ガン放浪記 part2
ガン放浪記part 1では、前立腺がんの発見から民間療法によって病巣の消失を狙ったものの、狙いはうまくいかなかったという話をした。プラス面ではPSA値が一年前とほぼ同じ水準で保てたのが唯一の成果だった。この調子でいくと、何年かかるかわからないし、費用もバカにならないという、こずるい考えで外科的処方で心の重荷を下ろそうとした。ガン病巣とこれからも長年付き合っていくことに対する恐怖もあった。
大都会に住んでいてどんな治療法も受けられる環境にあるわけでもない小都市市民なので、入院期間が短く、カラダに負担があまりかからず、リーズナブルな費用でガンに対峙する手術法は小線源治療しかなかった。ロボット療法は完全に病巣を削除できないのではないかという医者もいたし、一応外科手術なので、小線源治療よりも入院期間が長いといわれていた。小線源治療はまったくメスを使わないので三泊四日で退院できるので、仕事にほとんど支障をきたさないとわかったからだ。このような選択ができたのは一年くらい治療法についてじっくり調べる時間があったからともいえる。はじめはそこまで深く考えてはいなかった。これまで体にメスを入れたことがない恐怖から、病院での外科手術を忌避していたのだと気づいた。
度胸がついて、さけることができないと分かって外科手術を受けることを決めて、診察予約を入れた。やっぱり予約は混んでいて、診察日まで20日くらい待った。診察日に行ったところ、以前と同じ医者が担当だったが、手術をスルーしたことを非難するようなことはなかった。ただ、以前受けた予備検査のPSA検査はもちろんのこと、MRI検査、CT検査、骨シンチ検査(3種の検査についてはpart 1参照)をもう一度受けろというお達しだった。PSA値がたいして変化してないのだから、検査は不要だろうと思ってたから、不意打ちを食らった感じだった。この3種の検査は保険を使っても高価なのだ。正確じゃないけど、合計5万円くらいになったと思う。こちらは高額な民間療法でPSA値が進行しないように努力してきたのにその努力をかってくれないのかと、口まで出かかったが、これを言ったらさすがにまずいよなぁと思い返して従うことにした。おまけにもう一度生検も受けてもらいますといわれたから、ほんとうに元の木阿弥だった。
一連の3種の検査及び生検を受けて、前立腺がんの病巣はあまり増殖しておらず、ほかの器官に転移していないという前提のもとに、小線源治療を2か月後に行うことが決まった。手術予約がいっぱいということもあり、わたしの都合もあったので、手術日はだいぶ遅れてしまった。それだけではすまず、あなたのガンはステージ2ですから、小線源治療が終わり、3~4週間後から放射線治療も行いますと言われた。聞いてないよ!執拗だな、この医者はと睨みつけてやった。睨みをがんばったのに医者は何の反応も示してくれませんでしたけどね。
その間にわたしは外国に渡って、マラソン大会に参加したした。元気なうちにやりたいことをやっておこうという気持ちからだった。年齢別であったとはいえ、6位に入賞し小さい盾をもらった。頑張って走ったわけでもなく、みんなと一緒に楽しく走り、賞取りをめざしたわけでもなかったので、ただただビックリした。
三か月をかけて小線源治療のために検査を念入りに行ったのち、最終検査診断が帰国後の次の日にあり、予定していた手術日に問題なく決行することが決まった。入院は手術日の前日で、朝9時から10時の間に入院手続きをおこなうように、入院のしおりに書いてあったのでそうしたが、前日はせいぜい検温くらいで、注射一本打つことすらなかったので暇をもてあました。これ幸いと、生検時に味をしめた病院温泉屋上風呂に一人貸切り状態でどっぷり浸かり、大きな窓から見える屋上ガーデンの植物群を横目に見ながら本を読んですごした。至福のときだった。
