密航日帰り旅行に言い訳を
2020/8/23 見出し画像を追加し、一部修正しました。
朝から一人の生徒の姿が見当たらないらしい、という噂を聞いたのは、週末の昼過ぎだった。
一応当然のこととして、週末は授業がない。食堂も空いている時間内に行けば食事にありつける。その日、僕が食堂まで下りて遅めの昼食(献立はエビのサラダとアサリのパスタでまあまあラッキー)をとっていると、向かいの席にいきなり座ってきたマキが言った。
「聞いたか? シンザキが学校を抜け出したらしい」
どこか興奮したような、同学年の男の口調。下手な噂好きは嫌われるぞ、と僕は心の中で毒づく。実際彼に対する周囲からの印象はそれほど良くはない。
「シンザキなら」僕はでまかせに適当な内容を喋る。「さっき寮区画の端の廊下で見かけたような気がするな……」
その言葉を聞いたマキは勢いよく立ち上がると、「おいマジかよ」とだけ言い残して食堂から足早に出て行った。騒々しいやつ。こうして僕は、この噂好きを追い払うことに成功した。過去にも何度か同じような場面で、同じように追い払うことに成功している。
それから、僕は誰にも邪魔されない食事に戻った。
しかし一人の生徒――シンザキが学校のどこにもいないことは、どうやら確かなようだった。夕方近くには教員を含めた大人たちが何度も学校中を見回り、寮区画の部屋も一つひとつ調べて回っていた。
もし本当に生徒が学校を抜け出したとしたら、色々と面倒なことになるだろう。具体的に自分にどんな影響が及ぶかは想像もつかなかったけれど、それでも暗澹とした予感だけはあった。
そしてその予感は、少し形を変えて現実のものとなった。
夕方近く、退屈しのぎに運動室で軽く体を動かしたあとシャワーで汗を流してから自分の部屋に戻ると、そこでは行方をくらましていたはずのシンザキが、僕を待ち構えていたのだ。
僕と同い年のシンザキは、少しだけ変わったやつだった。
何時間も机にかじりついて何かに没頭したかと思えば、突然実験室の小さな水槽で微生物を育てはじめたり、その取り組みがある日表彰されて、何やら遠くの街にある大学の研究室と関わるようになったり。
前に一度、シンザキの部屋で、そんな自慢めいた話を延々と聞かされたことがある。話が途切れないシンザキの背後の壁には一枚のプリントされた写真が貼ってあって、その中ではシンザキが見知らぬ白衣姿で細身の男性――僕らと比べてもそう年上には見えない――と二人で並んでいた。
その相手は誰かと訊ねると、
「彼もその研究室で藻類由来の炭化水素を研究している大学生で、僕の発表に興味を持ってくれてね。それで最近連絡を取り合うようになったんだ」と、シンザキ。
「へぇ」と、僕。
それからその大学生についての話が続いた。写真を撮ったのは長期休暇の間に一度だけ、はるばるその大学を訪ねたときだと言っていた。
寮の部屋は本来二人用だったが、僕は一時的に一人で使わせてもらっている。同居人が怪我がもとで学校を辞めてしまったせいだ。
机の上に小さな梯子で登るベッド、それが手狭な部屋に二組。一人でようやく十分な広さに感じる。
僕を待ち構えていたシンザキは、一時的に主のいない椅子に座っていた。そして僕に気づくと顔色ひとつ変えず唇の前に人差し指を立てつつ、僕を手招く。
僕は指示された通り静かに部屋の中に入り、ドアを閉め、そして自分の椅子に腰かけた。ちょうどシンザキの正面。ベッドとベッドの間隔は狭い。
「これを」
そう言いながらシンザキはポケットから何かを取り出して僕に差し出す。それは褐色の半透明の小さな板で、受け取った僕は部屋の照明に透かしてみる。
「これって?」
「すごいだろ? 新しい藻類由来炭化水素から作ったプラスチック。まだ試作品だけど。特別一つくれたんだ」
すごいと言われても、僕には何の変哲のもない、くすんだ褐色の半透明な板にしか見えなかった。
だから別の話題を持ち出す。
「学校抜け出して、バレずに戻ってくるほうがよっぽどすごいけどな」
彼は小さく笑って初めて視線を逸らし、小さく「まあね」とだけ応えた。やはりそうだったらしい。
「一体どうやって?」
「そうだな……。毎日荷物なんかを運ぶためのテンダー・ボートが学校と街の間で行き来しているだろ? その中にある荷物用の大きなケースに隠れたら、余裕で街まで行けたんだ」
「行先は?」
その質問に対して彼は答える代わりに、
「まあ遊びに出かける、っていうんじゃ外出許可は下りないからね」
確かにその通りだった。身内の葬式でもなければ、臨時に学校から外の世界へ出ることは許されないだろう。この学校の場合は。
「そうだ、今度はお前も一緒に行ってみないか? ボートの運行スケジュールはわかってるから、あと一週間は実行できる」
やめとくよ、と僕はすぐ断った。第一距離が遠すぎる。そう付け加えた僕にシンザキは、反論する。
