デブオタと追慕という名の歌姫 #23
第7話 衝撃と栄光と別離 ⑦
もうプライドも何もなかった。
地に堕ちたそれは、泥にまみれ、汚れきり、かつての面影すら残していない。
リアンゼルは、泣きじゃくりながら何度も何度も「違うの……そんなつもりじゃなかったの……」と訴えていた。
彼方からは割れんばかりの大歓声が聞こえてくる。耳を塞いでしまいたかった。
がらんとした薄暗いステージ奥で、彼女の訴えを聞く者は誰もいない。
ただ一人、自分を愛してくれたマネージャーだけを除いて。
「ええ、わかってるわ。あなたがそんな娘じゃないって、私が一番知っているもの」
縋りつくリアンゼルを抱きしめ、その金髪を撫でながら彼女は優しく答えた。
その言葉だけで、リアンゼルの心はどれほど救われただろう。
だが、やがて曲が終わり、彼女のライバルを褒め称えるたくさんの拍手が嵐のように響いて来た。
リアンゼルは、歌わずして自分の敗北を悟った。
かつてのいじめられっ子は、もう自分の手が届かないほどの高みに上ってしまった。
次は、自分が歌う番となる。
だが、どんな顔をしてステージに上がればいいというのか。
栄冠の為にライバルを売ろうとした厚顔無恥な歌姫……自分に浴びせられるであろう罵倒や嘲りを思い浮かべ、リアンゼルは身を震わせる。
彼女の怯えを察してヴィヴィアンは言った。
「棄権してもいいのよ、リアン」
その言葉に、リアンゼルはハッとなってマネージャーを見た。
聖母のように慈愛に満ちたその顔は、涙に濡れていたが優しく微笑んでいた。
あなたを守るためならどんな屈辱にも喜んで耐えられる、自分にだってあの日本人にも負けないほどの気持ちはあるのだと、その顔は告げていた。
大切な人の表情から言葉にしない思いを読み取る力をリアンゼルは持っていた。
そして、そんな気持ちに応える強さも。
「いいえ」
真っ青な顔でリアンゼルは健気に微笑んだ。
「歌いたいの。歌わせて」
他の誰も聞いてくれなくてもいい、この人の為に歌おう。リアンゼルはそう思った。
自らプロダクションに捨てられる道を選び、幾度となく傷つきながら、憎しみで歪んだ自分の傍に最後まで寄り添ってくれたこの人のために。
思いは力になり、リアンゼルは萎えて震える自分の足をそのコブシで思い切り殴りつけた。
痛みが更なる力を呼び覚ます。生まれて初めて立った小鹿のように、覚束ない力でリアンゼルはよろよろと立ち上がった。
「リアン……」
「ヴィヴィ。あなたのために歌いたいの」
涙でグシャグシャになった顔を近くにあった汗拭きで乱暴に拭う。震える手でギターを握った。こんな有様でどれほど歌えるというのだろう。
それでも……
袖幕の向こうでリアンゼルの名前を呼ぶ司会者の声がした。
歓声の大半が罵声とブーイングに変わる。それでも、いくらかの拍手と歓声もリアンゼルの耳に聞こえた。確かに聞こえた。
――こんな自分の歌を、それでも聴きたいと思ってくれる人がいる。
ただ純粋に嬉しかった。
こぼれた涙を手の甲で拭って袖幕からステージへと進み出ると、罵声の入り混じった歓声が彼女を出迎えた。
ステージ上に、伝説となったさっきの歌姫の姿はもうない。熱気が急速に冷めてゆく様子がその肌に感じられた。
物こそ投げつけられなかったが「卑怯者!」という痛罵が幾つも飛んでくる。中には厚顔無恥な歌姫の歌など聞きたくもないとばかりに憤然として席を立つ客もいた。
唇を噛み締めて、リアンゼルは耐えた。
袖幕から思わず駆け寄ろうとするヴィヴィアンを目顔で止める。
自分はこの仕打ちに値することをしたのだと、投げかけられる言葉の礫に彼女は黙って耐え続けた。
罵声はなかなか止まない。
一方で、観客席からはわずかながら彼女を擁護する声もしていた。
あのディアンナ・フォバートが観客に向かって「お願い、彼女の歌も聴いてあげて!」と泣きながら呼びかけている。観客席の最前列からは、オーディションから途中で脱落したあの三人の少女たちが懸命にリアンゼルへ何やら叫んでいた。きっと「頑張って!」と声援を送ってくれているのだろう。
そうだ、自分の気持ちだけで止めることはもう出来ない。あの未来の歌姫達のためにも自分は歌わなければいけないのだ。
半ば虚ろだったリアンゼルの瞳に次第に強い光が甦る。
自分の背後で一緒に痛みに耐えているマネージャー、泣きながら懸命に自分を庇ってくれる少女、懸命に励ます歌姫たちに、リアンゼルは心の中で微笑みかけた。
――ありがとう。大丈夫よ、私はあなた達が思っているよりもずっと強いのよ
ぼろぼろに崩れていた彼女の心は、彼等の気持ちで温かく満たされてゆく。
そして、それは彼女の心の片隅にずっとこびりつき残っていた醜い憎悪を遂に消し去ってしまった。
(彼女は自ら答えを見つけ出すだろう。あの瞳は闇に染まりきってなどいない。夜明けが来るように、やがて心に光が差して闇は消え去る)
彼女のラストソングを担当した作曲家ピクシー・スコットが予言した通りに。
無言でステージに立ち、耐え続けるリアンゼルの姿に、非難の声や罵声は少しづつ静まってゆく。
やがて、かすかなざわめきだけを残すだけになった時、リアンゼルは黙って一礼すると愛用のギターを取り上げた。
これから歌おうとする曲の歌詞を思い浮かべ、彼女はふと思った。
この曲って、私のことみたい。
罵倒でいっぱいの歌詞にデブオタからの悪罵が思い浮かぶ。
だけど、心にもう彼への憎しみは沸いてこない……
リアンゼルは歌い始めた。
