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長崎旅情

 日本で新型コロナが流行る前の2月、息子太郎と九州の地を踏むことになった。

 その年太郎は大学を卒業するので、卒業旅行みたいな旅行に行くことになったからである。普通は学友と海外旅行へ行くのがベタなのだろうけど、何故か親父と行くことになったのは不思議である。

 わたしが誘われたとき、太郎は北海道、本州、四国へ行ったけど、九州に行ったことないから、行きたいということだった。かといって、九州のどこへ行きたいというわけでもなく、ただ九州の地を踏みたいということだった気がする。

 そういえば、太郎が海外旅行へいったときも、自分でどこに行きたいと言って、行ったわけではなかった。最初に行ったスペインには、治安が悪いということで、同行者のボディーガードのような役割を担って、初渡航している。次に行ったアメリカも同様で、アメリカ人と姉が結婚するので、家族同士での顔合わせで同行したのであり、自分からではない。だからといって、観光しなかったわけではない。
 
 今回も行く先もはっきり決めずに、出発した旅だった。この旅で行ったところの一つが長崎だった。前の晩から泊って、約半日しか長崎市内に滞在できなかったので、狭い範囲の一つか二つの名所を周るだけでタイムアップしてしまいそうな時間しか残されていなかった。飛行機だけは事前に予約していたので、出発時間までには空港にたどり着かなければならなかったからである。

 海岸通からゆるゆるとした坂の左右におみやげ店が軒を並べているところを登ると、大浦天主堂が正面に見えてくる。この教会の突き当りを右にまがって、しばらく登るとグラバー園の入り口が見えてくる。歌謡曲に「今日も長崎は雨だった」というのがあったが、あいにくわれわれも雨にたたられた。二人でアイアイ傘をしたのは何年ぶりだろうかとおもった。太郎は今春社会人になるほど大人になっているのに、アイアイ傘とは気恥ずかしいが太郎はもっと恥ずかしいかもしれない。旅先では荷物になるから、なるべく最低限のものしか持たなかったせいで、思いがけないことになったのである。

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 相合傘の記憶を探ろうとしたが思い出せずにいるうちに、われわれはグラバー園の門をくぐった。この園は幕末から明治にかけての文化遺産であるにもかかわらず、この雰囲気にそぐわない機械が設置されていたことにびっくりした。急な傾斜を楽に登れる、エスカレーターがついていたことである。園の東端にあるとはいえ、景観を損ねているようであったが、わたしのような年寄りにはたすかるが、何とも味気ない気がした。

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 このグラバー園は幕末に商人として活躍したトーマス・ブレーク・グラバーの邸宅を中核として、付近に点在する洋館や市内にあった洋館を集めてテーマ・ガーデンとしたのである。ところが、われわれが訪れたとき、グラバー邸は改修中で足場が組んであり、全体がシートで覆われていて、建物も骨組みまで解体されて保存修理されていた。負け惜しみに、わたしは改修中のグラバー邸の骨組みを見ることができた貴重な一人になったと主張した。次にまた改修するときは何十年後だろうから、まれな機会に遭遇したんだと自分にいいきかせた。もちろん、隠し部屋なども見るすべもなかった。もっとも、隠し部屋はなかったというのが真相らしいので残念という気持ちの留飲を下げた。

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 太郎が高校受験の中学3年の冬休みに、わたしはNHKの「龍馬伝」をビデオで見ていた。太郎は年末から年始にかけて最後の追い込みに入っている時期に、わたしが通しで見ていた大河ドラマをたままた一緒に見たあと、最初から視聴したいと言い出した。受験で時間がないはずなのに、太郎は見始めてしまい休業中に全48話を見たらしいのだ。48話を全部視聴するにはざっと36時間かかる計算になる。太郎は貴重な時間を無駄に使ったのではないか危惧した。自分が視聴しようと思わなければ太郎がそんな行動を起こさなかったはずだと思っても後の祭りだった。余り信じたくない話だが、そのせいかどうかわからないが太郎は高校受験の第一志望校に落ちている。

