エッセイ: なぜ市民ケーンは史上最高の映画と言われるのか?
なぜ、1941年の『市民ケーン』は、80年以上を経過した今も映画史上最高の作品と言われるのか?単なる評論家たちの積もり積もった個人的感想程度のものなら、持続的に最高傑作として評価される理由にはならないだろう。ロック音楽を語る上でビートルズが欠かせないように、近代文学でシェイクスピアがなくてはならないように、『市民ケーン』は映画表現並びに映画産業に、ただならぬ影響を与えたマイルストーン的な作品なのである。
■ 映画作りに革命を起こす
まずは、制作の経緯から異質だった。ニューヨークを中心に活動する演劇人だったオーソン・ウェルズは、1938年10月30日のハロウィーンのラジオドラマ放送にて、ハーバート・ジョージ・ウェルズ(血縁なし)の『宇宙戦争』を、偽の臨時ニュースで始めるような原作どおりのドキュメンタリー式に声優たちを演じさせた。視聴者たちによる社会的なパニックが発生したというのは後世に尾ひれが付いたエピソードらしいが、ラジオというマスメディアの特徴を利用した大掛かりな余興であり、そのウェルズの演出は若干23歳の彼をタイムズ誌の表紙に載せ、その名はハリウッドにも鳴り響いたという。
RKOピクチャーズは、ハリウッドのメジャーな配給会社としては1928年結成という後発だった。『キングコング』(1933年)の成功などでイケイケの新興企業だった一方、独自制作の作品にはB級ウェスタン映画が多く、経済的にも貧窮しつつあったという。しかし、新任社長のジョージ・シェーファーは「プレミアム価格で最高品質の映画を」というモットーを実現するために、ニューヨークで気を吐いていたウェルズ起用を決定。しかも、映画のクリエイティブコントロールを、この時点でまだ25歳に過ぎなかった若者に完全に委ねるという挑戦的な試みをした。
当時のハリウッドでは、すでにスタジオシステムが完成しており、脚本や監督、芸術、編集、さらには演技さえも作業はすべて分業制で自分の契約外の仕事に口を挟むことなどできず、映画はベルトコンベアで製品を作るような大量消費型の商品、アメリカが謳歌しつつあった資本主義下のエンターテイメントに過ぎなかった。そんな中でウェルズは、ファイナンスはともかく映画の撮影から編集までを自分の意志で決定し、主役も自分で演じることができる権限を得たわけだ。映画産業に、後に「作家主義」と言われるスタイルが定着するのは、1950年代末からフランスで起きたヌーヴェルヴァーグ運動まで20年かかる。さらにアメリカでは、それから10年後にハリウッド産業が崩壊した1960年代末まで待たなければならない(ベルイマンやヒッチコックらは例外かも知れない)。シェ―ファーの英断は余りにも先駆的だった。
そしてウェルズは、脚本家のハーマン・マンキーウィッツ、撮影監督のグレッグ・トーランド、編集のロバート・ワイズといった才能ある映画人と出会い、彼らも自由な映画作りに貢献した。まだ撮影関連技術が発展途上にあった時代、陰影をはっきりとさせるために「アーク灯」をセットに持ち込み、暗いセットでもしっかりと高画質に捉えるイーストマンコダックの「Super XX」という当時最先端のフィルムを使っただけでなく、トーランドが彼の前作でも実験的に利用していたCookeの24㎜ワイドアングルレンズなどが採用されている。ウェルズよりも一歳年下だったワイズは、実用的に合成映像を編集できる開発されたばかりのオプティカルプリンターを利用し、回想シーンなどの数々のイリュージョンを作り上げた。
ウェルズ自身は、当然ながら映画撮影についての知識は何もなかった。後に彼は、インタビューで「舞台をやっていた頃は自分で劇場の照明を動かしていたので、映画がクランクインした最初の10日ほどはずっと自分で照明をいじり、グレッグ(トーランド)が後ろに張り付くようにしてそれを修正していた。彼は、私がどうしたいかを確認して、それを映画用に直していてくれたんだ。撮影監督の仕事に踏み込んでいたことは謝罪したけど、彼の行動は紳士的だと思った」と述懐している。そうした若きウェルズの無知が、新しい表現を作る上で功を奏したのかも知れない。『市民ケーン』が1941年5月1日にブロードウェイで初公開された時、ウェルズはまだ27歳だった。
■ 市民ケーンの映像分析
上の映像は『市民ケーン』を偉大さがわかるシーンの1つで、主人公チャールズ・ケーンの幼少の頃を描いている。(ほんとはもっと分析したいけど映像がない~!)