「そうでもないさ。学校のデッキからでも見えるくらいだ」
*
重い扉を押し開けて、僕ら二人は外のデッキに出る。
胸のあたりの高さにある手すりの向こうには、見渡す限り一面の大海原が広がっている。
僕らが在籍する学校船〈ミナーヴァ・ハウス〉の船尾側のオープンデッキ。今停泊しているのは、拡張工事が続くとある洋上都市の沖合で、西の水平線へは今まさに太陽が沈もうとしていた。
ほら、と言ってシンザキが指差した先に目を凝らすと、うっすらと建設用大型クレーンの小さなシルエットが見えた。
街。
人工のものとはいえ、今の時代には貴重な陸地という存在。
それ以外この学校の周りには、どこまでも夕映えの海だけが広がっている。
気候変動とその他いくつかの理由による海面の〈急上昇〉を、祖父母の世代の人々は直に経験した。人類は水没によって地球上の多くの土地を失い、しかし食糧とエネルギーの生産に関しては〈急上昇〉以前に大きな技術革新を成し遂げていたから、人類が生き延びることは案外難しくなかった。
それ以来人々は、わずかに残された陸地や、人工的に建造された洋上都市や、そして船の上で暮らしている。
暮らすための居住船。仕事のための商業船。巨大な甲板の上がすべて畑になっていて、そこで収穫効率が良くなるようゲノム改造された麦や芋や野菜が栽培されている農業船。例を挙げればきりがない。それら〈急上昇〉後に人々が生きるため造られた船は、どれも〈急上昇〉以前と比べてはるかに巨大で、そして各地で集まって船群――船による集落を形成している。医者や教師のような専門的職業の人数が限られることも、船群の形成を促したらしい。それを証明するかのように、各船群にはだいたい一つずつ学校船と病院船がある。
しかしこの学校は特別だった。
航海をしながら昔ながらの全寮制学校的教育を提供する学校船。寄港する各地で新たな生徒を受け入れることで、多様性を経験として学ぶ――そう宣伝ではアピールしていたけれど、実際に入学できるのは特定の地域の出身者に限られていた。法制度の関係らしい。「土地がなくても国や法律という形はなくならないものだ」と、先生も授業で言っていた。
夕暮れの潮風が、シンザキの髪を揺らす。
いつの間にか、僕らは二人でデッキに並んで、暗くなりつつある海を黙って眺めていた。
「陸地はいいね。人類が生み出したものの極みだよ」
シンザキが呟く。この船の学校に在籍する生徒の大半は陸地の出身者で、陸地に住めるということは、それなりに家が裕福ということだ。
僕はこの学校では例外的な船群の出身で、だから陸地出身者がストレスに感じる船上生活を僕はたいして苦に感じていない。
「確かに。卒業したら陸地に住めるようになりたいな」
そう言いながらも、僕はずっとシンザキが今日学校を抜け出した理由を考えていた。プラスチック板のために、知的好奇心だけでリスクを冒すだろうか。僕と同部屋だった生徒が退学になったのも、ある日勝手に船を降りて、海で泳ごうとしたからだった。飛び込みに失敗して作った怪我が原因というのは、口実に過ぎないと皆気づいていた。長距離を航海する以上、親元から預かった生徒の安全に学校は最も神経を尖らせている。抜け出しは退学になってもおかしくはない。
きっと誰かに直接会いたかったのではないか――不意にそんな気がした。
シンザキが連絡を取り合うようになったというあの大学生。確か彼がいるのは、こうして僕らの学校が沖合に停泊しているあの街だったはずだ。この学校は補給や人の乗り降りなどのため、定期的に陸地の港や都市の沖合に停泊し、その予定は前々から決まっている。
普段生徒による外部への連絡は通信帯域の都合でテキストベースの方法に限られている。
直接会うこと。
顔を合わせること。
「会えたのか?」
「誰にだい?」
シンザキは不思議そうな目で僕を見てから微笑んだ。なんだか憂いを含んだ笑いだった。何か期待外れのことでもあったのかもしれない。
そんなシンザキに、自由な外の世界へ飛び出そうとする彼に、僕はずっと前から憧れていた。
デッキから船内に戻った僕は、シンザキの言い訳づくりに協力することにした。「君が面倒を被る必要はない」とシンザキも言っていたけれど、これはいってみれば僕の我儘だった。
シンザキは朝から寮区画の僕の部屋にいて、そして非常にセンシティブな悩みを大親友である僕にだけ打ち明けてくれていた。また非常に悩んでいる彼は僕以外の誰とも顔を合わせたくないと言っていた。云々。
このストーリーを、僕はわかってくれそうな教員を選んで報告することにした。そしてそのあとの夕食の時間、シンザキは大袈裟にふさぎ込んだ芝居をしながら食堂に姿を見せた。
翌日、シンザキは何事もなかったかのように授業に出席した。
同じ教室で、僕は窓の向こう、どこか遠くにある陸地というものに思いを馳せていた。