ある同僚との話し
こんばんは。今、メキシコのグアダラハラは夜8時です。
今日はいつもよりもだいぶ早い時間にnoteを書いてる。いつもは仕事が6時までなので、家に帰ってから書いている。だが、今日はこれを書いたら、友達と会う約束があるので、今は書いている。
まだ家に帰っていない。職場で書いている。
今日は水曜日。僕の勤めている日本語学校では、先生が2つに分けられる。
常勤と非常勤。
常勤はクラスで日本語を教えるだけではなくて、学生の出席管理やテストの評価もする。さらには、学校に来るお客さんの来客対応や電話対応、職員会議の出席、イベントの企画・運営なども担当する。
非常勤はクラスをするだけでいい。
平日なら、クラスはいつも4時からの回と7時からの回の2つしかないが、常勤の先生は11時から出勤していないといけない。
今日は僕が担当する日で、もう一人メキシコ人の同僚と11時から学校にいた。
彼は元々、学生だった。3年前に僕がメキシコに来たときから、何回かクラスで教えたことがある。非常に日本語力が高く、言葉の使い方や発音なども完璧だ。また、音楽にも造詣が深く、日本の70年・80年代に流行った、いわゆるニューミュージックと呼ばれる音楽に驚くほど詳しい。
僕も音楽が好きなので、今日はいろんな音楽を紹介し合っていた。
三木聖子が好きだそうだ…..
シブい!
そんな彼はベジタリアン。肉や魚は一切食べない。牛乳はたまに飲むらしいが、基本的に動物が関わる食べ物や飲み物は口にしないとのこと。
今日少しベジタリアンのことについて少し話をした。
よく彼は、
「いつから肉を食べないの?」
「肉や魚を食べなくて、体は大丈夫?疲れたりしない?」
「環境のことを考えているなんてえらいね。」
こんなことを言われるそうだ。
こういう発言に正直うんざりしていると言っていた。
「私たち人間は肉や魚を食べることで何か環境に影響を与えている。そして、中には人の私利私欲のために無残に扱われる動物もいる。そういう世の中に自分がどう関わっていくかを考えたときに【ベジタリアン】という選択をしただけだ。別に自分のことはえらい人だなんて思っていない。」
彼にとって、それは、例えば、他の人が通勤にバスを使ったり、車を使ったりするのと同じように、今の自分にとってより良い選択をしてるだけのことだ。
お金がないなら、バスを使う。
お金があるけど時間に追われてるなら、車を使う。
そういう選択と何ら変わりないと言う。
そんなことを言われて、僕はこう考えた。
例えば、いつも歩く道があるとする。通勤や通学に使う道だ。徒歩でも車でもいいのだが、毎日同じ光景を見ていると、次第に道を覚え、何も見なくても目的地までたどり着ける。
これは人間には記憶する力があるからだろう。
じゃあ、そのいつも見慣れている街並みの中で、急に何かがなくなると、
「あれ?ここに何か建物が建っていたよな。何だったっけな?」
そう思うことはないだろうか。
いつも見慣れているはずなのに、急に変化がやって来ると、その部分は思い出せないことがある。
では、道順は覚えているのに、どうしてそれは覚えていないのだろうか。
人間は自分にとって必要な情報を判断し、それだけを記憶しようとする。知らず知らずのうちに脳が必要な情報とそうでない情報を分け、取捨選択している。
ベジタリアンということが身近ではない人にとって、それはあまり必要な情報ではない。したがって、彼がうんざりするような質問は、一見考えているように見えて、実はそんなに考えてない質問であろう。
多くの人がおそらくそうだと思う。なぜなら、そんなにいろんなことを考えていたら、脳が疲れて、疲弊してしまうからだ。
僕もuberに乗ると、運転手からよくこんなことを言われる。
¿Eres chino?(エレス チーノ?)
君は中国人?
彼も僕も自分がマイノリティーであることがよく分かっている。僕はここでは外国人。彼もベジタリアン。社会とどう折り合いをつけて生きていくかはよく考えてきた。そうしなければ、社会で生きていくのは難しいとよく分かっているからだ。
そして、そういう悪意のない質問にも敏感だ。
でも、マイノリティーであることが分かると、マジョリティーが何を考え、何を考えていないかよく分かるような気がした。
そう考えると、マイノリティーであることはそんなに悪いことではないのかもしれない。