つぎの朝は検温・点滴からはじまった。生検のときは6床の大部屋だったが、この度は個室でしかも放射線が漏れてもほかの部屋に害を及ぼさないようなシールドを施した特別室だった。泌尿器科病棟には1室しかないので、一週間に一人の患者しか受け入れることができないと看護師が言っていた。手術時間は決められていても、手術室では朝から何件も手術をおこなうので、前の手術におされると時間がドンドンズレてしまう。やっとお呼びがかかったのが2時過ぎだった。
2時40分、手術着を着て、歩いてR1治療室(R:放射線)に向かう。治療室前にあるパソコンで、名前とその呼び名およびIDのバーコードリーダーの読み取りで本人確認。それがすむと、さらに奥の処置室に入る前にも同じようなクロスチェックをして、名前の間違った患者に施術しないようにしていた。
まず、施術台に、小さい脚立から3段くらいのぼり、脚立に尻を向けて、左を下にして横たわった。そこで、脊椎注射をするために皮膚麻酔注射をした。じっとしててといっているうちにチクッとしたと思ったら注射されてしまった。そのあとの脊椎注射は太いといわれたが先の皮膚麻酔のせいか痛くなかった。脊椎の隙間がないと注射できないといわれたが、スポーツしているとスキマがでるから大丈夫といわれた。スポーツしていると、こんなときメリットになるんだとわかった。
麻酔が終わると、あおむけに寝てといわれたので、足にしびれがきているうち、体の位置を決めるために動かされて、左右の足をキャッチャー・ミットのような足受け装置に固定され、ビニール袋で足を包んだ。足は1メートル以上上げられて、それから約2時間(終了は17時05分)、その状態のまま、空中で固定された。それからの手術内容は全く分からなかった。目の前をエル字と呼ばれるカーテンで目隠しされるのでみえないからである。私が調べた範囲で手術の様子は次のようになる。
手術台に足台とステッパが取り付けられており、そこにわたしがあおむけに寝ると、超音波装置に接続されたプローブをステッパに装着してから直腸に挿入し、前立腺の画像をモニターに映し出す。モニターのグリッド線に前立腺の全体が映し出されるように位置を調整する。前立腺の全体をカバーするテンプレートを会陰部にセットして、線源が決まったアドレスに入れることができるようにガイドする。テンプレートからガイドに従ってニードルを差し込んでから、線源を着装したニードルをミックアプリケーターに取り付け、エコー画面や透視画面を見ながら小線源をアドレスに挿入する。(素人だから間違いがあるかも)
私には二人の医師の声しか聞こえなかった。その声は泌尿器科医と麻酔科医のかけあいで位置を確定していたようだ。たぶん、麻酔科医がエコー画面を見て、泌尿器科医がアプリケーターを操作していたのだろう。90分間くらい、二人の医師のかけあいとクラシックBGMだけが聞こえていた。わたしは透視画面を見ることできていたが、画面を見ても映像のなんたるかを読み取ることができなかった。
持ち上げられた足がとても疲れて耐えられなくなる一方、お尻もじっとしていて動けなかったせいか時間とともに段々痺れてきて、つらいよ、限界だと感じたときにやっと終わった。下半身が麻痺しているので患部は何の痛痒も感じていなかったが、全体としては苦痛だった。やっと、足が下におろされ、腰をずらして寝ることができると、拷問から解放されたような感覚を覚えた。下半身の周りにある器具や機械が取り除かれてから、足を下ろしてもらえた。自然な体勢とは何と楽なんだろう。しかし、わたしの下半身はなにもない無防備状態だ。こちらからは何も見えないのでわからないけど、そうだと感じた。この手術中思ったことは、69年間生きてきて、物心がついて以来、これほどの人たちに(総勢男女6人くらい)、陰部を堂々と見せたことはない。泌尿器科で受診したときでも見せてはいない。もちろん、セックスするときは男性器を見せるが、相手も見せるから恥ずかしさも半分だ。ところが、手術時は自分だけが下半身丸出しになり、普通なら恥ずかしいはずなのに、恥も外聞もなく見せてもあまり気にならなかったのはどうしてだろう。人間はどんなとき羞恥心をフリーにできるのだろうか。
