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本が読める特別な彼女


 窓の外、よく晴れた初夏の空に大きなクジラが泳いでいる。空中なのだから浮いている、というべきかもしれない。
 巨体に不釣り合いに大きな目がついていて、その目が私のほうを向いたと思った瞬間、みるみるうちにクジラの体は腐ったように不気味な赤黒い色に染まり、肉がぽとりぽとりと落ち始めた。
 視線を窓から教室に戻す。白い内装の物理授業用ルーム。電源がついたままの〈教科書〉は、直前まで行われていた授業の内容を映し出したまま。
 机の上に並んで置かれた私の色白な手を、無数の小さな黒い蟻が這っている――ように見えたけど、何度か瞬きをすると、蟻なんて一匹もいなかった。
 教室は騒然としている。怯えた叫びが飛び交っている。立ち上がって何かを叫ぶ生徒もいる。
 さっきまで授業をしていた若い男性教師は、全身をかきむしりながら床でのたうち回っている。それも奇声を上げながら。
 どこかで爆発が起きたような音がした。それから遠雷が――光ってから数秒遅れて届くような鈍い轟音が、聞こえたような気がする。
「ルミ、一緒に来て!」
 その声に振り向くと、クラスメートで親友の詩丘ミイナが私の腕を掴んでいた。
 断る理由のない私は、ミイナに導かれるまま教室を飛び出す。
 ミイナは私の腕を掴んだまま、混沌の真っただ中と化した廊下を走り、普段は誰も近寄らない階段を駆け上がっていく。
「どこに行くの?」
 尋ねるとミイナは、
「安全な場所。誰かが来ても困るから」
 子供たちは常に見守られなければならないという考え方のもと、校内ではすべての廊下とすべての部屋に設置されたスキャナが常に私たちの姿を捉えている。もっともこの混乱で、監視が行き届いているかは疑問だった。
 ミイナが私を連れてきたのは屋上だった。扉が壊れていたのか、ミイナが勢いよく体当たりすると、出入り口は簡単に開いた。
 二人とも息を切らせながら屋上に出る。初夏の日差し。清潔で画一的な建物が織りなす退屈な街並み。
「ここなら出入り口も一ヶ所だし」
 すると視界の隅のほう、街の中心部のほうから爆炎が上がるのが見えた。思わず私は身を屈める。
「何か見えてる?」と、ミイナ。
「爆発が……」と、私。
「そっか……本当には爆発なんてしてないんだけどね」

   *

 彼女、詩丘ミイナは特別だった。
 なぜなら、彼女は本を読むことができた。

   *

「見せたいものがあるから」と言って寮の彼女の部屋に招かれた私に差し出されたのが、一冊の本だった。
「開いてみて」
 言われるがまま、私は本のページをめくる。指先に感じる紙の質感。びっしり詰まった文字の群れ。
 本なんて読んだことのない私は、はじめこそ文章を目で追っていたけれど、次第に全く内容が頭に入らなくなってしまった。軽い頭痛も感じている。
「本当に読めないんだ」
 驚いたようなミイナの発言の意図を私は汲みかねて、思わず怪訝な視線を彼女に向けてしまう。
「私は読めるんだ。本」
 そう言って彼女は、この本の内容と思わしきことを口頭で説明し始めた。
「人間の脳には他者の苦しみが減ると、つまり観念的に言って他者が何かを得ると、自分の存在が脅かされたように感じる性質があって、それは遥か昔、人間がようやく小さな共同体を築き始めたころには、生存に有利だったからこそ今にも残っている特性なんだって。つまり、生存のためのリソースが有限だった時代、食料も安全な土地も有限だった時代には、他者が何かを得ることと、自分の生存のためのリソースが減らされることはイコールだった」
「なんだか嫉妬をわざと難しく説明しているように聞こえるけれど」
「そこに気づくとはいいセンスだね、ルミ」

   *

 私が彼女と初めて会ったとき(それは入学して初めての学習用脳ナノマシンの投与のときで、場所は清潔すぎる学校の処置室だった)彼女はクラスの女子にも男子にも分け隔てなく明るく接して、おしゃべりの輪の中心に収まっている最中だった。私とは真逆みたいな子がいるんだなと思いながら、私は退屈な処置の順番待ちを黙ってやり過ごそうとしていた。
 少年のような短い黒髪。後ろから見ると、ミイナは本当に華奢な男の子のようだ。そんな彼女が突然、私の傍まできて話しかけてきた。
 そのとき彼女が何を言っていたかは忘れてしまった。ただ、わざわざそんなことをするなんて、不思議な子だなと思ったことは覚えている。
 そうして私は詩丘ミイナと出会った。

