デブオタと追慕という名の歌姫 #25
第8話 追慕という名の歌姫 ②
「本当の名前、教えてくれなかった?」
「……」
「住所とか知らなかった? どこのホテルに泊まってたとか」
「……」
「じゃあ彼からメールとか来なかった? メールアドレスは分からない?」
「……」
尋ねられる質問のどれにもエメルは力なく首を振り、リアンゼルはため息をついた。
「……何の手がかりもなしか」
「デイブは、自分のことを聞かれるのが好きじゃなさそうだったから」
蚊の鳴くような声で答えたエメルは「彼のこと、もっと聞いておけばよかった」と悔やんだ。
涙でもう目が潤み始めている。
「泣くんじゃないの。メソメソして見つかる訳じゃないでしょ」
リアンゼルは、本来なら自分が偉そうなことなど言える立場ではないと分かっていた。
だが、ともすれば涙が先走りそうになるエメルを励ます為に、道化た狂言回し役を自ら買って出るつもりでいた。
わざわざ持ち込んだタブロイド紙を「ほら見てよ」と、広げて見せる。
「“怒りに燃えた歌姫の形相に冷酷な日本人プロデューサーは顔面蒼白。伝説の劇唱はここから始まった!”……これ書いた人、今のエメルを見たらさぞかしがっかりするでしょうね」
「リアン、勝手なこと言わないの」
ヴィヴィアンに叱られて舌を出したリアンゼルは、照れくさそうにエメルに笑ってみせた。エメルもぎこちなく笑う。
悲しみは拭えないが、それでも嬉しくなった。
多少は演技も入っているのだろうが、一年前いじめてばかりいた彼女が今は別人のように自分を思いやり、少しでも気持ちを引き立たせようとしてくれている。
「だって、エメルがベソをかいてたら話が進まないじゃない……」
両手の人差し指をつつき合ってリアンゼルが口をへの字に曲げると、エドワード・ホロックスは苦笑した。
親に叱られて言い訳する子供みたいな真似をしているが、この少女は現在イギリスでアルティメットの名を冠する歌姫なのだ。
「焦ってもいい知恵は出ないさ。彼女の話は一通り聞いたし、とりあえずお茶にしよう」
そう言うとマホガニーのテーブルの上を顎で示した。先ほど運び込まれた人数分の紅茶が、トレイの上で上品な香りを放っている。
ここはロンドン郊外にあるリバティーヴェル・レコードの支社ビルの一室。
エメルが契約したニュースを聞きつけたマスコミが先日から本社の玄関に群がって大騒ぎしているので、彼等は急遽場所を変え、こちらに集まって話し合っているのだった。
「私の方も会社を出るだけで大変だったわ」
紅茶を一口飲んだリアンゼルが、うんざりしたように言った。
「ディファイアント・プロダクションの表玄関に、写真を撮ろうって待ち構えてるパパラッチが何人もいたのよ。カッとなったメイナード社長が警備員を押しのけて怒鳴りつけて、そのまま揉み合いになっちゃった。その間にヴィヴィアンと何とかタクシーに乗り込んだけど……」
「リアン、すっかり有名人になったのね」
エメルが目を丸くしていると、ホロックスが「いや、人ごとみたいな顔をしてるんじゃない。君も自分を心配しろ」と、たしなめた。
「来社するときはタクシーを使いなさい。今日みたいに本社へヨレヨレのジャージ姿でノコノコ徒歩でやって来るなんて無警戒過ぎる。裏口でウロウロしてるところを警備員に見つけられなかったらパパラッチに拉致されたかも知れないんだぞ」
「だって、表玄関は有名な歌手が来るとかで大騒ぎになってたから邪魔しちゃいけないと思って……」
「君がその『有名な歌手』なんだよ、エメル」
どうやらこの少女は自分が今イギリスで途轍もない人気を誇る歌姫だということがさっぱり分かっていないらしい、と理解したホロックスは、ヤレヤレと言わんばかりに首を振ると「会社からハイヤーを差し回すから明日からそれに乗りなさい。いいね」と締めくくった。
「は、はい」
「ま、お小言はこれくらいにしよう。アジア系の君にと思ってイーストインディアカンパニーの紅茶を用意してもらったんだ。どうかな」
