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相談はするのもされるのも好き

高校生の頃、あるラジオ番組ばかり聞いていた。
「ドリアン助川の正義のラジオジャンベルジャン」。
中高生の悩みであるところの、いじめ、援助交際、レイプ、裏社会からの被害、自殺願望、ドラッグ、不治の病。あらゆる社会問題が背景にある悩み相談を一ロックバンドの兄ちゃんが聴いてたのだから毎回土曜の夜は手に汗握る生放送だった。

僕はガキながらもいつかこんな大人になりたいと、大人になってから実際ご本人に会ってみて気付く、「当の本人はそんなものになりたくなかった」という事実。ホンマに人は、直接話してみないとわからない。

真剣に生きるのってしんどいもんね。けど、ただただほんとうにしんどいだけなんだろうか?それは勝手に自分が思い込んでいるだけだとしたら?一人では見えないことのほうが圧倒的に多い。だからこそ自分以外の人たちがいるんだろう。

少なくともおれは、人に相談するのもされるのも好きだし、そんな人生の大事な今を分かち合える人々と一緒に居たいと心から思う。

相談すること

何か困ったとき、実際相談しようと思ったときに思い浮かぶ顔って意外と少なかったりする。それは悩みのお陰で視野が狭くなっていることも事実おおいにあるだろう。

それでも思い浮かぶ顔が居たり、自分も誰かのそれになれていたらこの上なく嬉しいこと。結局出会いはいかにそうなれる関係性をつくれるかどうかなのかもしれない。

誰かに頼れて素になれる場があり、何かを打ち明けることで今よりもっと自分を活かせる場所につながる可能性も出てくるから無限大だ。それもこれも、信頼できる人との出会いがあるからこそ。

いつだって俺はこれに恵まれていた。尊敬している先輩方に人生を教わるにも似た空間である相談。それらはいつもジャストなタイミングと人材が傍で話を聴いてくれるもんだから感謝に尽きる。

世界はどこまでいっても、自分が感じて見てるもの以外はない。イメージや経験、未経験含めて、それがそのまま現実として存在し得てしまう。そして悩みは今の自分の裏返し。自分が思ったままの現実が良くも悪くも反映される。そこで必要な気付きを見つけて、どうやってその壁を乗り越えられるのかが問われる課題。いくらへそを曲げても素直に受け入れない限り、永遠にその課題は自分の所に強さを増して返ってくるなら気付くのは早い方がいい。そんなことを聞いてもらえる人を見るけられるのもまた、自分がこれまで生きてきた証。

そうじゃない時ですら、ただ単に自分が見えてなかっただけで、だれしも近くに必ず自分にとって活路を開いてくれる人はいるもの。それを自分の偏見や先入観という色眼鏡や、ストコーマ(心理的盲点)で結局見逃してしまってるだけなんだよね。

それでも相談できること自体そこに安心と希望があるから、また俺たちは何度でも立ち上がれるしやり直せることを知っている。のハズだ。

相談されること

ちょっと前は夜回り、今は若者メンタルサポート協会で未成年の相談にのっている。勿論身の回りで出会った人の相談も心理カウンセラーの資格を取った10年前からさせてもらっている。すると心身共に明快なその人の今の仕組みが見えてくるけど、ここで素直に気付いて改められる人がどれだけいるかだ。
そもそも相談したいだけの人もいる。ただ話を聴いてほしくて自分に注目してほしいと思ってる人も実際多い。それだけ悩める人は日々周りと自分の比較に疲れて不安になってしまう。そして周りには心を開かないからここまでくるという追い込まれようだが、ほとんどの場合は自分の思考によるもの。

今まで多くの人の相談にのってきたが、本気で今の自分をどうにかしたい人は数える程度。そしてその効果があるのもその人たちくらいなものまた現実。

だからいつも俺が人の相談にのるとき大事にしてる問いは「本当はどうしたいの?」という意地悪な質問だ。けど悪気はなく、ちゃんと今の自分を見てもらうには必要なこと。ダメでもなんでも、今の自分を選んできたのは他でもない自分自身。

僕はその人が求めてないことは一切言わない主義である。言ってもそこに結びつきが見えないものを人は聞かない。というか聞けないようにできているのだろう。

ただし相談は夜中以外に限る。人は夜寝るために作られているが故、夜中に考えることや相談は不思議とろくな方向に行かないようなバッドスパイラルへの入り口となっている。20代後半で夜回りを始めたときに嫌というほどこのループにハマったことがあって懲りたというか学んだのもあり、今でもそうしている。

そしてこちらからの鏡で自分自身に足りない点が見えた人や、今まで気付かなかった悩みの先である相手に愛を見出した時、人は感動するほどの変化を起こす。これに立ち会いたくて、大事な人たちの幸せの動向に寄り添っている。ただしこれは見返りや期待のプレッシャーではなく、心底その人の幸せを願うことで、この人のために出来る世界を広げ繋げることは何かということを自分の引き出しにある点と点を結びつけることの開館に他ならない。おれもまた、世界を周り、挫折を繰り返しては起き上がることの快感を共有して人の役に立てる喜びを感じたいんだろう。

少なくともどんな状態でも自分のところまで一生懸命来る人を俺は見捨てたくない。それこそが指名された側の責任だと思っている。その人が自ら人や自分の心を踏みつける滅びを望まない限り。

そこの会話で大事なこと

ただ相談すればいいというのではない。
相談する側はどうなりたいかのイメージをなるべくして、出来る出来ないは別として聴くからにはほんのちょっとの勇気を使って挑戦してみる気にもならないと「そんなの無理」だけでは現状維持以下の後退になる。
受ける側も相手の気持ちをくんで、今のその人でも出来ることを一緒に考えてあげる必要がある。
心理的な知識や経験もあまり必要ない。大事なのは相手を思う愛でしかない。いくら経験値や知識があっても愛がなければ伝わらないし確信に届かない。相談する側もそれをしっかりと受け取る努力をしてみたほうがいいだろう。

そして互いに上下関係にはならず、いかに飾らず、素直にいられるかということ。ここで変なプライドが出てきては余計すんなり呑み込めなくなる。
相手から見える自分や意見に耳を傾かすことが出来なければ、せっかくの好意や現状のうまくいかないことから抜け出すきっかけを無にすることになるからしっかりとその場に向き合ってみるといい。

新宿のサザンテラス、鴨川の河川敷、なんばの三角公園。俺はそんな人が互いの人生に向き合う光景を見るのが大好きだ。

未だに自殺や戦争も絶えず、格差は広がるばかりで差別もなくならない地球を追い込む化学部室をばらまくこの時代でも、そんな世界も人生も捨てたものではない。だってそこには逆境に諦めない人がまだまだたくさんいるから。

俺はただその世界と狭い世界で苦しんでばかりいる人をつなぎとめて驚いてほしいだけ。世界はこんなにも広く、あったかかったんやなって。どんな不運な人生に打ちのめされたって、それだけの可能性が今生けるもの全てにあることは間違いないのだから。


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