無意識の意識
世の中ってなんて便利にできてるんだろうと、つくづく実感させられたことがあった。人は普段あるものをあたりまえに使い、何とも思わない。都会では多くの人が遅滞なく活動できるように街中は便利なものでできているのである。
車と人が共に存在するところには、車専用の道路ができているし、人専用の歩道があり、人と車が交差するところには信号機があり混乱をセーブしている。人と車がたくさんあればあるほど、共存システムは精妙にできている。
先日、東京都内に行ってきた。いつもと違ったのは、二歳にならない孫をベビーカーで連れて行ったことである。駅に行く途中にも段差があったりして難渋することもあったり、駅についても階段があっても使えず、エレベーターを探すのに苦労した。特に大きな駅ではどこにエレベーターがあるかわからず、やみくもに歩いたら、着いたところの反対にあったなんてことがあった。しかもエレベーターはたいていホームの端の方にあることが多く、探すのに大変、ベビーカーを操って人混みの中をエレベーターにたどり着くのにどれだけ時間がかかったことか。普段なら階段を上ったり、降りたりするのにほとんど時間がかからないのに、ベビーカーでの移動には何倍も時間がかかり、その分ストレスと疲労がたまった。
足を使えば、そのようなストレスを感じずに行動していることになる。ベビーカーが平らな道での回転運動しかできないために、階段は使えず、エレベーターに頼るしかなかった。健常者であれば簡単に乗り越えることができるようになっている近代社会のシステムは、それ以外のものを排除するシステムでもある。
今回赤ん坊という五体が十分発達していない人間を連れて東京都内に行ったことによる気づきは、それによりさまざまのことにも気づかされるキッカケになった。
人間は動くとき、足を交互に上下(レシプロカル)運動させることにより先に進むことができる生き物である。小さいエネルギーで凸凹でも段差があっても前に進むことができる。
そういえば現在地球に住む動物で回転運動を推進力にして動く動物はいない。なぜだろうと思った。
後付けになるが回転運動で動く生き物が存在するには生活の場になる大地に条件がある。大地が平らで固い地盤でなければならないだろう。地球が作り出した自然は回転運動で活動できる生き物が生存できる環境とは真逆な環境である。どの生物も千差万別の地形の中で生きるには足を上下に動かすような進化を遂げなければ生存できなかったのである。
人類が回転運動を可能にする車輪を使用するのはかなり古い時代からだった。馬を動力として、戦闘用乗物chariotや乗用車、荷物運搬車に車輪を取り付けて使用していたが、使用範囲が極めて限定されていた。車輪を使って物を運ぶには、車輪が大地に食い込まない硬さと強力な動力が必要だった。動力が人や馬という生き物に依存しているうちは運ぶ量は限定され、運ぶ用具の大きさも動力に合わせたものになった。
車輪がスムーズに回転するには、硬くて平らな道が必要になっていく。古代ローマ帝国にできた諺に「あらゆる道はローマに通ずる」がある。1000年も続いた帝国期に、大部分の支配地域をむすぶ道路網を整備したが、その一環として道路を舗装して、交通の利便性を高めていた。その痕跡はアッピア街道として現在でも部分的に残っている。しかしこのような道路の建設は地形の様態では大きな困難に突き当たっただろう。古代文明が発達したアンデスの高山地帯では車輪というものが創られなかった。険しい地形において、車輪を用いて物を運ぶという発想が生まれてこない自然環境だったし、動力としての馬もいなかったから、車輪を用いて物を運搬するという考えが生まれてこなかったのだろう。
車輪があっても、生物に動力を依存しなければならない時代は大きな起伏を乗り越えるパワーがなく、道路整備も動力も相互補完関係として発展しなかった。ところが、上下運動を回転運動に変える画期的な発明がなされた。レシプロエンジンである。最初は設置型で蒸気を使っていたが、エンジン内で燃料を爆発燃焼させることによって、ピストンを上下運動させることに成功すると、蒸気も電気も必要としない条件で動力を手に入れることができるようになり、このエンジンと車輪を繋ぐことができたので自動車ができたのである。
