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稽古の覚書

僕は、関東圏で活動する
幻ノ國という劇団の主宰を務めている。

具体的に言うと、
作・演出を担当している。

その僕が、次の公演で
メインキャストを演じることになった。
多分1番目か2番目くらいにセリフが多い。


これまで作った作品は、
幻ノ國という名前に相応しく
幻のような幻想的なモノを書いてきたつもりだ。

しかし、今回の作品はこれまでとは
打って変わって、より現実的なものを
書く気になって書いた。
というか現実とやらが気になって書いた。

久しぶりに僕もガッツリ演じる。
(劇団を立ち上げてからこれが初めてかもしれない)

これまで俳優たちに、
「この役、演じるのが難しいです」
だとか
「この台詞はどうやればいいのか?」
などと浴びせられてきたのだが、

自分がガッツリ演じる側になって
本当に難しいなあ、と感じる。

プロットが細かい。

メンバーに、

「今回こそ、わかりやすい作品を!」

などと息巻いてみたのは良いものの
蓋を開けてみたら

・詩的な台詞の激しい応酬
・膨大な情報量とシンボル
・真実と嘘の多段階構造

といった、もはや難解一歩手前の戯曲に…。

今日なんかメンバーと帰りの電車で

「これってもしかして、怪奇戯曲ってやつ?」
なんてほのぼの話していた。

いやあ、おっかしいなあ。
どこで道を踏み外したんだろう。


本当に演じづらい。
作家と俳優の視点は違う。
俳優の視点が強くなった。
稽古中、ふと、自分が詰まらない演じ方を
していることに気が付いたり

台詞の発言に至るまでのプロセスの旅が
難航したりと前途多難だ。
⇨これは全体感を持ちながら
同時に主観を持って(あるいは持ったように)
演じなければならない戯曲だからである。

同時に演出もやっているので
相手役他の芝居もコト細かに注目しないと
いけない。

また、
プランとプランの重なりの中で生まれる
カタチとその美とやらを意識しないといけないのだ。

コリャ大変だ。

そう物思いに耽る稽古であったのだが、
ふと人は「言葉に生かされる」ものだなあと
改めて感じる。

同時に「言葉(台詞)を生かす」のも人だ。

僕の今の演じ方は一体、
どれだけの言葉を死なせてしまっているのだろう。
そう思い、なんだか居た堪れなくなった。

おそらく、死んでしまう言葉が
必要な場合もある。
それでも見誤ることなく
生かさなければならない言葉を
洗っていくのが我々の仕事だ(今は俳優のつもり)。


先日、自身の作曲方法について語っている
マイケルジャクソンの動画を観たのだが
そこで彼は

作曲とは、木の下に立ち、落ちてくる葉っぱを
掌で受け取ろうとするようなもの。
それはとても美しい行為であり、
惑星の言葉を聴くみたいなものだ。

と述べていた。

そのプロセスは、
自身の中に役を見つける旅に
似ているのかもしれない。
⇨もちろん劇作にも精通する

その旅の中で死んで行く言葉は、
きっと生きていく言葉の糧なのだろう。

早いこと座組みが、
旅の中で合流出来ることを祈って。

以下詳細
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幻ノ國 第6回番外公演 
『カイコ』
作・演出 福地海斗

時:3/19〜22
場:ひつじ座
その他、各種情報、近日公開
https://www.gekishu-onogumi.com

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