【#4】『悔悟者』【ブラスフェマス考察】
1.悔悟者とは何者だったのか
私にとって、このゲームを周回しても理解が進まなかった最たる登場人物が悔悟者でした。彼に関する素性は一切出てこず、複数のエンディングを見ても逆に謎が増えるばかりでした。
悔悟者は一人の人間が無限に生き返っているようでもあり、複数人いるようでもあり、修行者や信仰者を指す言葉でもあるような気がしていましたが、どれも定かではありません。
主人公の歩みはそれぞれプレイヤーの心の中に…というのは考察として凡庸な落とし方にも感じますが、自分なりに考えた結果をここに書いてみたいと思います。
※ネタバレ&自己解釈を含みます。
2.プレイヤー規模の「悔悟者」
胆汁瓶のテキストには「悔悟者」についてこのように語られています。
しかし個人的には、この「悔悟者」がプレイヤーが操作する人物と同じ人だとは思えませんでした。元々墓に埋められていたこと、掘り出され血液を聖なるものとされたことは、彼がかつて経験したことなのか。
(どちらかといえば、修道士長や血の泉の人物の方が逸話としてはしっくり来る印象を持ちました。)
また英語版コミックには、悔悟者が初めてクリサンタに敗れた際のストーリーが描かれています。
このエピソードはゲーム冒頭、悔悟者が同胞の死体の山から起き上がるシーンに続くものであり、クリサンタとは一度出会っていた…ということが示されています。
(英語版コミックについては電子版(pdf)がsteamで購入できます。時間のある時に英語を検索しながらちびちび読んでいるのですが、労力がすごいので正直詳細は把握できてないです。アートブックも…)
しかしそれは「プレイヤーキャラクターである悔悟者」の死の直前しか示されていない…ともとれるのではないでしょうか。
つまり「無価値なるものエンド」で打ち捨てられたたくさんの三角兜の全員がクリサンタと闘った訳ではない、のではないかと思います。
3.アルベロと「悔悟者」
唐突かつ(宗教Aを語る為に宗教Bで例える点において)ナンセンスな表現ではありますが、私は「お遍路さん」が一番「悔悟者」に近い概念のように感じます。
なぜアルベロの住人や道中に出会う人々皆、聖母教会を脅かす存在の悔悟者の手助けをしてくれるのか。(ゲームシステムの都合上と言われればそれはそうだけども…)
それは聖母教会が主流となる以前からあるものとして「一心に信仰を貫こうとする者の手助けをすべきである」文化が根づいているのではないかと思います。
アルベロの背景はゲームの進行度により変化し、住民や家畜が現れ、ごく普通の生活が営まれていきます。
村の人々は大聖堂の内部など、なんなら村の外の恐ろしい信仰者?異教徒?など何とも思わず生活をしているようにも見えます。
村人には食べて寝て働く生活のサイクルがあるし、生活に密着した範囲内で神に祈るだけでも信仰を表現できるし、生きていける。しかし一部の人々にとって更なる祈りは必要で、それは悔悟者に協力する、または助けてもらうことで報われる。
お遍路さん的な文化でいえば、彼の祈りに協力することは自分達の分の祈りもなる、という感覚かもしれません。
各NPCは皆最後に、「心は慈悲に満ちています」等の台詞を口にします。邦訳が難しいですが、これもまた「貴方の旅路を祈ります」ということなのではないでしょうか。
アルベロの人々にとって悔悟者は、日常に根差した信仰と、より深い祈りを捧げるシーンとを繋ぐ存在なのだと思います。
※お遍路さんについてもし解釈上の間違い、勘違いがあればすみません。
3.父なる神と「悔悟者」
悔悟者についての説明は、本当にこれしかない(ほとんどない)のでしょうか。
…実は二周目の縛りプレイで手に入るロザリオの伝承に、悔悟者の定義と思われる内容が書かれています。
NG+(強くてニューゲーム:一周目より敵が強くなっている)な上、さらに縛りプレイを追加しなくては知りえない情報です。ハードルが高すぎる気もしますが…
しかし難易度を高くした理由としては、「悔悟者そのものが何者であるのか」はゲームをプレイする上で必須の知識ではない、という意味なのかもしれません。
むしろ悔悟者に関する設定を最小限に留めることで、その匿名性(≒プレイヤーが自己投影しやすくなる効果)を高めているのではないかとも思います。
上記の伝承文より、罪人は個々が抱える罪によってのみ区別されるとあります。
つまりメタ的な視点になりますが、それぞれの「悔悟者」はそれぞれのプレイヤーの辿った道(罪を悔い改める旅)でしか表せない、ということではないでしょうか。
探索順序や出会った人物、悔悟者によって夢の向こう側に渡れた者(あるいは渡れなかった者)…それぞれの運命はプレイヤーの選択によって分岐していきます。
また肉体的に個人を区別されないということは、「悔悟者」はある意味同一の精神的存在とも言えると思います。
「無価値なる者の道」エンドで見られるたくさんの悔悟者の仮面、それらを被っていた者達(別々の肉体を持っていた個々人)の生い立ちや、彼らが灰の山に至る道のりは多少違っているとしても、「無価値なる者」という贖罪の結果が同じであった…という点では、父なる神の視点からは精神的な総体として認識されているのではないかと思います。
(考察としては飛躍しすぎな気もしますが…)
ちなみにクリサンタは、その敬虔さを天の意志に買われて天の鎖に縛られたため、悔悟者が鎖を断ち切らない限りはおそらく同一人物なのだと思います。
(ただクリサンタがCエンドの時点でどういう肉体/精神を持っているのかは不明です。
上記の「キメラ」という発言は、複数人あるいは肉体や魂が結合したもののような意味合いにもとれます。しかしこの台詞は訳文に多少違和感があるので、別のニュアンスがあるのかもしれません)
色々と書きましたが、悔悟者とはその兜による匿名性の下、プレイヤーそれぞれが自己を投影し贖罪の旅をしてゆくという点において、寡黙で誠実な主人公なのだと感じました。
(最後に)
ーー今までwikiやこれらの考察記事に、ひと時でも目を通してくださった方々、ありがとうございます。これはあくまでも私なりの解釈なので正しい根拠がある訳ではありません。
ーーただ、皆さんの世界観理解や考察の一助となれば幸いです。
【ブラスフェマス(blasphemous)テキスト @Wiki】 https://w.atwiki.jp/text_blasphemous/ ←こちらは公式フレーバーテキストをまとめています。よかったら見てね。