普通の状態で、わたしは男女6人の前で下半身を露出できるだろうか。まずできないだろう。理由もなく下半身をさらすのは変態だ。人はどんなとき、人前で裸身をさらすことができるのだろうか。少なくとも、わたしは手術のさいは麻酔もかけられ、身動きもままならなかったから、なにをされてもされるままだった。そんな時でもない限り下半身丸出しはムリだ。しかも前立腺ガンを治すという絶対的正義のためには、医者たちは何でも許されると思うだろう。あの状況では生命のほうがプライバシーに優先される。
69歳にもなって、なにを子供みたいなことを言っているのだというだろう。たしかに、わたしもそうおもう。反論するわけではないが、古代ギリシアやローマの彫像はみんなハダカじゃないか。あの時代はハダカでも誰も気にしなかったはずだ。通常はキトンやヒマティオン、トガという簡衣を着用した。ただスポーツをするときはハダカ、戦うときはほぼハダカに武具をつけただけだったから、体のどの部分が見えても、社会的タブーの規範も、羞恥の心もなかった可能性がある。
そういえば、日本でも少なくとも幕末まではハダカは、現代のようにはタブー視されていなかったようだ。幕末の写真を見ると、町人たちはハダカ同然で撮影されていたし、銭湯も男女混浴が当たり前だった。その当時、日本にやってきた外国人はわざわざ銭湯を見学に来ていて、その様子の絵や写真も残っている。19世紀のヨーロッパでは、今のイスラーム社会のように、肌を見せることすらタブーだった。その感覚で、日本のハダカ社会を見たとき、ヨーロッパ人の目にはなんてモラルのない民族だろうと映ったにちがいない。
ある人の説では、当時の日本人のメンタリティーは、カラダが顔の延長としてとらえられていたというのがある。うる覚えだが、町で顔がみんな違っている人々に出会っても、われわれは眉一つ動かさないですれちがえるように、顔と見えてる一部のカラダが一体として認識されるために、なんの感情も起きないので、恥ずかしいとか、不道徳とか、欲情するとかにならなかったのだという。ところが、それ以降、カラダをほとんど隠す服を着るようになるにしたがって、顔とは分離されて、別ものと認識されていったために、見せたり、見たりすることがタブーになっていったらしいのだ。たとえば、浮世絵における女性の胸をはだけて化粧する姿の描きかたでは、日常性をあたりまえに描いているように見えるのはその証なのかもしれない。幕末までの一般人の認識は顔とカラダ全体は一体化していて、カラダを覆うものはたんなる付属物としてしか見ていなかった可能性がある。原始社会では身に付けるものがカラダを不完全に覆うものであったので、顔とカラダ全体が一体化して認識された(着ているものは部分しか覆っていない)が、それと同じように日本人は感じていたといえるのではないか。
現代になればなるほど、顔と体を覆う洋服が分離されて認識されるようになった。特に、着物文化のしどけない着方を脱して、洋服の体型にフィットしたかっちりとしたものを着るようになったからだろう。洋服文化が始まる前、日本のような温暖湿潤気候の下では、夏季に避暑に行くなどという発想はなく、できるだけ着物部分を減らして、汗や暑さを避けるしかなかった。特に町人文化の中では、汗が出やすい上半身を脱いで働いている絵や写真が多く残っているところをみると当然の帰着だった。このような社会では、顔とカラダが一体化して認識されていたので、着物は自己主張するものではなかった。ところが、洋服文化が入ってくると、洋服がファッションという自己主張を始めていった。顔と着る洋服は厳然と区別されて認識されていったので、洋服の中に埋もれていったカラダはだんだん未知の領域になり、見えないところを見ることはセクシャルな感情と結びついていき、タブー化されていったのだろう。最近の30~20年、この傾向は変化してきた。童話に『裸の王様』という寓話があるが、いままでアンタッチャブルと呼ばれた領域のカラダを洋服のように見せよう、見ようという考え方に変わってきた。洋服は着る人の体型と違う傾向の服を強制的に着ることにより、人の容姿を大きくイメージチェンジできたが、この頃は隠れていたカラダを服のようにみたてて、カラダを見せるファッションが登場している。問題はカラダはひとつであり、洋服のようにとっかえひっかえできない。カラダに依存した服しか着れないから、カラダに不満なところがあれば矯正したいということになる。身体改造のための体操が流行り、ジムが盛況になるのはそんなわけなんだろう。洋服はカラダの不満な点を隠す隠れ蓑であったのに、いまではカラダにあった服を着るための付属物になりつつある。