   *

 あるとき、私はミイナに向かって言った。
「私ね、お母さんの顔知らないんだ」
 いつからか、私は足しげく彼女の部屋を訪ねるようになっていた。
 ベッドの上で私の話に耳を傾けていたミイナは、今度は自分の番といわんばかりに、袖をまくって自分の腕の内側を私に見せて、
「これ全部骨髄液の採取箇所」
 そこには痛々しい痕が複数残されていた。
「私のナノマシンが効かない体質を、他人に移植できないか実験するんだって。軍が」
「軍隊?」
「心理軍っていうところ。内緒にしててね」
 彼女の口調は真剣だった。
 この頃には、そんな話をするほど私たちの距離は縮まっていた、ということなのかもしれない。
「特別な体質。だから本が読める。でもあまりに特別だから、私の所有権は一部軍にある」

   *
 
 ミイナには言わなかったけれど私の父、照内幸人は心理軍で職業軍人をしている。冬の長期休暇で帰ったとき、私はもしかしてと思って父に尋ねてみることにした。「体質のせいでナノマシンが効かない、なんてことあるの?」と。
 父は内緒だぞ、と前置きしてから饒舌に語った。リビングのソファで寛ぎながら、傍らの洋酒のグラスは注いだときから半分ほどに減っている。
「確かにナノマシンが効かない人間、というのは実在する。免疫系の遺伝子型が特殊で、体内に入ってきたナノマシンを異物として排除するんだ。すると何の役に立つ?」
「軍隊」
「そう。今の軍事は陸海空のような領域としての心理、つまり脳に作用し精神症状を起こすナノマシンが兵器として用いられている。それも空中散布型だ。もしナノマシンが一切効かないとしてら、兵士や工作員として相当優秀な人材になれる」
「実は友達に、本が読める子がるの。学校のナノマシン、本が読めなくなるんでしょ?」
 その私の言葉に、父は一瞬だけ言葉を途切れさせてから、
「この体質は一定の確率で存在するらしいからな。心理軍が管理している体質者のリストは膨大だ」
 私は、父がそらした目線に、父は詩丘ミイナを知っていると確信した。
「どうして本を読めなくするの?」
「半端な想像力が人の憎悪を生むからだ」
 父はそう言って傍らのグラスの中身を飲み干すと、どこか遠くを、目の前の私ではない誰かに向かって話すように続けた。
「情報の流通が統制されていなかった時代の話だ。人の認識能力に対して情報の流通量が多くなりすぎた時代。そんな時代では、人の想像で現実を補完する能力は裏目に出るようになった。結局は想像力のせいなんだ。だから学校では子供たちの考える力を奪う」
「それと本を読む力にはどんな関係が?」
「統制以前の情報は、電子上からは削除されているが、紙の媒体はまだ物理的に残っている可能性がある。もし残されている有害――とは限らないんだが、とにかく過去の情報に子供たちが触れたとき、その内容がわからないようにしておくことが有効視されたんだ。特に子供たちがフィクションに触れて想像力を涵養することを防ぐ狙いがあった。学校で数年にわたりナノマシンの投与を受ければ、その後も効果は持続する。まとまったテキストを読解する行為は、それ相応の訓練を要するし、訓練ゼロで育った人間は前時代的な想像力をほとんど働かせることはできない」

   *

 学校で生徒に注射する学習用ナノマシンは、もちろんシナプスの結合を促進させて記憶形成を助ける効果なんかもあるけれど、それに加えて脳の前頭前野と呼ばれる部位の一部に作用していわゆる「想像力」を弱める効果と、透過光と反射光による脳の反応の違いを利用して紙に書かれた文字を読むときだけ文章の理解を妨げる機能がある――。
 それが父の話に加えて、寮の自室からオンライン上で関係ありそうな知識を調べまくった私が到達した理解だった。これでも情報は統制されているらしく、露骨に資料が閲覧制限されて調べ物が頓挫しかけることが何度もあった。

   *

「私ね、時々寂しくなるんだ」
 ミイナが呟くように言った。学校の屋上で私たち二人だけ。学校の中に限らず街全体が、空中散布されたナノマシンによる幻覚や幻聴のせいでパニックに陥っている。
「いつかは誰とも離れ離れになってしまう。でも誰かは私のことを覚えていて、時々思い出してほしいなって」
「頼んだあれ、どう?」
 私は強引に話題を変える。ミイナは少し驚いた表情を浮かべたが、それでもポケットから小さな銀色の筒のようなものを取り出して、私に渡す。
「私がミイナを一生覚えているためだよ」
 そう言って、私は筒のようなものの一端を自分の腕の内側、静脈のあたりに突き刺した。
「いいの? ルミ」
「終わってから訊く?」
 思わず二人で笑ってしまう。今私の体には、移植用に調整されたミイナの造血細胞が流れている。最新技術で拒絶反応もなく、この無痛針を一度さすだけで処置は完了。「移植実験用のミイナの骨髄、一本くすねてきて私にくれない?」そう頼んだのは一月ほど前だった。
 遠く街の通りを、巨大な犬が涎を垂らしながら歩いている。近くでまた爆発のような音がする。全部ナノマシンのせいだから、隣のミイナには見えていない。心理的な攻撃。父が最近仕事で忙しいと聞いていたけれど、それとこれも関係があるのかもしれない。

 想像力があって本が読める。
 私はただ、友達が日頃どんなふうに感じているのかを知りたいだけだった。

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