歴史的にも有名な東インド会社の紅茶ブランドのことなどエメルは皆目わからなかったが、ティーカップのお茶を啜ると「初めて飲んだけど美味しいです」と微笑んだ。
「気に入ってもらえてよかった。じゃあ、お茶を飲みながらざっくばらんに話そう」
くだけた様子で手を振るとホロックスは「それで、彼のことだが」と始めた。
「これは確信に近い推測だが、彼はもうイギリスにはいない」
笑顔が消え、エメルは下を向いた。膝の上に置かれた手がキュッと握りしめられる。
ヴィヴィアンがつと立ち上がって、俯いたエメルを慰めるように肩に手を置いた。
「おそらく国外退去で日本へ帰国している。当初の滞在期間を大きく逸脱して不法在留になっていたはずだ。所持金も尽きていただろう」
自分のためにそこまで……
エメルの脳裏に、無一文の身で飛行機の窓から去りゆくイギリスの地を見つめるデブオタの孤影が思い浮かび、胸が痛んだ。
「さっきの君の話を聞くにつけ、凄い日本人だね。尊敬に値するよ。何も持たぬ身で歌姫を一人、見事に育て上げたんだから」
ため息をつくと、ホロックスは「さて」と、続けた。
「エメルの話を聞いてハッキリ分かったことが幾つかある。彼の正体が日本から来た旅行者だったということ、サブカルチャーの愛好者でダンスも踊れるほどアイドル歌手のコアなファンだったということだ。もっともこういった日本人はアキハバラのどこにでもいるそうだが」
「彼の容姿は映像に残っているから、それを手掛かりに私立探偵に依頼する方法はどうかしら」
思いついたリアンゼルが口を出したが、ホロックスは首を振った。
「妥当な手段と云いたいが、それにはリスクがある。昨今の探偵業はパパラッチやマスコミに繋がっているケースが多いんだ。外部に頼むと情報が洩れる可能性がある。しかも伝説になった歌姫の想い人ともなれば、漏れたが最後、ハイエナみたいな奴等が群がって来るだろう」
「……かえって危険ね」
「ああ。難しいが、我々が探偵の真似事をして彼を探すしかない」
「ピカデリーにある日本大使館に彼のことを聞けないかしら」
今度はヴィヴィアンが手を上げたが、ホロックスはこれにも「それも残念だが」と首を振った。
「渡航者のプライバシーだ。教えてはくれまい」
「リバティーヴェル・レコードから尋ねても駄目かしら?」
「会社の肩書を出しても答えは同じさ。日本の役所は融通が利かないことで有名だからね。政治的な圧力をかける方法もあるが、後々ややこしいことになりかねない」
「困ったわね。いっそ彼を探してますってエメルに日本で歌ってもらおうかしら」
「ミズ・ラーズリー、そう短絡的に考えるものじゃないよ。エメルが日本でも既に有名ならあり得なくもないが」
ホロックスにたしなめられてヴィヴィアンは肩をすくめたが、ティーカップを唇につけた彼女はふと、テーブルの上に目をやって「ん?」と、動作を止めた。
そこには、さっきリアンゼルが持ち込んだタブロイド紙が置かれている。
「……」
「ミズ・ラーズリー?」
彼女は厳しい顔で何やら考え始めた。
何か思いついたらしいと察したホロックスが目配せし、エメルとリアンゼルは頷いて口を閉ざすと静かに待った。
ややあって、ヴィヴィアンは冷めた紅茶を静かに飲み干し、エメル達を見回した。
「大きな手がかりを見落としていたわ」
「手がかり?」
「ええ。私たち、とても名探偵にはなれませんわね」
そう言って、ふふっと笑ったヴィヴィアンは一転、真剣な眼差しをホロックスへ向けた。
「うまくいけば彼の探索とエメルのデビュー、それにリバティーヴェルのビジネスチャンスまで絡んだ話にまで繋げられるかも知れません」
「……」
ホロックスはその言葉を受けて温和な表情を厳しいものへと改めた。ビジネスの正念場には、彼はいつもこのような引き締まった顔つきで挑むのだろう。
「ミズ・ラーズリー、聞かせてくれ。謹んで拝聴しよう」
「ヤスキ・ハルモト」
まるで殺人犯の名前でも告げるようにヴィヴィアンは答えた。
