【掌編小説】風邪の(予防のために)手を洗え
1
「完璧な手洗いというものは存在しない。完璧な人生というものが存在しないようにね」
昔、街へ来る前の僕が偶然知り合った石鹸職人は、僕に向かってそう言った。僕がその言葉の意味を本当に理解できたのはもっとずっとあとになってからだったが、それは僕にとって一種の諦めとして機能した。完璧な手洗いというものは存在しない、と。
しかし完璧な石鹸というものは存在する。僕はその存在を、街の店の棚で薄く埃をかぶっていた本の中の記述で知った。
完璧な――どれほど使っても決して無くなることのない石鹸。
この文章はそんな無限の石鹸についてのものだ。僕についてではない。
あるいは、時間の空虚さを塗り潰すための染みのようなものだ。
2
昔から僕は頻繁に手を洗い、長い時間家にいる。
「潔癖症」という言葉を知ったとき、これは自分のことだと思った。僕は一日に何度も手を洗う。一時間以上手を洗えないと気持ちが落ち着かなくなってしまう。外でも無意識にトイレや、その他の手を洗える場所を探してしまう。
そして僕は手を洗う。頻繁に。
手を洗うときには石鹸が欠かせない。しかし、泡で出てくるハンドソープのことは、なぜだか好きにはなれない。家ではいつも固形石鹸を使う。けれども公衆の洗面台には、液体石鹸が用意されていると嬉しい。
おそらく僕は、自分で石鹸を泡立てるという行為そのものが好きなのだと思う。
そういうわけで、僕は手を洗っていた。
地球が滅びたその瞬間も。
3
石鹸が街に入ってこなくなる。地球が滅びたからだ。
街で唯一の店の主人がそう言っていたのだから、間違いない。
この小さな街に一つだけある店は、こぢんまりとした店構えながらも、所狭しと並んだ棚に無数の商品を並べている。そこでは食料品が売られ、日用品が売られ、衣料品が売られ、その他のあらゆる品が売られている。
「どうやら本当らしい」
僕が店の主人に「本当に地球は滅びたの?」と尋ねたとき、彼はそう言った。彼は生え際が後退した中年の小太りな男で、僕よりもずっと前からこの街で暮らしている。
「商売あがったりだね。品物が入ってこなくなる」
「これからどうなるの?」
「そんなことは誰にもわからないさ」
店の主人は当然のことのように言った。その口調はまったく深刻そうではなかった。
きっと彼自身は、地球が滅びても、そのせいで商売があがったりになっても、何も困らないのだろう。
しかし僕には大問題だった。
すべての地球の外にある街へは、定期的に地球から物資が送られている。だから地球が滅びると、石鹸を含めた地球からの物資が途絶えてしまう。それでも街で唯一の店の主人は困らないのかもしれないが、僕にとっては危機的状況だった。
手を洗うのに石鹸は必要不可欠だからだ。
4
長い時間家にいる。
それは街の皆もそうだ。
街の通りに出ていても、何もすることはない。忙しくしているのは店の主人くらいなものだ。それも入れ替わり訪ねてくるお客と世間話を交わす程度の忙しさだ。
何一つ変わらない街の毎日。時計を見なければ、ここには昼夜もない。空もなければ季節もない。雨雲もなければ、野生の動物もいない。
外は常に薄暗いから、強いて地球の基準で言えば街は一日中が夜ということになる。
地球からの荷物を積んだ船が到着したときだけ、街は活況を呈する。労働者が荷下ろしを行い、わずかだが船に乗り込む人もいる。
船で街を出る人間は、旅人と呼ばれている。そこで僕は旅人になるべきだと考えた。
完璧な石鹸を求めて旅に出よう。
石鹸の供給が途絶える街で今後も手を洗うためには、どんなに使っても無くならない石鹸を手に入れるしかない――それが散々頭を絞った結果辿り着いた結論だった。
5
完璧な無限の石鹸の話について記された本。
僕はクローゼットから引っ張り出したバックパックに、その本も入れていくことにした。バックパックには最低限の着替えと、その他の身の回りの物が既に入っている。数日間の旅なら続けられるはずだ。僕はその荷造りをする最中も、何度も洗面所に行って手を洗った。
蛇口を捻って水を出し、手を擦り合わせ、いつも決まった位置にある石鹸を取る。そして丁寧に泡立ててから、石鹸の泡で両手全体の汚れを落としていく。最後に水で流し、タオルでふき取る。
そうして僕は家を出た。
しかし、結果的に、僕は旅人になることはできなかった。
発着場の待合室で、一人の旅人と出会ってしまったからだ。
6
「この街に店はあるか?」
旅人はいきなり僕に向かってそう訊いた。僕が戸惑いの表情を浮かべていると、彼は説明のようなものを始めた。
「これから乗り継ぎの船で地球まで行くが、足りない物がある。もしこの近くに店があれば教えてほしい」
待合室は木製のベンチが数脚並んだだけの小部屋で、僕と旅人以外には誰もいなかった。彼――旅人は落ち着いた低い声で話し、片手にはトランクを提げ、丈の長いコートを着ていた。
僕は仕方なく街で唯一の店に案内することにした。
店の前まで着いたところで僕は尋ねた。
「何が必要なんです?」
「石鹸が要る」
旅人は一歩店の中へ足を踏み入れると、視界を塞ぐように林立する無数の商品棚に面食らったようだった。
「石鹸はどこにあるかな?」
旅人は隣の僕の顔を覗き込んだが、僕は答えることができなかった。
7
どういうわけか、僕は街で唯一の店で石鹸を買ったことがなかった。
店の主人もそうだと言った。
どうやら本当に、僕はこの街に来てから一度も石鹸を買ったことがないらしい。
わけがわからなかった。
そして結果から言うと、僕の部屋にある石鹸こそが、どれだけ使っても減らない完璧な石鹸だった。
わざわざ僕の部屋まで来てそのことを確かめた旅人に、僕が改めて「わけがわからない」と言うと、彼は微笑んで、
「そういうこともある。地球の外の街の住人には特にな……。だから何も気にする必要はない」
それだけ言い残すと、旅人は旅に戻っていってしまった。
反対に僕は、相も変わらず家に留まっている。
「君だったんだね」僕は洗面所の石鹸に向かって、そう話しかけたい気分だった。
「そう。そういうこと。私はずっとここにいて、あなたはずっと私で手を洗ってきた」
洗面台の縁に載った石鹸が答えてくれたような気がした。僕は洗面所の入り口に立って、小さな照明の光を受ける石鹸の姿を見つめていた。
「どうして気が付かなかったんだろう?」
「あなたにとって大事なのは石鹸じゃなくて、手を洗うことだったから」
その通り。大切なのは手を洗うことだ。
それから僕は穏やかな心地で、また丁寧に手を洗った。
8
それから数週間経って、あの旅人から僕に宛てて一通の絵葉書が届いた。
絵葉書には、宇宙から撮られたらしき青い地球の写真に添えて「一度は滅びた地球も、今は修理されて元通りだ」と記されている。
そして隅には小さく、
「ウォッシュ・ユア・ハンド。
そして
ステイ・ホーム。」
と書いてあった。