「You say as favorite phrase. I am restless. I am restless and cause a trouble」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私って落ち着きがなくて始末に終えない女だって)
「You say as favorite phrase. I am the whimsical woman who is a showy person by trouble」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私は面倒で見栄っぱりな気まぐれ女だって)
「Because the people of the town look at me and laugh, you do not walk together.You say as favorite phrase. You say as favorite phrase. 」
(町の人々が私を笑いものにするから一緒に出歩けないなんてあなたはボヤくけど。言ってくれるじゃないの)
リアオリィ・パスナガーラの「アウト・オブ・コントロール」
歌姫は心を込めて歌う。
罵声は止んだが歓声もない。観客はシンとなって聴き入った。
「But he says. Because I am incredibly beautiful, all seem to pay attention to me」
(でもね、あの人は言うの。みんなは私が信じられないくらい綺麗だから私に注目しているんだって)
「He says. I am interesting and am attractive and seem to be an ideal woman」
(あの人は言うの。私はそれほど魅力的で理想で最高の女性なんだって)
声を張り上げたリアンゼルは、手にしたギターを荒々しく掻き鳴らして歌う。
「I do not know it which is true. But I seem to believe his words. It is not your word」
(どっちが真実なの? 私には分からない。だけどあなたではなく彼の言葉を信じてしまいそう)
ひたすら歌い続けるリアンゼルに、手拍子を打つ人が現われ始めた。
「You say as favorite phrase. Even as for the guy who I talk, and is worthless」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私って話していてつまらない奴だって)
「You say as favorite phrase. I am the woman whom it is hard to talk to. And partner hard to please」
(あなたは口癖にみたいに言うわ。私ってとっつきにくい奴なんだって、素敵な恋人には程遠い奴なんだって)
人々は、次第に気が付きはじめた。
一心不乱に歌う汚辱の歌姫。彼女が歌に込めて伝えようとしているものが、後悔と償いだと。
凛として歌う彼女は泣いてなどいなかったが、強がりな歌詞の裏側で彼女は涙を流し、聴く人々へ乞うていた。
――許して
共鳴した人々から少しづつ手拍子が増えてゆく。歓声が上がり始めた。
「But he says. I am incredibly beautiful and seem to always think only of me」
(でもね、あの人は言うの。私は信じられないくらい魅力的で、いつも私のことばかり考えてしまうって)
「He says.I am a good person to talk to. Even if it is fun and talks with me for a long time, I do not get tired」
(あの人は言うの。付き合っていると楽しくて、つい時間を忘れてしまうって)
「I do not know it which is true.But I seem to believe the words of him. I am glad when said to be a wonderful woman to him than it is told you to be an unmanageable woman」
(どっちが真実なの? 私には分からない。だけどあの人の言葉を信じてしまいそう。手に負えない女だなんて言われるより素敵な女だって言われると嬉しいんだもの)
歓声と拍手はどんどん増えてゆく。
涙が出そうだったが、リアンゼルはそれを堪えながら歌った。時折声が震えてしまったが、構わず歌った。
歌っているのは大好きな人に振り向いて欲しいと呼びかけている恋の歌なのだ。強がって声を震わせているように聴こえてくれる。
それは、遥かな高みから人を見下して感動させようとした一年前の歌い方ではなかった。
地に堕ちてさらけ出された己の醜さ。だけど、それを許してくれる人がいて。応援してくれる人がいて。そんな、許される喜びを感じて歌えること。
それが、これほど嬉しいことなのだと彼女は初めて知ったのだった。
感動に心を打ち震わせながら歌姫は歌う。
更に力強く、声を高めて。
「Understand me definitely. It does not want to be avoided by you. oh-no-!」
(私の気持ち、ちゃんと捉まえていてよ。嫌いたくないのに、ああもう!)