「彼が成り澄ましていた日本人のプロデューサーよ」
ホロックスはその言葉を聞いただけで合点がいったらしく「そうか!」と手を打ったが、どういうことか理解出来ないエメルとリアンゼルはキョトンとして互いに顔を見合わせた。
「いきなり名前だけ出されてもピンと来る訳ないだろうね。説明しよう」
ホロックスは、まるで謎解きを解説する探偵のような顔でエメル達に話し始めた。
「彼はハルモトが監修したアイドル育成ゲームのアカウントを持っていた。そして、おそろしく経験を積んだプレイヤーだった。ゲームの機能を駆使してエメルに歌やダンスを教え込むくらいのね。やり込んでいたのだから思い入れも相当あったはずだ」
「違うかな?」と聞かれたエメルは首を振った。
「間違いないわ。デイブはキャラクターの“聖地巡礼”でロンドンまで来たって言ってたもの」
「やはりそうか」
エメルの証言を受け、ホロックスの説明は続く。
「エメルそっくりのキャラクターをCGソフトで作り、ゲームのエディットモードを使ってプロモーションビデオまで仕立てた程だ。ここに、帰国した彼との接点を見出す大きな可能性がある」
「接点?」
思わず身を乗り出したエメルへニヤリと笑ったホロックスは指を立てた。
「ワトソン君。帰国した日本で、彼がそのゲームをまたプレイするとは思わないかね?」
「あ……」
エメルとリアンゼルは、思わず異口同音に声を上げた。
「じゃあゲーム会社に頼んでアカウントのプロフィールを調べてもらえれば!」
「いや、本名でもなければゲームアカウントから彼を割り出すのは難しいだろう」
「じゃあ……じゃあ、私がゲームからデイブに呼びかけて……!」
「落ち着け、エメル」
矢も盾もたまらない様子で言い立てるエメルを手で制して、ホロックスは諭した。
「そのゲームを監修したのがどんな男だったか、我々は知っているはずだ。ハルモトはデイブを理由に君の失格を取り消さなかった。名前を偽っただけで詐欺を犯した訳でもないのに」
「……」
「会場の人々から軽蔑されてもなお、彼は自分のヒエラルキーを脅かす僅かな瑕疵を許さなかった」
うなだれたデブオタを容赦なく糾弾した男の傲岸な顔が思い浮かぶ。
ギリッと歯を鳴らすと、リアンゼルが「エメル、気持ちは分かるけど落ち着いて」と、なだめた。
「リアンゼルの言うとおりだ。考えなしに関わると彼に足元をすくわれる」
「……」
「エメル、焦っちゃ駄目よ。彼を繋ぐ一本の線が切れてしまうわ」
見かねて口をはさんだホロックスとヴィヴィアンに頷きこそしたが、エメルは逸る気持ちを抑えれられないように爪を噛んだ。
頭では分かっても、デブオタを一刻も早く見つけたい、会いたいと云う一心で居ても立っても居られないのだ。
数多くの歌手を手掛けた海千山千のホロックスは、そんな歌姫の昂りが手に取るように分かるのだろう。ゆっくり立ち上がってテーブルを回ると、エメルの肩を叩いて「大丈夫だ。我々に任せてくれ」と請け合った。
「私やミズ・ラーズリーは、こういった交渉のプロフェッショナルでもあるんだよ。それに」
恋慕に目の前が見えなくなりかかっているこの歌姫をどう諭そうか、とホロックスは一瞬険しい顔をしたが、すぐに思い至った。
身をかがめてエメルと同じ視線になると、静かに尋ねかける。
「エメル。彼は君と別れる時、最後に何と言ったか憶えているかい?」
エメルはハッとなった。
その一言は、苛立ったような様子のエメルにまるで魔法のような効果をもたらした。
怒らせた肩がみるみる下がる。焦慮に駆られていた表情は、落ち着いた、しかし悲しみの入り混じった表情へと移り変わった。
ホロックスは微笑んでエメルを見つめ、待っている。リアンゼルとヴィヴィアンも寄り添いあってエメルが答えるのを待った。
やがて、エメルは静かに口を開いた。
「――オレみたいな惨めな奴を歌で抱きしめる優しい歌姫になってくれ――」
言葉にしただけで、エメルの眼から涙がこぼれた。
忘れるはずがない。