内燃エンジンの動力が馬の何倍も力を出すことができると、スピードが出せる道路が求められ舗装道路や高速道路がつくられるという相乗効果が生まれた。自動車性能のさらなる向上と相まって、自動車道路の本格的な整備が要請されて、自動車の普及に従い後追い事業として整備されていった。
生物界で力を出す動物の基準とされたのが、一般的に最強と思われていた馬が出す力である。馬以上の動力を出すことができるエンジンが開発されると、馬の何倍の力を出す性能をもつかを表す指標として「馬力HP」が使われるようになった。
日本で回転力を使って移動するものとして使われた車輪の初めは、中国から伝来したといわれ、荷物運搬用として用いられた。二輪の台車に荷物を積んで運ぶのに使われたのは、人が運ぶよりも何倍も運搬できたからだ。ただ道路の整備がある程度なされている街中でしか使われていなかった。平安時代には貴族が乗る「牛車」という、牛が動力となる乗用車が使われていたが、時代と共に廃れて「御輿」や「駕籠」になっている。そのわけは道路が軍事的防衛上整備されていなかったことが主因であろうが、日本の地形がそれを許さないほど峻険であり、大規模道路工事できるほどの動力もなく、人力しか頼ることができなかったからである。もし日本も大陸との文化交流がなければ、車輪を使うという発想は生まれてこなかったかもしれない。
動輪は垂直に移動する機械部品としても必要不可欠だ。動輪をモーターで動かすことによりエレベーターやエスカレーターは人を垂直方向に運ぶことができる。たいていは建物の中に設置されているから、自動車のような長距離の移動は必要がない。利用する人々はお年寄りや身体的に障害を持った人、小さい子供達と親たちが利用するのが一般的だが、最近の高層ビルは階段利用では体力や時間的に非効率なのでだれでもエレベーターを使うことが通例となった。高層ビルエレベーターはユニバーサル利用が常態化している。
結局世の中は回転運動を利用できるようになって大きく飛躍発展してきた。産業革命が成果を上げたのは上下運動を回転運動に変換できたからだ。それまで人間は無力に近かった。回転運動を利用して紡績機や力織機を回し、自動車や船舶も動かし、飛行機まで回転運動で飛ばすことができるようになった。現在、回転運動を使った最新の動力は摩擦によって回転がそこなわれない限界のスピードに挑戦している。回転運動以外の動力も開発されているが、商業ベースでの実用化はまだ先のような気がする。回転運動あってこその現代社会の発展なのである。
ところで上下運動による科学技術の発展は進歩したのだろうか。結論としてはまったく発展しなかった。人型ロボットは上下運動するが手足を動かしているのはモーターおよび動輪(歯車)だ。それぞれの動物はどんなに進化しても、高速で移動できる回転運動製造物に匹敵するパワーを生み出すことができない。しかも動物を模倣して上下運動ができる人工製造物も発明できていない。
われわれ人間がカラダの重心を移動させながら「足」を上下運動させることにより移動できるわけだが、動力は何かといわれると答えにつまる。回転運動の動力はエンジンであり、モーターであることは誰でも知っている。生物が獲得した「筋肉を使った足の上下運動」による移動方法と「動力による回転運動」の間には接点がない。唯一の接点はエンジン内のピストン上下運動を回転運動に変えることがクランクという部品で可能になっている点である。
初期の回転運動するエンジンはバカでかく、移動もできないものであった。生物界には回転運動で移動するものはいないといったが、なぜかと考えたときヒントになるのは大がかりな装置が必要なことだ。動物は大きいものから小さいものまでコンパクトな構造で足腰を動かして移動する。非常に合理的にできている。
地球上の生物がそれぞれ合理的に進化した結果が「足」を使った歩行・走行だとすれば、使用するエネルギーも省エネになっているし、生物として限界を超えることのないようにリミッターが内部にあるために、それなりのパワーしか出せないようにできていると考えると納得がいく。
