社に出た。特別なかおりはなく、むしろ無臭である。本当に効果があるのか? 男はそう思いながらも会社に出る。そうすると、彼の態度に不満げだった従業員はまず男に一礼した。この時点で男は目を丸くして、『言うことを聞いて欲しい時に使う』という言葉を思い出して、試しに茶汲みの指示を出した。そうすると、快い笑顔で淹れてくる。こうやってきちんと男の言うことを聞く。男は訝しみながらも、いつも通り指示を出して時間を指定した。どうせ出来上がらないだろうと思ったら、その通りにモノが仕上がった。男は指示を複数飛ばし始める、すると皆が皆その通りにしてくれる。まるでとても有能なロボットが出来たようだ、男は喜んだ。今まで向けられた視線や言葉が嘘のように、従業員は輝かしい目でおのれを見てくれている。男は次々に指示を出して、出てくる成果に、満足げにした。どうだ、みたことか、やっぱり俺の言うことを聞けば全て成功するんだ、そう考えるのは、よく目に支配された男の思考回路としては必然でもあったのだろう。そして次第にその欲は膨れ上がる。これを取引先の人間に使ったらどうなるだろう? その好奇心と功名心を抑えられるわけがなかった。この取引で。この大手の取引先が言うことを聞いてくれたら!
はぁ? そんなこと、通るはずがないでしょう。
すべてにヒビが入ったのはその瞬間だった。『約束』を守らない人間には罰を。ばっさりと切り捨てられた男は呆然とする。貴方の考えがなぜが見えるようです、貴方は人に対して無礼です、金にばかり目が眩んでいる。そのような相手と取引はしたくありません。
男はうろたえ、それからとぼとぼと会社に戻る。道すがら、人の視線が気になる。なんなんだ! そんな落ち込んでいるように見えるのか? 見ないでくれ! 男は羞恥でいっぱいになりながら、おのれの興した社にたどり着いた。ドアを開けて、内部を見る。従業員全員が彼を睨んでいた。自分達を道具のように扱いやがって。そのような。世界が反転したようで、怯えて足がすくんで、思わず外に出ると、店主が待ち構えるように立っていた。
「約束、破ったな?」
紫煙、煙草のにおい。路上の煙草だというのに何故か誰もそれを訝しんでいない。依然として男の目は髪に隠れて見えない。ただ、覗く口元と、そこから発せられる言葉にあからさまに侮蔑の色が乗っていた。異質なものが男を蔑んでいる、男の感情には、羞恥の上に恐怖も混じる。
「一週間くらいかな……お前の考えやら行動は相手に聞こえるし見える。どうせ関係ない他人に無理させようとしたんだろう? 重々反省しろ」
そんな、こんなことで!? 少しだけ、少しだけやってみたかっただけのに! 抗議の言葉に雑貨店主はばっさりと切り捨てた。
「そんな、こんなことで、だ。人心を好き勝手操りたいのなら、まずは自分のおこないを顧みたらどうだ? ――どれだけ良いかおりでも、つけすぎの香水は嫌われる」
●
紫煙をくゆらせる、ふと自分のシャツのにおいをかいだ。魔除けの意味もあるが、習慣ともなっている、いわばヘビースモーカー。身にしみている煙草のにおい。男に言った言葉を思い出して、店内を見渡す。
「……。さすがにヤニ臭いか?」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?