何ひとつ報われることのなかった男が自分に託した願い。何の報酬も受け取らなかった彼がたったひとつだけ望んだもの。
託されたものの重さが、エメルを正気に返らせたのだった。
「アルティメット・エメル。君は彼との約束を守らなければならない。そうだろ?」
エメルはうなずいた。
この胸に抱いた彼の願いは絶対に汚せない。汚したくない。
彼女にとって、それは誓約なのだ。
「なら、彼が願ったような歌姫にならなければ。君の進むべき道だ。その道を歩いて彼を探しに行こう」
リアンゼルがハンカチを取り出し、しゃくりあげ始めたエメルの涙をそっと拭いてくれた。
ホロックスは、エメルの頭を撫でて慰めるとテーブル上の電話から受話器を取り上げた。
「マーケティングのセクションに繋げてくれ。……ホロックスだ。最優先の仕事を伝える。日本の音楽プロデューサー、ヤスキ・ハルモトについて出来るだけ調査してくれ。特に彼の評判について調べろ。収益は高いだろうが、おそらく悪評も相当あるはずだ。それともう一つ、彼が監修したゲームソフトについて調べてくれ。タイトルは『ドリームアイドル・ライブステージ』。手の空いた若いスタッフには出来るだけプレイさせておけ。キャラクターの声優は歌手としても活動している。メンバーと特徴、イベント、コンサート、評判、人気、ファン層……内容は徹底的に調べ上げろ。エメルはいずれここに関わることになる」
受話器を置いてふと見ると、エメルやリアンゼルが目を丸くしてこちらを見ているのに気がついた。ホロックスが如何に敏腕の音楽ビジネスマンなのか、その片鱗を目の当たりにしたのだ。
「驚いたかな。君達のステージの裏方にはこんな仕事もあるんだよ」と、ホロックスは不器用にウィンクするとヴィヴィアンに手を差し出した。
「ミズ・ラーズリー。知り合って早々、借りが出来ましたな」
ヴィヴィアンはその手を取り「どういたしまして」と、にこやかに応えた。
「今後はお互いの歌姫でコラボレーションなど企画したいですね」
「大歓迎です。楽しい仕事が出来そうだ。雷鳴のメイナードによろしくお伝え下さい。いずれ挨拶に伺いましょう」
「ありがとうございます。こちらこそよろしく」
「後ほどまた連絡しますので、もう一度ここまでご足労願えますか。恐縮だがアルティメットの歌姫、お二方も。あの男と交渉するところに立ち会っていただきたい」
エメルをチラリと見やると「交渉と云うより、制裁に近いかな」と肩をすくめた。
「こちらは手札の中に切り札まで用意出来るが、ハルモトはこのゲームに手札すらない状態で臨まなければならない。だが手札を捨てる真似をしたのは彼自身だ。同情に値しないね」
「楽しみに拝見いたしますわ。誠実と努力をヒエラルキーで押し潰すやり方を見たイギリス人がただでは済まさないことを彼に思い知らせて下さいね」
「エリザベス女王陛下の御名にかけて」
傲慢なあの日本人の鼻柱をへし折る様を想像し、冷ややかに笑ったヴィヴィアンへホロックスも含み笑いで請け合った。
「任せてくれ」と言われたのでエメルは何も口がはさめなかった。彼がこれから何をしようとしているのかも彼女にはよく理解出来なかった。
ただ、デブオタを容赦なく糾弾したハルモトヤスキを彼等が不快に思っていること、何か制裁を加えようとしているらしいことは、おぼろげに分かった。
三日後。
リバティーヴェル・レコード支社ビルに呼ばれたエメルは、リアンゼルやヴィヴィアンと共に社員に案内され、会議室へと通された。
そこは、かなり広い部屋だった。壁には畳大の巨大なモニターが掛かっており、テーブルには電話が据え付けてある。通常は、取引先や本社と打ち合せや会議で使う部屋なのだろう。
ホロックスは、部下らしい社員達とちょうど打ち合わせを終えたところだった。
「やあ、よく来たね」
手を広げて歓迎のゼスチャーをすると、彼は「すぐに準備が出来るからそこで待ってていただけるかな?」とテーブルの一角を指し示し、部下へ退室するよう合図した。