 長崎は坂本龍馬が活躍した舞台であったし、武器商人になったグラバーとも面識はあったはずである。神戸海軍操練所が反幕府的な色合いがあると閉鎖されたあと、行き場を失った操練生を勝海舟は薩摩藩に何とかしてもらおうと、操練生に龍馬をつけて長崎に送り込んだのである。長崎に入った龍馬が薩摩藩の支援を受けて立ち上げたのが、わが国最初の商社といわれた亀山社中である。亀山社中はグラバー商会と薩摩藩との仲介をしていたし、長州
藩の代理人的な役割を果たしたことはよく知られている。ただし龍馬は各地を訪れる用向きが多く、ほとんど長崎にいることはなく、グラバー商会との交渉は龍馬と一緒に海舟に弟子入りした近藤長次郎が取り仕切っていた。おそらく、龍馬が長崎にいた期間はせいぜい100日前後だったといわれている。

 「龍馬伝」を視聴したあと、高校に入学した息子が龍馬に関するどんな著作を読んだか知るよしもないが、グラバー邸は龍馬や亀山社中との関連を少しでも知る者には興味ある存在であるはずだ。グラバー邸前の広場・庭園に売り物のアームストロング砲10門が並べられて、長崎港へ砲口を向けていた時期があったことを思い出したかもしれない。グラバー邸から見下ろす景観は稲佐山頂上からの鳥瞰よりは見劣りするが長崎港が一望に見わたせるので、艦船の入出港が分かり通信設備がなかった当時では最高のロケーションであったはずだ。

 グラバーが日本に来た時の年齢は、驚くべきことに21歳の若さである。ホンコンにあるスコットランド系の商社の一社員として来日し、二年後には日本支社を任せられるようになっている。昔の人はそうじて早熟とはいえ、経験も十分でない青年が大金が動く武器商人となって、軍艦や武器の取引をおこなっていったのである。優秀なビジネスマンであっても現代ではなかなか成功しないビック・ディールが成り立ったのがこの時代である。坂本龍馬が長崎に初めてきたのは30歳のときで、勝海舟が幕府の特使として長崎駐在の各国公使との外交交渉をおこなうさいの随員となったときである。このとき、龍馬はグラバーと十中八九顔を合わせたとおもうが、お互いに親しく交流したとはおもえない。次の年、龍馬は亀山社中を結成して、薩摩藩のために商社活動をおこなうようになって初めてグラバーと商売上の交渉をおこなうようになったと考えるのが合理的だ。もちろん、龍馬一人だけでなく、後にクラバー商会との窓口になった近藤長次郎も同席しただろう。

 この亀山社中ができたとき、龍馬は31歳、近藤長次郎30歳であり、交渉相手のグラバーは27歳である。みんな若いし、それほど学問を修めたと思えない青年たちが集って、結果として薩摩藩と長州藩が日本の政治上の覇権を引き寄せるきっかけを生み出したのだ。ビデオの「龍馬伝」は外せない歴史的事実を多数織り込んでいるし、龍馬だけを中心にストーリー展開しているわけではないので分かりにくいが、世の中を動かす登場人物はみんな若く、自ら学問を修めるよりも、学問上の師匠・泰斗から教えをこうて実行する憂国の志士として登場する。太郎は「龍馬伝」をみて、それを敏感に感じ取ったので、「龍馬伝」を全話見たいと思ったのかもしれない。もちろん、ストーリーも面白かったからだが、ビデオを見ているうちに無意識に自分の方向性と同じものを感じ取っていったかもしれない。

 中学生のころ太郎は10年後にビッグになって、大金持ちなるんだとわたしに公言していた。そんな太郎のメンタリティーを強く刺激した「龍馬伝」には、若くして世の中を動かす人物に成りあがる若者が多数登場している。息子の10年後は、龍馬やグラバーとほぼ同年齢になり、太郎自身も幕末の青年志士のように活躍するために「龍馬伝」は参考になると無意識に感じたからの視聴だったのではないか。「龍馬伝」を全話見たあと、息子は受験勉強に余裕を見せるようになり、あまり危機感を抱かなくなった。その行きつくところが受験失敗だった気がする。

 どうして太郎が自己実現の手段としての学問を軽く見るようになったといえば、「龍馬伝」に出てくる登場人物は学問の徒ではなく、行動の徒だからじゃないかと疑っている。聞きかじった尊王攘夷や公武合体と憂国を結び付けて、行動で体制変化をもたらせようとするやりかただが、指導者や藩論で方向性がひっくり返ることがあった。それによって行動する志士も簡単に変節してしまう時代だった。