おそらく、わたしの手術に立ち会った人々は、私のカラダ全体を一体化して見ることにより、患部をその一部であるとしか認識していなかったのだろう。わたしがハダカの彫像をみたとき、急所だけに焦点を当てず、全体をみることにより、セクシャルな思いを抱かないのと同じような感じかもしれない。それに患者であるわたしはそのことをなんとなく意識していたので羞恥心が生まれなかったに違いない。
似たようなことを感じたことがあった。サンフランシスコの画廊でカバンを肩にかけ、靴を履いていたが、服を着ていない来場者を見たときだ。何も着てないことを恥じらうこともなく展示されている絵画を鑑賞して、ほかの来場者とも普通に話していたようだ。この画廊はサンフランシスコの特殊な地域にあったからだと、あとで説明されたが感覚的には違和感しか感じなかった。
失礼なのでじっくり観察したわけではないが、性器だけは布でカバーされていた。社会通念上一定のTPOで許されるならば、人はどのような行為も違和感なく受け入れることができる。海水浴場では、全裸に限りなくちかい水着を着ても許容されるし、ヌーディストビーチではオールヌードも一定条件の下で許容される。江戸時代、飛脚がフンドシしか着けずに仕事ができたのは、その当時の日本が社会通念上それを許容していたからにすぎない。そのことから他の仕事をする人々も、体を覆うものを最小限にして働くことが一般的であったはずだ。
話は飛躍するが、日本の家屋構造は夏を快適にする構造に出来上がっているといわれる。夏涼しく過ごすために、風が吹き抜けるように全面的に開放する構造である。夏が基本になっているので、冬は寒いがそれにはなかなか対応していなかった。それでも日本人は夏仕様の家屋を造った。着るものも基本が夏仕様であったとすると合点がいく。
長くながく感じた手術から解放されて、おひとりさまの病室に戻ると、まもなく夕食となった。ビーフシチューとサラダ、バナナ半切という普通食だった。点滴はやっていたが、出歩くことはできた。ただトイレは病室内のトイレを使うようにといわれた。トイレで大小をしたとき、小線源チップが前立腺のターゲットから外れて、尿管や大腸に入り込んだりするらしい。的外れのチップが排泄物と一緒に流れ出てきたときに専用トイレで回収する必要があるらしい。その日も、その次の朝もガイガーカウンターでトイレの中や周辺の放射線量を計測していた。50から70くらい(正確な数は不明)の小線源チップが胡桃だいの前立腺に挿入されたが、わたしの場合は外れたチップはなかったみたいで、トイレでは発見されなかった。
次の日、一日経過観察したのち、問題がないということで、4日目の朝退院ということになった。この際に今までの泌尿器科から放射線科にトレードされた。小線源という放射性物質を体内に入れた時点で、縄張りが変わったのだ。体内に金属片が入ったので、空港で金属探知機に反応するかもしれないので、その時小線源が入っているという証明カードをみせてくださいと手渡された。それから、四週間後から始まる放射線治療の予約をとらされ、やっと病院から放免された。
実は放射線治療についてはあまり覚えてない。小線源治療ではメモを取っていたので、比較的に詳細がわかって書くことができたが、放射線の方は高精度放射線治療装置VERSAという機械のベッドの上で寝てるだけで終わってしまうので、くわしく書く材料がないので、次第に興味がなくなったせいもある。ただこの装置は巨大で治療台の上に寝ているだけで、照射ビームを体のどこの部分にも正確にあてることができるらしい。わたしの場合、照射時間は10分くらいでおわった。最初の予定では照射は週1回10回の予定だったが、腫瘍マーカーのPSAの値が劇的に下がったため、8回の照射ですんだ。
