【#3・後編】信仰心と自他境界『拘束の苦悶クリサンタ』『第一のアマネシダラウデス』【ブラスフェマス・考察】
2ー2.前編 についてはこちら
下記の記事の後編です。内容は連続していないので別々でも逆順でも読めます。
【#3・前編】信仰心と自他境界『エングラシア』『ソコロ』【ブラスフェマス考察】
ブラスフェマスでは肉体と魂(精神)は別のものとして扱われる場面が多いということ、前回は特に自分の信仰のために肉体を捧げる人々について書きました。
今回は後編として『拘束の苦悶クリサンタ』と『第一のアマネシダラウデス』について書きます。(※アマネシダとはラウデスと彼女の分身の総称ですので、以下ラウデスと記載します。)
肉体と魂が別のものとして分離してしまうが故の強さ、脆さというものが存在し、特に宗教的文脈においては顕著に見られるものである。時にはそれを利用される場合もある中で、どのように己の信仰を貫くのか。
またこの二人を語る上で『天の意志』と原初の行進とは何かについてあらかじめ把握する必要があるので、個人的解釈ではありますが説明してみたいと思います。
※ネタバレ(今回は特に真エンドに関する内容)&個人の解釈を含みます。
3.【補足】天の意志(三語)と原初の行進
少し遠回りしますが、クヴストディアにおける信仰、奇蹟、天の意志、原初の行進について(個人的解釈の下、)説明します。
まず信仰そのものは、人類の物語である以上普遍的に存在するものでしょう。
現実世界でもゲームでも特別な概念ではなく、ごく一般的に「何らかの対象を崇め、祈りを捧げる」という人間の行動の一つです。
クヴストディアでは聖母教会(おそらく「万母の母=母なる神」)の信仰が一大宗教として幅を利かせて(?)いますが、父なる神への信仰の他、太陽信仰やその他“異教徒”と呼ばれる人々がいるのがわかります。(※)
=(※2023/3/19追記)=====
前編でも触れた通り「ブラスフェマスの『母なる神』とは全く別の信仰対象ではなく、各地の教会を総括するような『母教会』という意味である」という方が正しいように思います。
上記の取り消し線部分は「信仰対象の異なる異教徒の他、聖母教会と信仰対象は同じであれど異なる信仰体系を有した団体も存在していることがわかります。」という方が適しているかもしれません。
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そして信仰心の行き先、あらゆる宗教信者の祈りを集めた場所が『原初の行進』と呼ばれるもので、そこでは信仰の対象を問わず敬虔な魂の集まる場所です(根拠は後述の引用)。
※ちなみにゲーム内用語『夢の向こう岸』は言うなれば「(聖母教会を信仰した)正しき者たちの天国」であるため、『原初の行進』とはまた別の意味を持つ場所です。
例えば「信ずる者の道」エンドでは、エスクリバー(母なる神の代表)に代わり悔悟者(父なる神の代表)が新たな「奇蹟の末子」となり信仰を集める様子が描かれます。またスタッフロール後のシーンにクリサンタらしき人物が現れることから、次は母なる神信仰の再生物語が始まるという「父神⇔母神ループ」であることが示唆されています。(※)
=(※2023/3/19追記)=====
上述した『母教会』の意味合いに関する部分を訂正しました。
「次はクリサンタ?と思しき人物が、悔悟者を奇蹟の末子に置いた総本山に抗っていくシナリオが再生されるのではないでしょうか。
要は『同一信仰における少数派が、多数派(元少数派であった悔悟者)の統べる、腐敗し倒錯していく世界を覆す』という現象が再び起こるということが示唆されています。」
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要は信仰の対象が変わっても、信仰という行為自体は止むことがないという結末です。初期実装された「信ずる者の道」「無価値なる者の道」エンドどちらが選択されても、人々の信仰は尽きず奇蹟は起こり続けます。
そしてこの状態が永遠に続くことこそが、『天の意志』の思惑なのです。
それでは、天の意志(三語)とはそもそも何者なのか。
クヴストディアの世界観が構築され、悔悟者や聖母教会、聖下エスクリバーさえも巻き込み、全てを支配していた存在。