社員達はぞろぞろと部屋を出ていったが、何人かが驚愕した視線をエメル達に向けずにいられなかった。
感に堪えない表情で一人が思わず同僚にささやきかけた。
「見たか? アルティメットの歌姫達だぜ……あのオーディションのラストステージで伝説になったエメル・カバシとリアンゼル・コールフィールドだ!」
エメルは困ったように微笑んだがリアンゼルは科を作ってウィンクを投げ、ヴィヴィアンから「大人をからかうんじゃないの」と、また叱られていた。
会議室の中がエメル達だけになると、ホロックスは自分の席の前に置いたPCから何やら操作を始め、壁のモニターにテレビ電話のコンソール画面が映った。
「待たせて申し訳ない。これから春本ヤスキの事務所と交渉を開始する」
手慣れた様子で操作しながらホロックスはエメル達に説明した。
「エメル、君は私のずっと後ろにあるそこの席に座っていてくれ。何も喋らずに座っていてくれるだけでいい。君の存在だけで彼にプレッシャーを与えることが出来る」
凄みのある笑いを見せてホロックスが電話番号の操作を始めようとした時、リアンゼルが「待って」と立ち上がった。
「彼と最初に電話で話す役目は私にさせてくれない?」
「アポイントと交渉は僕の役目だぞ」
「ごめんなさい。でも、私はデイブを売るという卑怯な真似をした負い目がある。償う為にも私がまず最初にハルモトと話をしなきゃいけないと思ったの」
ホロックスはしばらく考え込んだが、両手を挙げて気障に降参のポーズを取った。
「オーケー。そのプライドと友情に免じて、アポイントの役目は君に譲ろう」
「ありがとう」
礼を言われてうなずいたホロックスは、しばらくしてTV電話のカメラを向け、合図した。着信音に続いてモニターに秘書らしい女性が映る。
リアンゼルは緊張した面持ちで話し始めた。
「Hello. My name is Reanzul Caulfield. I telephoned your office at the end of last year. I do TV-phone call there now from the meeting room of the Liberty-bell record of London. Can Yasuki-Harumoto talk with me now? (こんにちは。私は昨年末に電話を掛けたリアンゼル・コールフィールドといいます。今、ロンドンにあるリバティーヴェルレコードの会議室からTV電話を掛けていますが、ハルモト・ヤスキさんと話をすることは出来ますか?)」
「There was communication yesterday when I called by the contents of business negotiations from Liberty-bell record in today's this time. Is this call so?(この時間にリバティーヴェルレコードからビジネス交渉の電話が入ると伺っています。このお電話がそうですか?)」
「Yes, that's right.(はい、そうです)」
「Please wait a moment.(しばらくお待ち下さい)」
しばらくしてモニターの画面に、太い黒ブチ眼鏡をした春本ヤスキが現われた。
イギリスからの電話ということで先日のオーディションの顛末を思い出したのだろう。みるからに不機嫌な面持ちをしている。
「ミズ・コールフィールド、昨年はわざわざお電話を下さってありがとう。因縁のライバルが失格で、ブリティッシュ・アルティメット・オーディションでは優勝されましたね。おめでとうございます」
皮肉を浴びてリアンゼルは一瞬青ざめたが、向こう側で心配そうに見ているエメルに気がつくと、ふっと微笑んだ。
確かにあのとき恥ずべき真似こそしたが、それを心から謝罪したことを思い出したのだ。
あの日、許されることの喜びを知って歌えたから人々の共感を得られた。