小線源治療と放射線治療によって、現在のPSA値は0.5以下で推移している。6か月に1回血液検査とPSAを測定しているが、医者によるとこの検査は死ぬまで続ける必要があるといっていた。ほんとかよ、と思わず心の声が出てしまった。小線源に入っていた放射性物質ヨウ素125線源は半減期が約60日なので、最初の放射能の強さを100とすると、60日後には強さが50になり、さらに60日後は25となって、だんだん弱くなり、1年後には放射能は皆無になる。ただ、ヨウ素125が入っていたチタン容器は取り出すことができないので、そのままになってしまう。チタン製チップはまだ体内にあるので死ぬまで付き合うことになる。
放射線だけの治療も可能だが48回照射しないといけないらしく、その分だけ放射総量を受けるわけなので、高精度照射とはいえ肉体組織に与える影響はおおきいので、再発したらもう外科手術はできない。そこには緩和ケアしか残されていない。わたしの場合、2つの両方を組み合わせたものだが、放射線だけの療法よりましであるというのにすぎない。再発したとき、前立腺を切除することは難しいらしい。より肉体組織にダメージを与えないのが、小線源プラス放射線療法のメリットといえる。治療費用も安価だ。
手術のメリットだけを語ってきたが、デメリットの部分がないわけではない。表面的には今までとまったく変わらない生活をすごすことはできた。最初に直面するのがおしっこが出にくいことだ。これには特効薬があって、処方してもらえる。この薬も場合によっては一生飲み続けることになる。わたしの場合は、最初薬を飲んでいたが、尿道が狭くなるなら、広げればいいと考え、水をたくさん飲んで尿管が圧迫されても元に戻るように繰り返したので薬の世話にはなってない。今まで尿意を感じても、多少なら我慢できたものが手術後は我慢ができず、ヘタをすると漏らしてしまうというアクシデントが起こる。ギリギリまでいったことはあるがまだ醜態は晒していない。いわゆる頻尿状態なので、何をするにもまずトイレに行ってからという習慣がついた。若いときには尿意などついてはカラダをコントロールしていたが、今はカラダにコントロールされている気分だ。おそらく二種類の放射線によってがん細胞が硬化した結果、まわりの体内組織の柔軟性がなくなり、尿意の切迫性に繋がっていったと思われる。
尿を通す管はもう一つの重要な働きをしている。生殖に必要な精液を放出する機能である。手術後はその機能はどうなったかといえば、想像のとおりインポテンツ状態だ。手術前は勃起を促す神経は温存されるから、基本的には勃起は可能だと説明された。現実は放射線の影響か以前のようにはならない。毎日AVを少し見て練習したらいいですよ、と冗談のようなことを医者はいった。前立腺の解明されている役割は精嚢からの精嚢液と精巣からの精子を混合し、収縮時に放出する機能をもつらしい。その器官が機能不全になっているのだから、結果はもうわかるだろう。前立腺を正常に機能させている細胞に、コントロール不能のがん細胞が増殖していたところを攻撃したのだから、正常な細胞も損傷を受けるのは当たり前だろう。
まぁいい年なのだから、カラダの機能が衰えても命あるだけ儲けものとおもえば吹っ切れるキッカケになる。老人とは徐々に本来正常に持っていた機能が衰えたり、損傷したりしながらも、いま使える機能を総動員して生きている人をさしている。宇宙探査船はやぶさやアポロ13号が機能不全に陥ったとき、使える機器を総動員して地球に帰ってきたように、われわれ老人も失われた機能を惜しむのではなく、残された機能を有効に使って、もう生命を維持できないところまで生きることが求められているというのが理想だろう。もちろん、高齢化率が高止まりにある現在、老人が社会の活性化を妨げているという批判もあるだろう。だがみんながみんな長生きするわけではない。いのちが尽きるゴールは老人それぞれ違うから、そのゴールに向かって機能不全ながら生きることを止めないことが一つの道である。