「Hey, why do you not look at me with eyes like him? Because I may change my mind」
(ねえ、どうして彼みたいな目であたしを見てくれないの。私、心変わりしちゃうかも知れないんだから!)
天はその過ちを咎め、陽光は雲に隠れたまま、リアンゼルに光は差し込まなかった。
だが、ステージのスポットライトが彼女を励ますように力強く照らしてくれた。
ギターの音と共に彼女は笑顔で観客へ親しく呼びかけるように歌う。
「I seem to come to can not believe you. What would you do if you do so it? Silly billy!」
(私があなたを信じられなくなったら一体どうするつもり? このおバカさん!)
お前がそれを言うか、と観客席から思わず笑いが起きる。リアンゼルは顔を輝かせ、思い切り悪どそうなウィンクをして見せた。
どっと歓声が沸き、更に歌が熱を帯びる。
歌う者と聴く者の心の中に一体感が生まれ、高揚感に身を任せたリアンゼルの歌声は更に深く美しくなってゆく。
「He says. I am the best ideal woman throughout his life」
(あの人は言うの。私こそ生涯で最高の女性だって、ただ一人の女性だって)
「I do not know it waht is true.But I seem to believe the words of him. It is a request. Because once is enough, please say me that it is a wonderful woman」
(何が真実なの? 私はどうしたらいいの? でも、あの人の言葉を信じてしまいそう。お願い、一度でいいから言ってほしいの。私のことを素敵な女性だって)
彼女の渾身の歌唱はエメルの時にも劣らぬ大歓声を遂に巻き起こし、会場を再びどよもした。
「But he says...But he says...」
やがて、蘇った拍手の嵐と大歓声が、この歌姫をもうひとつの伝説にしたのだった……
** ** ** ** ** **
自分がいつどうやって歌い終えたのか、リアンゼルは覚えていなかった。文字通り、全身全霊を込めてラストステージに臨んだのだ。
気がつくと、薄暗いステージ裏で、顔中を涙で濡らしたマネージャーに抱きしめられ、何度もキスされていた。
「リアン、リアン……愛してるわ、私の歌姫……」
「ヴィヴィ、私もよ」
答えたリアンゼルは、自分が恐ろしく疲れているのに気がついた。
「歌、終わったのね。座っていい? すごく疲れたの」
「おお、もちろんよ。気がつかなくてゴメンなさい」
ヴィヴィアンは慌てて近くの安楽椅子を引き寄せ、リアンゼルを座らせた。
渡された小さな栄養ドリンクを飲み干したリアンゼルは、されるがまま小さな酸素吸入器を顔に宛がわれた。
綿のように疲れていた身体に、じんわりと元気が戻ってくる感触が心地よかった。
「私、ちゃんと歌えてた? 無我夢中で覚えてないの」
「ちゃんとどころじゃなかったわ。凄かった。ほら、私の腕を見て。まだ鳥肌が立ってる」
「まあ、本当だわ」
笑ったリアンゼルは、そこでやっと人心地ついたように周囲を見回した。
「オーディション、終わったのね」
「ええ」
しばらく黙ったが、リアンゼルが何も聞こうとしないのでヴィヴィアンは静かに告げた。
「おめでとう、リアン。あなたはブリテッシュ・アルティメット・シンガーの栄えある最高の歌姫として選ばれたわ」
「……」
リアンゼルはその言葉を黙って受け止めた。
爆発するような歓喜も、勝利感も、感動もなかった。
一年前、あんなに必死に求めていた栄冠をとうとう手にしたのに。
「あなた、優勝したのよ」
「そう……」
つぶやくようにぽつんと答えるとリアンゼルは俯いた。
「私、エメルが優勝すると思った」
ヴィヴィアンは頭を振った。
「残念ながら失格ですって。彼のことで登録内容に虚偽があったからって……」
