"犬のフン"との付き合い方
人をかまってるより自分のことやりなさいよ
よくそう怒られる。
ど正論である。
僕は誇張抜きで自分のことさえままなっていない。
上手くいかない仲間達
人間っていうのは似たような人が集まりやすい。
あまり上手くいってない僕には同じく上手くいってない友達が多かった。
親の離婚なんてのはありふれた話で、
借金、病気、モラトリアム、自殺未遂、一家離散
色んなものが目白押しだった。
それでも余力のある時に互いに与えて、助けあって、寄り合って、そんな風に過ごしてきた。
意識高いことを言えば、
「そういう人たちと一緒だからキミまでそこに落ちていた」ともとれるだろう。
でも、間違いなくそんな"底"の世界が僕の青春の住処だった。
今でも、あの場所で過ごした日々を間違いだとは思わない。
気になるもの
"底"での生活が染みついてる僕は困ってる人を見るとなんだか気になってしまう。
「つい体が動いて助けてしまう」とかそんなご大層なものではない。
なんでそうなってるのか、自分に出来ることはないのか
そんな事をぐるぐる考えてしまう。
ぐるぐるさせるだけで何もしないこともあれば実際に行動に起こすこともある。
「今から死ぬ」と電話で言ってきた友達の元へ向かったり、金がない友達に飯を奢ったり、
全部自分がそうしてもらって救われたからすることだ。
見返りに飛んでくる石
でも、時に助けたつもりでいた人から石が飛んでくることもある。
シンプルに言われて嫌なことを悪意をもって言われたり、
頑張ってやってる事になんも建設的でない批判をされた上、「あいつは褒められ待ちで批判を受け止めることすら出来ない」とTwitterで呟やかれていたり、
でもそこで、「なんでそんな恩知らずなことが出来るんだ」と怒りに震えてもしょうがない。
助けようとしたことはどこまでいっても自己満足で勝手にやったこと。
それを理由に相手を自分の良いようにコントロールしようとすることこそがおこがましいことなのだ。
「なんでそんなことするのかが理解できない」
お世話になっていた人にそう言われたことがある。
側から見れば、僕はメンヘラや社会不適合者に時間とエネルギーを吸われているように見えていることにここで初めて気付かされた。
「キミがやってることは道端に落ちる"犬のフン"を嗅いで臭がってるようなもんだ。そんなことはやめなさい」
言われた当時は悩みに悩んだ。
なにせよ、これまで大事に信じてきた生き方へのダメ出しだ。
でも、その時から時間が経った今なら分かる。
その言葉は間違いなく正しいのだ。
僕は頼まれてもいないのに人の世話を焼いて、その後投げられた石に「恩知らずどもめ〜!」と勝手に失望して駄々をこねている。
確実にエネルギーの使い方を誤ってる側の人だ。
インフルエンサーの言う"成功できない側"の人だ。
でも、ここまで分かることができても、
自分の胸中には割り切れないものがあるのも確かだ。
「これだけ優しいキミにはきっとなにかが成せる」
家庭に大きな問題が起こった友人を、周囲の反対を押し切って子供の世話や引越しの手伝いを引き受けた時に言ってもらえた言葉だ。
正論の世界では間違いなくこの友人達のことも他人事なのだから干渉し過ぎることはなかったはずだ。
言い方が悪いが"犬のフン"案件だ。
実際周囲にも怒られた。
でも、間違いなく自分の選択は間違いではなかったと、このことばかりはそう思うことが出来る。
「"犬のフン"にあえて近づく感性」が誰かのためになったという成功体験だ。
"犬のフン"との距離感
きっとこれからもよせば良いのに人の問題に首をつっこみたくなる時があるだろう。
でも、今の自分には目標もやるべきこともある。
先生として、表現者として、仲間として、頼りにしてくれる人を相手に仕事をしている。
一番の優先事はそこだ。間違いない。
しかし、それでも"犬のフン"に近づいてしまう感性は捨てたくないと思う。
"底"で身につけたこの感性に救える人がいることを僕は知ってるから。
とはいえ、正論の世界ではどこまで行ってもそれは悪趣味だ。
他人事に振り回される悪趣味を本分にすることなく、
何より自分の事に本気を尽くせる自分であることは忘れてはならない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。