自分の非を悔やみ謝罪したからこそ、オーディション会場にいた人々に認められた。
優勝した自分ではない、エメルこそが本当の勝者であり真の歌姫だ……と宣言した自分にも「アルティメット・リアンゼル!」と観客達から万雷の拍手で称えられた瞬間の感動、そのとき流した涙は今では何よりも優る誇りだった。
それに比べ、画面の向こうで傲然としている男。その心の何とみすぼらしいことか。人々に嫌悪される自身を少しも恥じ入ることなく、顧みようとすらしていない。
そう思うと、彼の皮肉にかえって哀れみすら覚えた。
「ありがとうございます。私もあなたが審査員の重責を全うされる様子を拝見しました」
「そうですか」
「歌手にとって本当に大切なことは何か、あの日知ることが出来ました。優勝よりももっと大切なことを。でも、それは貴方のおかげじゃない。それだけはお伝えしておきます」
春本ヤスキは一瞬眉根を寄せたが「それはどうも」とそっけなく流すと「それで御用件は?」尋ねてきた。
「はい、リバティーヴェルレコードのエドワード・ホロックスが貴方とお話したいことがあると云うことでこの電話を掛けました。代わってよろしいですか?」
「お願いします」
自分の役目はここまで、と悟ったリアンゼルはホロックスへうなずく。
うなずき返したホロックスは、「よく言った、アルティメット・リアンゼル。見事な矜持だ」と、こっそり賛辞を呈した。
カメラが切り替わり、「リバティーヴェルレコードで音楽事業部を統括しております、エドワード・ホロックスです」と挨拶された春本ヤスキは、さすがに居住まいを正した。
相手はイギリスの音楽企業でも最大手の取締役なのだ。
「日本で音楽事業のプロデュースをしている、春本ヤスキと申します」
「はじめまして。さて、早速ですが本題に入りましょう。昨日当社からお送りしておりました企画書はご覧になりましたか?」
「……拝見しました」
「具体的に数字で証明していますが、イギリスの市場で貴方のプロデュースする音楽はずいぶん嫌われ始めたようですね」
不承不承、といった様子で春本はうなずいた。
「売り上げが落ち込んでいることは知っています」
「その理由はご承知ですか? ブリテッシュ・アルティメット・シンガー・オーディションの日以降からまったく売れていない訳ですから、もう明らかとは思いますが」
「あのオーディションの出来事が原因だと言うのですか。私は間違ったことはしていない」
頑固に言い放つ春本をホロックスは憐れむように見た。
「貴方がどう思おうとそれは貴方の自由です。しかし、あのオーディションを見たイギリス人は貴方を心から嫌悪している。貴方の音楽を聞こうとするイギリス人は今、どこにもいない」
「誤解だ。不正をして私の名誉を傷つけたのはあの男の方だ」
「そして、そう主張し続ける限り貴方の歌をどんな歌姫が懸命に歌ってもイギリス人の心には響かない」
モニター画面の向こうで唇を噛んだ日本人を、ホロックスは冷ややかに眺めた。
「ミスターハルモト。僭越ながら貴方の日本での音楽プロデュース業について調べさせていただいた。マキャベリズムに忠実なやり方でファンから奴隷のように搾取する商法は、ここイギリスでは通用しませんよ」
「私は日本ではその方法で成功した。自分のやり方が間違っていると思いません」
「ほう、オーディション評議会が来年のオーディション審査員から貴方の除外を検討していると知っても、まだそう主張されますか?」
「な……!」
思わず絶句した春本をホロックスは静かに諭した。
「貴方のやり方は音楽の本来のありようを余りにも蔑ろにしている。それに比べたら、貴方とは真反対のポリシーで歌姫を育てたあの無名の日本人は実に立派だった」
ホロックスはスッと身を引いた。
そして、彼の背後の席からじっとこちらを見つめるエメルを見たとき、春本は顔面蒼白となった。あの日のデブオタのように。
エメルは何も言わない。
だが、その無言は百言にも勝った。悲しみを湛えたターコイズグリーンの瞳が、彼女の言わんとすることを全て物語っていた。