「エメルはどうしてるの?」
「ここにはもういないわ。歌い終わってそのまま会場を飛び出して行ったそうよ」
どこへ、と訊くまでもなかった。
あの歌姫は己が生命にも代え難いほど大切なものを見出したのだ。それに比べたら、自分が手にしたこの栄冠すら彼女には価値などないに等しいのだろう。
心からエメルが羨ましかった。
リアンゼルは唇を噛んだ。
さっきから自分の感じるこの奇妙な敗北感は、きっと彼女にあって自分にないものの差なのだろう。
「私の負けだわ……」
かつての傲慢だったリアンゼルなら口にするくらいなら死んだほうがマシと思っただろう言葉。
だが、それは偽りのない本心だった。
リアンゼルの卑怯な振る舞いにも折れることなく、エメルは自分を育てたデブオタがどれほど立派な男だったのか、果敢にも自らの歌によって見事に証明したのだ。
リアンゼルは自らを恥じた。
それでも、傲慢だった頃よりも恥じ入れる今の自分がまだ誇らしかった。
そして……
その言葉を聞いたヴィヴィアンは、立ち上がると手を叩き始めた。
リアンゼルはキョトンとした顔で、真剣な顔で拍手するヴィヴィアンを見つめる。
「ヴィヴィ、どうしたの?」
「おめでとう、リアン。あなたは本当の歌姫になったのね。気高い心を持った、立派な歌姫に」
リアンゼルを見つめるヴィヴィアンの瞳には、それまでの慈しむ色だけではなく敬う光が宿っていた。
「あなたを蔑む観客がまだどれほどいようとリアンゼル・コールフィールド、私だけはあなたの勝利を知っている。あなたはエメルに負けて、それを認めたことでとうとう自分に勝ったのよ」
「自分に……勝った?」
「プロの世界でさえ立派な他の歌や歌手を認めずに自分を磨くことが出来ない歌姫がいる。でも、そんな人にどうして聴く人の心に響く歌が歌えて? いずれ、聴いて貰えなくなって堕ちてゆく。でもあなたはとうとうそれを自分で掴んでくれた。知ってくれた……」
そこまで言うと、嗚咽を漏らしたヴィヴィアンはそのまま泣き崩れてゆく。安楽椅子から飛び起きたリアンゼルは慌てて彼女を支えた。
「ごめんなさい。マネージャーなのに私、取り乱してばかりで」
「何を言うの。ヴィヴィ、そんなにまで私を……。ありがとう、これからも私のマネージャーでいてね。いつまでもずっとよ……」
「ええ、もちろんよ」
優勝ももちろん嬉しかった。
だが、この歌姫の中に芽生えたものこそが、彼女のマネージャーが本当に望んだものだった。
それが心の中にある限り、彼女は光を目指して歌うことが出来るだろう。ヴィヴィアンは、今までの辛苦が何もかも報いられたような気持ちだった。
涙を拭いた彼女は、晴れがましい気持ちでリアンゼルへ手を差し出した。
「さあリアン、行きましょう。これから授賞式よ。たくさんの人があなたを待ってる」
「……こんな私を歌わせてくれるレコード会社、あるかしら」
「ええ、少なくとも一社は知ってるわ。あなたを狙うパパラッチも追い散らしてくれそうな頼もしい人が社長をしてるところよ」
「ヴィヴィをマネージャーにしてくれるなら、私どこだっていいわ」
「ありがとう」
「……エメルは私を許してくれるかしら」
「やさしい娘だもの、きっと理解してくれるわ」
「ヴィヴィ、泣き過ぎで酷い顔になってるわよ。きっと私もそうね。こんな顔でアルティメットだなんて恥ずかしいわ」
「恥ずかしいなんてあるものですか。リアン、胸を張りなさい」
熱い涙をわかちあった二人は、微笑みあい、支えあうようにして袖幕からステージへと歩き出した。
幕の向こうから、スポットライトの光が二人を招くように差し込んでくる。
立ち止まったヴィヴィアンに差し招かれてステージに踏み出したリアンゼルは、その眩しさに思わず立ち竦んで目の前に手をかざした。
同時に観客席からたくさんの拍手が彼女を温かく迎えてくれた。
「ありがとう、みなさん。こんな私を……ありがとう……」
凛として姿勢を正したリアンゼル・コールフィールドは、感謝の言葉と共にゆっくりと歩み出した。
夢にまで見た、スターの世界へ……
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