【再編|絶望三部作】第3話(最終話):Evermore(第2章:ガッタ・メイク・イット(ライフ))
第2章:ガッタ・メイク・イット(ライフ)
◆ 第3話(最終話):雨宿り
サトシとの別れは、決して、唐突なものではなかった。
東京と福岡の遠距離恋愛を始めて約1年半。
二人の終わりは時間をかけてゆっくりとやってきた。
死を待つ末期の患者のように、確実に、残酷に、その日は用意されていった。
その頃のサトシが俺の電話に出ることは稀だった。メールも3通のうち1通は、無視された。
誕生日ですら「仕事で忙しいから…」を口実に何でもない1日に変わったし、クリスマス・イブだって、3ヶ月前から予約を入れておいたレストランに、彼が現れることはなかった。
心にエネルギーが宿らない、不毛なやりとりばかりが続いていた。
それはいわば、恋の晩年だった。
それでも、俺はサトシのことを、愛していた。
だが、会うことさえ容易く叶わない相手にその思いをどう伝えたら良いのか、まるで見当もつかなかった。
江戸時代、恋人に会いたい一心で自宅に火を放った「八百屋のお七」のようにこの身を焦がし、愛情を最大限に表現することができたなら、どんなに素晴らしかっただろう。
彼女はいささか過激な思想の持ち主ではあったけれども、やはり ” 純愛 ” だったのだと、お七の愛を、俺は尊く思う。
*****
年が明けて、2月上旬。
珍しく、東京にも雪がちらついていた。
それは粉雪だった。小さくて、儚げで、プランクトンみたいだった。
国内屈指の豪雪地帯出身であるにもかかわらず、めっきり冬に弱い俺は、すぐにエアコンの温度を2度上げた。
それはちょうど、初めて連載の仕事が決まったばかりの頃だった。
日本を代表する劇団「鐘楼」の会報誌『エスメラルダ』のコラムを、その年の春から、毎月担当することになったのだ。
それは雑誌の1ページにも満たない小さな仕事ではあったが、この出会いがきっと俺の人生のスタートになる、不思議とそんな予感がした。
屋根に積もる雪とタイピングの音だけが響きわたる寂寥とした6畳のワンルームに、突然、切り裂くような電子音が鳴り響いた。
それは " サトシ " からの電話だった。
年甲斐もなく、胸が高鳴った。書きかけの原稿もそのままに、すかさず俺は携帯電話の応答ボタンを押下した。
「久しぶりだね、サトシ」
「久しぶり。ずっと連絡しないままで、ごめん…」
「元気だった?こっちは雪が降っていて、すごく寒いよ」
「うん…」
サトシの声に、力はなかった。
トーンもうつむいていて、幽霊のようだった。いつかのイブの夜更けに降っていた雨と同じくらい、冷たかった。
俺は、彼や彼のしたことを責めたくはなかった。
きちんと ” 生きている ” ことが確認できただけでも十分過ぎるほどの収穫だ、と、自分に言い聞かせていた。
「今、ちょっと話してもいいかな…?」
「うん。いいよ。話そう」
話してもいいかな、と言っておきながら、サトシは数分間、無言を貫いた。
けれども、彼のその態度が小心だとは思わない。実にサトシらしい、純粋で繊細な時間の使い方だと思った。
そして、ようやく話す決心がついたサトシは、二つのことを俺に告げた。
「福岡で好きな人ができてしまった」
と、いうことと、
「だから、別れて欲しい」
と、いうことを。
― やっぱり、そうだったか…。
案外俺は、物分かりの良い人間だったみたいだ。
こういったシーンではもっとドラマチックに「別れる」、「別れない」の応酬を繰り広げるものとばかり思い込んでいた俺は、すんなりと現実を受け入れてしまった自身のリアクションに、半分呆れた。
やっぱり俺は「お七」には、なれなかった。
サトシは、正直者だった。
自分が不利になるようなことも、非難轟々になるようなことも、一切、包み隠すことなく、素直にぜんぶ話した。
彼の浮気相手は「湯田イッセイ」といった。
歳はサトシと同じで、中州のとあるゲイバーで二人は知り合ったのだという。
営業企画部の九州エリア部門長として福岡支社へ栄転したサトシだったけれども、赴任直後より、彼の仕事は波乱続きだったようだ。
それは、直接本人からも聞いている。
十分な人脈も土地勘もない彼に待ち受けていたのは、結局、” 暗黒圏 ” ということだったのだろう。
