【アートからの学び】唇って、なんだろう
これは、中国出身のアーティスト、RASIKIさんが個展「Red Lips」を開催された際に出逢った言葉です。
この個展は、2023年の京都グラフィーの一環として開催されていたもの。同イベントで別の展示を訪れた際、会場に置かれていた「Red Lips」の宣伝用ポストカードの印象があまりに強烈で、仕事終わりに無理に時間をつくって足を運びました。
力強く、どこか痛みを感じさせて、だけど、だからこそ美しい。
そんな雰囲気を感じさせるポストカードは、当時摂食障害からやっと完全に自分の人生を取り戻し、地獄のような経験でさえ自分の魅力として受け入れられた地点にいた私にとって、どこか“共感”以上のものを感じさせる雰囲気をまとっていました。
そして、ギャラリーに足を踏み込んだとき、目に飛び込んできたのは「真っ赤な唇」たち。
真っ赤な唇をクローズアップした写真。
モノクロ写真の唇に赤い丸を被せた写真。
そこから滲み出てくる暴力性と息苦しさと、それさえ覆い隠すような力強さ。
RASIKIさんの作品にはじめて出逢ったとき、否定しきれない人間の底力を見せつけられたような気がしました。
とても小さなギャラリーにも関わらず、滞在していたのは1時間程だったでしょう。
あの衝撃から約1年半。アルバムをスクロールしていたとき、ふとRASIKIさんの作品の写真が目に留まって、思いました。
「唇ってなんだろう」
唇は間違いなく自分の身体の一部である一方で、どこか他者や社会の概念に動きを制圧されやすい部分のようにも感じます。
唇から出したかった言葉が、他者の言葉によって出せなかったこともある。
唇を開きたかったとき、噛みしめるしかなかったこともある。
唇に優しい笑みを浮かべたかったのに、歪んでしまったこともある。
振り返ると、言いたかったことより言えなかったことのほうが多かったように感じます。その中で、自分というアイデンティティーが溶けていくかのように、消えかけていた時期もありました。
ですが、もし誰かに塞がれてしまったとき、それでも自分の声を発するために唇を開くこともできます。言いたいことと反対のことを言ってしまったとき、その幼さを謝るのも唇です。求めているものを手にしたいとき、やっぱりほしいのだと叫ぶのも、また唇なのです。
そう思うと、唇は自己を取り戻すためにあるのかもしれません。
無意識のうちに「だってあの人が言うから」「普通はこうだから」と不満を漏らしながら自分を無理に納得させているとき、そこに“自己”はありません。
なぜなら、自分の人生のことを自分で決めていないから。だから苦しい。人はどこかで、自分の主導権を取り戻さなくちゃいけないときがあります。
私が「Red Lips」に惹かれたのは、きっと、その背景にある偏見や息苦しさを目撃してしまったから。そして、その窮屈ささえ打破するような“生命力”を、目の当たりにしたからなのでしょう。
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