人間は人間に匹敵する人工人間を作り出すことができないでいる。どんなに科学が発展したところで、クローン人間は造れるとしても、生物でない人工的に造った人間は造れないだろう。足を使うのは人間だけでなく、ほとんどの生き物は「足」を使い移動する。地球の自然環境では「足」を進化させるほかなかったのだ。産業革命以前の地球は、地球環境が破壊されて生物が住めない、いや生きていけない未来を心配することがなかった。大げさにいえば地球の寿命がなくなるまで、自然の広範なエコシステムecosystemの中で生物は営々と時を過ごすことができたかもしれない。エコシステムのeco-はエコノミーeconomy経済のeco-と同じ語源をもっている。その語はギリシア語の「オイコスoikos」であり、その意味は「家」である。エコは現代では拡大解釈で定義されている。エコノミーは漢字と同じように独立した語をつなげた用語で「家+ルール、定め=その家を治める原理」の意味であるが、簡単にいえば「家のことを切り盛りする」ことである。エコノミーは「家の政(まつりごと)を扱う学問」ということで「家政学」という意味であったが、現在では家が国家まで拡大されて、それが主流で使われている。エコシステムも同様に地球を家と考えて、そこに住む多様な生き物がその家の中で一緒に住み、相互関係を保ちながら区切れているが遮断されてない中で棲み分けしているシステムを指している。環境を守るさまざまな取り組みはあらゆる生物が地球という家で共存するために必要不可欠になる。
われわれ人間が科学や技術を使っても創造しえないものを地球は生物として育んだ。千差万別いる生物の中での人間の進化は、想定外のことだったかもしれない。進化した人間は地球世界を根本的に変えることができる能力を持つに至ったが、自動車や飛行機を造ることはできても人間を工業生産物として人工的に製造はできてない。人間という複雑な構造をもつ人工人間を造れないのだ。近未来には人間に近いものが出来ると思うが、人工骨格と人工筋肉を用いて生身の人間のように骨と筋肉をスムーズに動かして、歩いたり、走ったりできる人間を造るのは至難の業である。
地球では人間から昆虫まで生物は、その時代の環境に適応して生活できたものだけが生き残り、その中で他の生物ではなしえない能力や機能を育てたのが人間である。長年の蓄積が花咲き、人間が地球社会を大きく変えるキッカケになったのが産業革命に始まる知識、科学、技術の劇的な獲得である。産業革命に始まる人間の総合力としての科学技術の発展は止まることを知らず、おおいにわれわれ人間の生活を快適にしてきた。科学や産業は豊かな人生を提供するとともに、人間の人口を増加させたが、一方では多くの人々を死に追いやってきた。人間が自然から得た知識を応用して、一歩間違えば地球そのものを破壊できる段階にきている。
確かに人間は自らの知恵と能力によって自然に挑戦して、自然を変える力を発揮し始めている。交通に関することに限定しても、自動車用道路、鉄道用線路、航空路などは全地球規模で網羅されることにより、自然を圧倒したり、排ガスを放出したりしていて生態系ecosystemに甚大な影響を与えている。反面、われわれの能力ではとても及ばない回転運動能力を利用すれば短時間で快適に目的地に到達できるようになった。とても便利になったし、回転運動エンジンが苦手な分野を上下運動ができる人間が補完することによってさらに便利になっている。ただ上下運動ができにくい人間にとって、回転運動だけに依存していては埒が明かないので、その人たち用にユニバーサルデザインの設備を用意する必要が求められ、遅ればせながら設置されている。2〜3世代前に比べれば格段に便利になっているが、利用者が少ないという理由でわきに追いやられ、本当の意味で便利になってない。これからの時代はユニバーサルデザインの施設がメインで造られるべきであり、それならどんな人でも利用できることが普通になる。