黒幕と呼ぶような善悪で切り分けられるものではなく「世の理そのもの」として猛威を振るった天の意志ですが、その正体を問うと下記のように推測できます。
デオグラシアスの説明では、天の意志とは父なる神(当時は敬虔な心を持つ一青年)の「我が」「大いなる」「罪よ」の言葉から生じた概念的存在です。
上記の引用の通り、奇蹟により世界に介入できる存在です。しかし一方で、青年の言葉から天の意志が生まれたこともまた、奇蹟の一つのように思われます。
よって奇蹟という現象と天の意志は、完全なイコール関係または主従関係と断言できるものではなく、「鶏が先か、卵が先か」に近いと個人的には思います。
(普通にゲームプレイするだけで把握するには少々紛らわしいですが…)
「我々は三語、天の意志である」という個の意識を持ってしまった天の意志は、数多の信仰心を己の下に置きたいと考えるようになりました。
信仰の心を収集することが彼らのアイデンティティであり、これが天の意志の行動原理となったのです。
原初の行進自体は天の意志が生じる前からあったようです。
しかし一方で、その行進を曇り空で覆い閉鎖空間を生み出し、あらゆる信仰を閉じ込めたのは天の意志だと推測できます。
※ペルペチュアの台詞に「海や空 赤き地平線によって分け隔てられようとも 我は兄を見守り続けねばならぬ」という一文があり、彼女の魂は天の意志の支配から逃れられている(が、兄はいまだ天の意志の支配下である)ことが分かります。
本当は曇り空を越えた場所にも、魂の居場所は存在しているのです。
奇蹟のいくつかは天の意志が原初の行進を守るため、作為的に起こしたもののようです。(例えばクリサンタを心理的な鎖で無意識下に束縛する等)
天の意志はクリサンタという敬虔な魂の持ち主を従えることで、自らの存在と「原初の行進」を守護するための人物を手にしたと言えます。
同様にラウデスについても何らかの支配をするつもりだったのでしょう。しかしそれが叶わなかったため、危機的状況まで最終兵器として封印したというところでしょうか。
長い前置きになりましたが、「敬虔な信仰心」を捕らえようとした存在がいたという点が重要です。
その天の意志を魅了するような「敬虔な信仰心」を持っていたのがクリサンタとラウデスであり、しかし二人の行く末は互いに異なるものとなりました。
4.自己を忘失するほどの信仰を抱く人々
上記の台詞は四つ目の貌、三語の結び目の根に囚われていた貌の台詞です。この台詞はブラスフェマスのテーマの一つである、と個人的には思います。
敬虔な心を持つことと、その心に付け入られることは表裏一体であること。天の意志が支配する世界では、クリサンタや聖下エスクリバーだけでなく、天の意志を生み出した父なる神ですらその機構に組み込まれています。
それは彼らが(各々、何らかの概念に対して)真に信仰心の厚い者であったからこそ成立している仕組みです。
「信仰により自他境界を喪う場合がある、何者かに支配されることだってある」ということを克己の貌はかなりはっきり指摘していて、それは綺麗事だけでは済まされないという意味を含んでいると思います。
おそらく日本人よりは「何らかの宗教を信仰して暮らす」ことについて造詣が深い開発陣(The Game Kitchenはスペインが拠点)によってこの台詞が書かれているのは、猟奇的なビジュアルと裏腹にとても現実味のある、実感を伴う言葉なのではないか…と感じました。
『拘束の苦悶クリサンタ』
最終アップデートにて、天の意志により意図的に束縛されていることが判明した人物。初期実装の彼女は母なる神、及び聖下エスクリバーの熱心な信仰者といった風でしたが、それは本来の姿ではなかったということです。
クリサンタの二つ名「拘束の苦悶」とは、彼女の信仰心が天の意志によって「拘束」され、利用されているということでしょう。
ゲーム内では巨大な不可視の鎖として表現され、「誠なる心臓」を装備した懺悔の剣により鎖を断ち切られることで、やっと彼女は天の意志の作為から逃れることができます。
上記の伝承より、敢えて「一体何を、誰を待っているのでしょう?」と問われていることから、単なる聖母教会への信仰者ではなかった可能性があります。
(「神聖なる平和の壁」というのは万母の母を指していると思われるので、三語の結び目の根に幽閉された克己の貌でしょうか?