そんなサトシの闇にすっと入り込めたのは、東京で暮らす俺ではなく、中州で出会った ” 彼 ” だった。
二人の出会いは、昨夏の終わり。
秋には互いに特別な感情を抱くようになり、健やかにその愛を育て、この冬、めでたく二人の思いは結実したらしい。
来春には ” 同棲 ” もスタートさせる、そんな幸福な色をひととおり聞かされた。
あぁ、これはもう太刀打ちできないやつだ、と、俺は悟った。
悲しすぎる現実だけれども、もはや我が身を引くしか術がない。
― 何がどうして、こんな結末になったというのだろう…。
いや、別にたいした理由などないのだろう。ただ純粋に、" 新たな恋 " が始まっただけのことなのだ。
サトシは「すべての非は自分にある」と、懺悔した。
痛々しく、つらそうな声の震えから、罪の意識で圧し潰されそうになっていた昨日までの地獄の日々を想像することは容易かった。
そして、どうやらサトシは自らの罪を、俺に ” 裁いて ” もらいたがっているようだった。
二人のラストシーンは、本当に切なかった。
映画や小説で何度もこんな場面を観たり読んだりしてきたはずなのに、いざ自分たちがその物語の中へ足を踏み入れてしまうと、世の中のすべてのものからは隔てられ、否も応もなく、こころがザクザクと切り裂かれるような局面に集中しなければならない。
さて、一体、どうしたら良いものか…。
電話の向こうで判決を待つ氷のようなサトシに、俺は「もう、終わりにしましょう」という言葉を贈った。
一瞬の沈黙の後、サトシは「うん…」とぽつり、つぶやいた。
二人はしばらく何も話さず、時が無慈悲に流れていくその野蛮な感覚を、最後の最後に厭というほど味わった。
「今まで、ありがとう」
サトシは、言った。
「こちらこそ。身体には気を付けて…」
「うん…。有季も…」
そんな会話を最後に交わし、二人は静かに電話を切った。
*****
― 本当に、終わってしまったんだ…。
携帯電話を握りしめながら、俺はため息をついた。
ついた途端、魂がすっと抜け、屍のようになってしまった。身体が半分切り取られてしまったみたいだった。
如月の太陽が切なくぼやけた感じで、一羽のつばめのシルエットが透明なキャンバスを切り裂いた。
コーヒーでも淹れようかと思ったけれども、その日は一杯のミネラルウォーターを飲んだだけで、静かに暮れた。
*****
彼と別れて、4年の歳月が流れた。
俺は複数の商業誌の執筆を担当するようになり、精神的にも経済的にも徐々に好転の兆しを見せ始めていた。
ありがたいことに『エスメラルダ』の連載が途切れることはなかったし、鐘楼の会員からファンレターが届くようにもなっていた。
ファンからのメッセージは、俺の生きがいになっている。
こころにぽっかり開いてしまった大きな穴も底が見えない深く濁った湖も、木漏れ日のような彼らの言葉たちのおかげで、もうすっかり埋めることが、できる。
今も " クロノス " でラプサン・スーチョンを飲みながら、3日後に締切が迫ったコラムをうんうんと唸りながら執筆している。
ふと、窓の外を眺めると、ウルトラマリンの夏空に鈍色の曇天が混じっていた。シロクマみたいな積乱雲も、段々、こちらに迫ってきている。
ほどなくして、集中豪雨がやってきた。
出窓の屋根を小石のような雨が野蛮に鳴らす。ビルとビルの間に、鋭く光る銀色の龍も見えた。
天気の急変にかこつけて、俺はもう一杯、あのお気に入りの紅茶をオーダーした。
あと少しだけ、あと、もう少しだけ、この愛しき " 喫茶店 " で、雨宿り。
*****
陽が落ちる頃には、さっきまでの通り雨は、すっかりどこかへ行ってしまった。
ドアベルを淋しげに響かせながらクロノスの扉を開けると、耳にすっと、笛の音が届いた。
そういえば、今日は ” 夏祭り ” の日だったっけ。
家路にて、下駄をカランコロンと鳴らした浴衣たちと何度もすれ違った。
太鼓の音のするほうをふり向くと、露店や提灯の明かりで、街はほんのり紅く燃えていた。
祭囃子に、本麻の紺色の夏衣が重なる。一瞬ふれたあの手の感触が、雷のように鮮烈によみがえる。
季節はめぐり、今年も8月がやってきた。
<絶望三部作『Evermore』第2章:ガッタ・メイク・イット(ライフ)完>
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