ドグラ・マグラ
中学生の私が、読んでいたらかっこいいのではないかと思い、手にした「ドグラ・マグラ」。久しぶりにじっくりと読んだところ、世界観にすっかり漬かってしまい、「そういう」文章を書きたくなり、今に至る。実際に読んでみると、気疲れというか、あっちこっちに引っ張りまわされているような感覚になる。熱中して読むほどに、どれが真実なのか分からなくなり、小さな脳髄が揺れる。
なんとも無粋な視点だが、人間の作ったものである以上は裏側に本当の設定や設計図があるのではないかと目を凝らしてしまう。ついつい、点と点を線で結びたくなる。だが、いつまでたってもしっぽは掴めない。はじめは読むのに苦労した、チャカポコチャカポコというリズムが耳に楽しく響く。
だんだんと、「ドグラ・マグラ」という小説そのものが本当の人間のように思えてくる。気ままなように見えるその仕草には、どんな意味が込められているのだろうか。意味ありげなその物言いに、本当はどんな意味があるのだろうか。無意識のうちに、なにか本音を吐露しているのではないだろうか。
結局のところ、人間は自分のことすらよくわかっていない生き物だ。他人のことが分かるわけがない。にもかかわらず、必死になって答えを見つけようと追いかけてしまう。どこかミステリアスな人間に惹かれる。
「ドグラ・マグラ」はまさしく、一晩だけ出逢ったひとのようだ。探偵小説であるからして、謎は必ずあるものだが、その解はそれぞれにある。同じ人間に対する印象が人それぞれであるように。
夢野久作が10年もの歳月をかけて作り上げた「ドグラ・マグラ」は、自身の心理が遺伝した半身であり子供であろう。そこに人間性が宿らないわけがないのだ。
ここまで書き上げて、結局のところ自分の脳髄から逃げられていない自分に気づく。「ドグラ・マグラ」の本質に触れるには、まずは脳髄ではなく身体の細胞で考えるところから。ぜひ、一度記憶を飛ばし、脳髄を捨てて読んでほしい。