多様性について執筆しながらも、すべてを受け入れる難しさを感じている
さまざまな媒体の執筆に関わらせていただくなかで、“多様性”をテーマにする機会が増えました。例えば、LGBTQ+、性別、人種、そして働き方などなど、多様性に関する議題は、数えきれないほどに溢れていますね。
私自身、その多様性への理解を促進していきたいと思うライターのひとりです。摂食障害を経験し、同じ病気に苦しむ方々の悩みを聞くなかで、社会に存在するスティグマが、個人におよぼす影響は、嫌ほど実感してきました。
ですが、「こういう人もいるんだから受け入れてほしい」「どんな人であっても愛してほしい」と社会全体に望むのは、私個人のエゴのようにも感じます。それゆえに、多様性を促進するという聞こえの良い言葉に、違和感を覚えている、今日この頃です。
多様性を受け入れられないのも、自然体
多様性に関する記事は、確かに重要です。社会からの誤解に苦しんでいる人がいる。偏見によって人生の選択肢が限られている人がいる。自分に違和感や嫌悪感を覚える人がいる。それによって、深い傷を心に負う可能性がある。だからこそ、ただの誤解でしかない偏見を和らげていき、当事者が不必要に傷つかない環境を整えてきたい。
ですが、すべてを受け入れられない人がいるのもの、知っておきたいと思うんです。人はそれぞれ、生まれ育ってきた環境が違いますし、培ってきた知識も常識も異なります。受け入れてくれないからといって、敵視まではしなくていい。その先には、嫌悪や暴力が生まれるならなおさらです。
幼い頃から宗教心が強い家庭で育ってきた人は、その教えと真逆のものを受け入れるまでに時間がかかります。もしくは、一生受け入れられないかも。ある特定のグループに対して何か嫌な思い出があるときも、その恐怖や嫌悪は簡単には消えず、類似グループに偏見の目を向けてしまうでしょう。
私は、過去にいじめを経験していました。いじめっ子と似た笑い方をする人とは、自然と距離を取ってしまいます。これはこれで、自分を守るために必要な防御反応。いつかこの色眼鏡は薄れていくと思いますが、ゆっくりでいい。誰かに急かされるものではないと思っています。
多様性は、自分の常識に焦点を当てることから
あらゆる差別の背景にあるのは、偏見です。言い換えると、無知です。無知とは、愚かだという意味ではなくて、成長途中にいるということ。
だから学ぶことは多いし、学ぶなかで、どうしても理解できないものに出逢うことはあります。拒否してしまうこともあります。それを簡単にこなせてしまうほど“出来の良い人”なんて、ほとんどいません。
だからまずは、世の中には自分の価値観と異なるものや、想像の範囲を超えるものがあるというのを知っておくこと。それほどに、自分の知っている世界は小さいのだと知ること。
多様性について語るとき、人はどうしても他者に焦点を当ててしまいますが、結局試されているのは自分ではないかと思うのです。
はじめてのものと出会ったとき、受け入れられないものと出会ったとき、もしくは受け入れてもらえなかったとき、どう行動していくのかを考える。それが多様性の中で生きることだと、思っています。
多様性について、綴れること
多様性に関する記事のなかには、メディアの描写やアパレルの商品デザインに変化を求めているものがあります。これはこれで、すごく重要なお仕事。
だけど、個人に対して語れることとしては、「自分が思っているより、人は多種多様で、そのどれもが自然体」ということぐらい。語弊を恐れずに言えば、罪を犯してきた人でさえ、深掘っていけば、そうするしかなかった理由があります。もちろん、行動そのものは好ましくないですが。
書くことは伝えていくこと。知らなかったことを伝える機会をいただくということ。だから記事を読んで、今日より明日、自分や他人に対して柔軟に接していこうとする人がいたら嬉しいです。だけど強要はしません。
ただ、自分と違うことや理解できないことが、他者を傷つけたり否定していい理由にはならない。それだけは、知っておいてほしいなぁと思うのです。
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