親への感謝とモヤモヤ、両方を抱えながら生きていい
摂食障害に悩む方々のお話に耳を傾けていた頃、よく聞く言葉がありました。
「親に感謝しなければいけないのは分かってるけど…」
「親のことを責めたらダメだし…」
そんな言葉を聞くたびに、「親に感謝しましょう論」とは、一体何なんだろうと、よく思ったものでした。
親への感謝、本当に“すべき”もの?
生んでくれた恩、育ててくれた恩、大学に行くのを許してくれた恩など、振り返ると親が私にしてくれたことは、山ほどあります。だから親には感謝しているのですが、「親に感謝しましょう論」には、2つの違和感を感じます。
まず1つ目は、親子の在り方は多様であるということ。
仲の良い親子もいれば、不仲の親子もいる。愛したかったけど愛せなかった親がいれば、愛されたかったけど愛を感じられなかった子どもがいる。おたがいの顔を見たことさえない、親子もいるかもしれない。
さまざまな親子関係があるなかで、親への感謝という感情が、個人が当たり前のように“持つべきもの”として捉えられているのは、何なんだろう。まるで親に感謝するのが普通で、感謝していないのは恩知らずや傲慢の表れとでも言いたいかのような価値観に出逢うことがあります。
親から受けた傷がどうしようもなく大きいとき、それでも“親への感謝”を押し付けられたとき、その人の悲しみや苦しみは、どこに行けばいいんでしょう。
2つ目は、感謝と不満を同時に感じるのは、いたって普通だということ。
親の愚痴を言えば、「親を悪く言ってはいけないよ」と言われる。
親に与えられたものが重たくて受け入れられないとき、「受け入れられない自分がひどいんだ」と感じてしまう。
そんな場面にぶつかって、まるで自分が間違っているかのように感じてしまうと、よく聞くのですが、別に何も間違ってないと思います。
親にだって、イラッとするときはある。愛情と見せかけた言動で、親が自分の不安を解消させようとしているときもある。親も子どもの気持ちをきちんと汲み取れず、愛情や想いがすれ違うこともある。なぜなら、親は絶対的な存在ではなくて、ひとりの不完全な人間だからです。
だからこそ、親子一緒に成長していくときもあれば、親子だけど決別を選ぶときもあります。恋人のことを365日好きでい続けられない日もあるように、感謝とモヤモヤを同時に感じるのも、あるいはどちらかだけを感じるのも、ごくごく自然なこと。むしろモヤモヤが抑圧されてしまう環境や価値観こそ、不健全ではないでしょうか。
親に感謝できるかより、目を向けたいこと
親に感謝できるのは、当たり前ではありません。ただ、親に感謝できる家庭に生まれた自分は、ラッキーをひとつ持っているということ。人ぞれぞれ、自分の生い立ちや境遇のなかで、得られたもの、得られなかったもの、そして失ったものがあります。
そして、何を持っているかが幸福か不幸かを決めるわけでもありません。人それぞれ持っているラッキーは違うのだから、まずは、今までに自分は何に支えられてきたのか、今何を持っているかに気付くことのほうが大切。そのラッキーは、分かりやすいものかもしれません。人生のなかに当たり前にあったものかもしれません、もしかしたら最初は絶望のふりをしていたかもしれません。
そういった、自分が今までに享受してきたものに気付いた先で、自然と沸いてくる感情が、感謝じゃないかなと思うのです。感謝すべきだから感謝できるのではなく、飽くまで“結果”なわけです。
短い言葉は、鵜呑みにしない
親への感謝だけじゃなくて、「すべてに感謝」「自己肯定感を高めましょう」「置かれた場所で咲きましょう」など、聞こえのいい言葉はたくさんあります。
すべて短文で分かりやすい。だから簡単に言うと、書籍のキャッチコピーやSNS上で、すぐに広まっちゃうんでしょう。だから短い言葉に傷ついたときやモヤッとしたときは、一度世間に出回っている単純化されたメッセージを疑うことが大切。
本当はその一言だけでは表せない大切なメッセージが隠れていても、悲しいことに、表面的なメッセージだけがひとり歩きしているのは、よくあることです。
自分に足があることだけは、忘れないで
振り返れば私も心のどこかで、親への不満やモヤモヤを感じていました。他の人から見ると普通の家庭ですが、すれ違いばかりだったし、大人になった今、怒りや不満が顔をのぞかせるときもあります。
親の不器用さを許容できる自分と、すべてに納得できない自分。その2人が頭のなかに同居しているのですが、まあ、なかなか和解してくれなくて。
それでも、まあいいやと思っています。
すべての不満が解消できればいいですが、人生そんな単純じゃないですから。ただひとつ確実に言えるのは、どんなときでも、主体は自分であるということです。
もしかしたら今も親の価値観に縛られている人がいるかもしれません。もし生まれが違ったらと、過去を見続けている人もいるかもしれません。一度自分を縛った何かを手放すのは、そう簡単ではないですよね。
ですが、恨みつらみに固執しつづけるのは、納得のいかない環境に自分を縛り付けておくようなもの。「もしあの時こうだったら」「あの人のせいで」と言っているときは、自分の人生を過去や他人に委ねているときだから。
納得がいかないものがあってもいい。不満を漏らしたっていい。でも最終的には、自分がどんなふうになりたいのか、どこに行きたいのかを明確化して、そのために行動を起こすのは自分なんだなぁと思うのです。
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