ホロックスが静かに口を開いた。
「ミスターハルモト、イギリス人は名誉を重んじますが寛容でもあります。まずはその浅ましいマキャベリズムを捨ててやり直しなさい」
「……」
「そこまでして金の亡者になりたいのですか? ヒエラルキーの頂点に君臨し続けたいのですか?」
「……」
「音楽とは辛い人や悲しい人を笑顔にする為に神が贈って下さったものだ。それを忘れた者に音楽を創る資格はない」
春本は、いつしかうなだれていた。
そして、そんな彼にホロックスは「我が社からの提案は、いずれ貴方の名誉を挽回することにもなるのですよ」と、語り掛けた。
「ですが、御社の提案は……」
「貴方がここイギリスでも音楽を仕事にしたいならマイナスから始めるしかない。我が社との提携の条件が不平等なのはその為です。だが他に差し伸べられる手はどこからも現れないでしょう」
「……」
「一度しか伺いません。我が社からの提案を受諾されますか?」
リバティーヴェルレコードからの申し出は提携とは名ばかり、音楽事業の下請けにも等しい業務関係の契約だった。
だが、イギリスの音楽市場で白眼視され、すっかり孤立した彼のレーベルに、他の選択肢はなかった。
春本は、黙ってうなずいた。
「では、後ほど契約書を送りましょう」
勝者の笑みを浮かべ、ホロックスは交渉を一旦締めくくった。
鮮やかな交渉の手並みをヴィヴィアンは感嘆して見つめている。
そして、ホロックスは、ふと思いついたように装って再び話しかけた。
「そうだ。ミスターハルモト、何でも貴方の監修で日本で大ヒットしているアイドル歌手育成ゲームがありましたね」
「『ドリームアイドル・ライブステージ』のことですか?」
「そうそう、それだ。そのゲームに一人、キャラクターを追加させることは出来ませんか?」
「……ゲームのアップデートで追加シナリオの予定は入っていますが、新しいキャラクターは考えていません。レギュラーの歌手は一二人でずっと続けてきましたし」
にべもなく答えたが、ホロックスの氷のような眼差しに睨まれると、ハルモトヤスキは慌てて答え直した。
「隠しイベントに登場する対戦キャラクターとかでしたら出来るかも知れません。でも、どうしてそんなことを尋ねるのです?」
「いやなに、そこに新しいキャラクターを一人出演させていただきたいのですよ。今イギリスでもっとも人気の高い少女で実力は折り紙付き。とある事情でアルティメットの名誉こそ授けられなかったが、誰もがその名を冠して呼んでいる歌姫です」
罵倒より数倍痛烈な皮肉だった。
青ざめていた春本ヤスキの顔色は羞恥心で真っ赤に染まったが、ホロックスは容赦しなかった
「そうだ、課金の仕方も搾取に近い今のやり方を改めたいな。これは、当社と提携するにあたってのテスト『禊』とでもお考え下さい。ああ、誤解されないようにこれだけは言っておきます。……よく聞いておきたまえ」
それまで丁寧な物腰だったホロックスが口調を改め、厳しく言い渡した。
「私が要求していることは不当ではない。この国で音楽に携わりたければ、搾取じみた営利主義を是正しろと言うことだ。それが出来ないなら助ける価値など見出せない。さて、君はどうするかね?」
「……検討しておきます」
「この場でお答えいただこう。断るという選択肢を選ぶ自由まで縛るつもりはない。だが、少なくとも君はリバティーヴェルレコードを待たせることが出来る立場ではない」
交渉を勝負に例えるなら、勝敗は既に決まっているようなものだった。相手は最初から一度もイニシアチブを握れなかったのだ。
悄然となった春本ヤスキが「わかりました」とつぶやくように答えると、ホロックスはその眼に冷ややかな光を一瞬閃かせたが、穏やかに話し始めた。
「それでは具体的なビジネスの話を始めさせてもらいましょうか。架橋エメルは私の会社と契約しているのです。貴方は彼女に『彼』を返してあげなければいけない……」
次回 第8話「追慕という名の歌姫 ③」