 太郎もなにかきっかけがあれば大きな仕事ができると信じたのかもしれない。能力や行動力があれば、世の中を上手く渡っていけばそれなりの人物になれる。いまじたばたして受験勉強をするのが得策ではない。といったネガティブな思考が働いて、受験という苦しい作業を必要とするときにブレーキをかけてしまったのではないか。

 グラバーは自分の所属する商社の日本代表が中国戻ったので、その後任となったことにより自分の才覚で貿易事業を始めることができた。最初はお茶や海産物などを取り扱っていたが、政情不安の情勢で武器や軍艦を仲介販売するようになる。はじめは各藩や幕府などどこからの注文も引き受けていたが、しだいに薩摩藩や長州藩のために尽力するようになっていったのが他の外国人商人と異なった点である。ライバルのフランスが幕府側に肩入れしていることから、対抗勢力である西国雄藩の側についたと考えられる。ただそれだけでない気がする。イギリスと薩摩藩の関係改善に尽力したし、薩摩スチューデントの留学生をイギリスに留学させて、現地での学費の融通、学校の選定、住む場所の世話などをしている。長州5にも若干グラバーがかかわっていたし、西洋の道具を使いこなすには科学や原理の知識が必要であると説いて、留学を斡旋したといわれている。太郎はそういうところは見ていなかったが、留学生たちは英国でしっかり勉強して社会の役に立つ人材として活躍している。

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 太郎も受験に失敗して入った高校がターニングポイントになったらしく、学問に目覚めている。「龍馬伝」を視聴して失敗したことが契機になったとはいえないかもしれないが、その当時受験勉強に気が抜けたことは間違いなかったから、失敗から何らかの教訓を得たのかもしれない。特進クラスだったとはいえ、3年間しっかり勉強し難関大学を目指したが、この度も受験に失敗した。浪人は嫌だと言って入った大学では何をするでもなく学生生活を送っていたように思えたが、卒業時に学問的業績で賞金の出る学術賞を頂いた。人生はわからないもので、順調に進路を歩むことができたならば、結果として同じことになったとは思えないし、就職も一部上場企業に入社したかどうかわからない。入学当初は社畜にならない。企業を立ち上げるんだと、中学生の時代を彷彿させるようなものいいをして、就職はしないと言ってた太郎だ。

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 その太郎が改装中のグラバー邸の前庭に立ち、長崎湾全体を眺望している。先ほど見てきたグラバーの胸像を前にして、太郎は何を思ったのだろうか。歴史に名を残したグラバーだが、のちに自らの会社は倒産し、三菱の岩崎弥太郎・弥之助兄弟との長崎での深い絆から、三菱の相談役として長く務めることになり、そのまま日本で亡くなっている。ビジネスマンとしてのグラバーは成功者とはいえない人生をおくったといえる。坂本龍馬もほとんどの人が知っているように、大政奉還後のさまざまな政治改革を用意して事にあたろうする矢先に暗殺されている。近藤長次郎は三人の中では最も早く亡くなった。近藤は亀山社中の規約に反して、グラバーにイギリス留学を斡旋してもらったことが発覚して責任をとって切腹した。ここの三人の若者は早く世に出て活躍したけれども、その期間は短く不幸な結末を迎えている。ただ、グラバーは他の二人より長生きしたが、世の中や社会を動かすような大人物になってはいない。充分な社会・経済上の経験や知識を持たない青年は、たとえ青年期に社会で活躍できたとしても長く続かないことを、高校や大学での学びや経験の中で悟って、自分の進路を大きく変えてきた道程を振り返っているかのように、わたしに思われた。

 中学三年生のとき「龍馬伝」に出会い、坂本龍馬やグラバーの生き方を少年らしく理解し実践した軌跡には後悔という言葉がついて回ったかもしれない。ヒトはあの時もうちょっと頑張っておけば、人生が違ったものになったのかもしれないと夢想しがちである。とくに失意のスパイラルにはまった時に思いがちである。太郎は二度もその経験を踏み越えてきた。グラバー邸から長崎湾を眺めている後ろ姿は、学問や研究を見極める訓練も果たしたし、これから入社するところでは行動力だと、先人の教訓を再び回顧しているような雰囲気をかもし出していた。

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