しかし天の意志の拘束下にある彼女が克己の貌を記憶しているかは定かではありません。)
また『鉄顎の王冠』が拾えるのは黙する悲哀修道院であり、聖母教会ではありません。彼女が悔悟者との戦闘後に訪れるのもこちらの修道院(の上にある礼拝堂)なので、父なる神を信仰する側であった可能性もあります。
このアイテムは元々婚約指輪だったようですが、炎の中に投げ入れられたとも記載があり、アルタスグラシアス同様望まぬ婚約を迫られていたのか、あるいは「結婚」という人生の選択肢を捨ててでも信仰に身を捧げるという決意の表れなのか…
彼女の中には(天の意志が支配する前から?)何らかの葛藤があったこと、信仰心に厚いことは確かなようです。
上記の文章も詳細な主語や真偽は定かではないですが、「銀の双眼」により盲目となる→克己の貌が与えた印章により真実を見る眼が開かれる→天の意志の鎖により再び真実を隠される、という過程を経たということのようです。
「銀」のモチーフは祭司長のドルフォスが関連することが多く、聖下もまた銀の目を持つとされているため(根拠:大聖堂屋上の遺体の声)、聖下の支配下に置くために何らかの処置を施された…可能性があると思われます。
それをよく思わなかった克己の貌がクリサンタに聖傷を授け、天の意志が意図的に作り上げた世界の秩序を直視せよと目論見ます。
しかし天の意志もそれに対抗し、逆に彼女を信仰心の鎖で繋ぎとめることによって、真実を覆い隠す傀儡の一人としてしまいます。
そしてこの一連の過程の何処にも、「彼女自身の」自己決定権は無かったのです。
悔悟者が鎖を断ち切ったことで、やっと彼女は自己の肉体と、自己の信仰心(精神)を取り戻すことができました。
そう考えると、その後の展開は彼女自身が望んで行動した通りの結果であり、青空の清々しさがとても映える結末だと思います。
『第一のアマネシダラウデス』
かつてツイストワン(父なる神)が一青年であり、樹に巻き付かれた彼の聖体を運ぶ行進の儀式を護衛していた女性(たち)です。
天の意志によって封印され、来たるべき時に備え眠らされていましたが、悔悟者の行為が天の意志の世界を脅かしたが為に封印を解く鍵が出現しました。(だから二周目でなければ戦えない相手…ということでしょうか。)
ラウデスは元々一人の人間でしたが、その敬虔な信仰心は肉体が耐えられないほどでした。
しかし天の意志の干渉?により、彼女の情熱は金糸として紡がれ四人の分身となりました。ロザリオ『黄金糸の数珠玉』伝承にその光景が描かれていますが、おそらく天の意志が分身を作らなければ、彼女は(エングラシアのように)溢れる信仰心に耐えかねて亡くなっていたかもしれません。
その敬虔な信仰心が捧げられていたのはあくまでもツイストワンに対してであり、天の意志(三語)へ捧げられたものではありません。
ヒブラエルの語を要約すると「奇蹟は嫉妬し、献身を独り占めしようとしてアマネシダを埋葬した」とのことですが、これは天の意志が支配できないほど強固な気持ちを持つ故に、クリサンタのように繋ぎとめることすらできなかったということでしょう。
ラウデスが戦闘前に語る言葉は難解ですが、上に引用したように「愛することが罪業である」として、また「四つの分身を与えられた借りがある」として、天の意志と交わした約束(悔悟者を止めること)を果たさない限り、天の意志からは解放されないのだと思います。
悔悟者がラウデスを倒すと彼女は「情熱がこの体へと帰還する」と安堵するように呟き消えていきます。
強く在り続けることよりも、分割された精神が彼女本来の肉体に戻ってゆくことが救いであり、それにより自身が消滅するとしてもよかったと思える、信仰は誰にも支配されない本人のものであるからこそ美しい…そんな答えを表現するようなシーンでもありました。
とても長くなってしまいましたが、信仰の観点から自他境界について言及された貴重なテーマだと個人的には感じました。
(私は宗教学も医学も専門家ではないですが)現代では「自他境界が曖昧であることが病理的な影響を及ぼす」ということに理解が深まってきていると思います。例えばHSPという言葉をよく聞くようになったり…
「共感」は思いやりの側面ばかりではなく、共に傷つくというマイナス面を併せ持つことに気づいてきたのだと思います。(少なくとも、現代日本社会という環境においてはその段階にあるという意味で)
己を捧げることは宗教ではよく語られてきた題材ですが、この作品はゴア表現や残酷な(時には過激すぎにも思えるような)描写を通して、「信仰に身を捧げるとは決して、(現代基準でいう)健全な生き方であるとは限らない」というメッセージを残しているように思います。
しかしそれでも私個人にとっては、その狂気性や純粋さに惹かれてしまうということがよく実感できるゲームでした。
続編でもその魅力的な信仰の持ち主が多く現れることを期待しています。
【ブラスフェマス(blasphemous)テキスト @Wiki】 https://w.atwiki.jp/text_blasphemous/ ←こちらは公式フレーバーテキストをまとめています。よかったら見てね。