・ 屋外で無邪気に遊ぶチャールズからドリーでカメラが引かれていく。これは”ディープフォーカス”(日本ではパンフォーカス)と呼ばれる、全ての対象物にフォーカスを合わせるテクニックの一例だ。当時としては高感度のフィルムでも、役者たちには焼き付けるような熱さが伝わったであろう、アーク灯をセットの光源として使用することでしか実現できなかった。
・カメラはドリーでそのまま引いて、テーブルの上を通過。実際には、カメラの通過後に左横からテーブルが押し入れられているので、シルクハットがぐらぐらと動いているのがわかる。
・ 劇場では表現できない、縦方向への構図。まるで絵画をじっくり眺めまわすように、視聴者は自分の目のレンズを変えながら、ビジネスライクな前の演技(右2人)とミッドレンジの感情的な父親の演技、そしてバックグランドの無邪気なチャールズという、温度差がある異なる演技を平行的に読み取る。
・ とにかく長尺の2分近いテイク。『市民ケーン』以前の映画なら、子供が雪と戯れるカットは別撮りされていただろう。当事者であるはずの子供の意志は遠くに置き去りにされ、大人たちが彼の将来を決めていることが絶妙なコントロールで生み出され、演技では表現しきれない意味が詰め込まれている。
・ 窓を閉めた後や屋外でチャールズを見守る父親が後ろ手にする仕草は、後に成人したチャールズも何度かしている。細部までキャラクター像を作り込む演出家は現代にもそういない。
・ ローズバッド(映画内のソリのブランド)が埋もれていく時間の経過シーン。実物の小道具を博物館で見ると明るい赤色だったが、モノクロ映画では色の識別が難しいことが、そのプロットにある種の不鮮明さを与えることになったように思える。
このシーンは119分映画の中のほんの一部。他にもセットを高く作ってまでカメラを見上げるように設置した、各所で効果的なローアングルのショットの数々から、豊かになってディナーテーブルが大きくなるにつれ、対面に座る妻のスーザンとの距離も遠くなっていくという比喩、孤独さを映し出す鏡のイリュージョンに至るまで、それぞれのシーン、それぞれの演出に何らかの意味を感じることができるはず。俳優のリチャード・ドレイファスも、『市民ケーン』を最も影響力のある映画とし、「138回見たけど、まだ見るたびに新しい発見がある」と話していた。
『市民ケーン』全編にみられるカメラワークや演出、照明効果、視覚的な騙し構図は、監督と撮影監督が意思疎通しながら脚本では描き切れない”視覚的ストーリーテリング”を、そのチームワークで作り出した証左でもある。映像しか持ちえない”光で意味を与える”表現を使い、ストーリーをどのように利用するのか。セリフやナレーションの解説ではなく、1枚の絵の中で視覚的に観衆に語り掛ける”映像言語”(Film Language)というコンセプトも、『市民ケーン』が切り開いたと言っても過言ではないだろう。
■ 脚本について
『市民ケーン』の脚本も、とにかく素晴らしく知的だ。映画では、最初の数分間のニュース映画のようなモンタージュでチャールズ・ケーンという新聞王の成功と凋落を表現し、観客はその粗筋をまず理解する。そして、ケーンの最後の言葉となった”ローズバッド”(ばらのつぼみ)の意味を探ろうと、彼に近しかった5人の人物に新聞記者のトンプスンが取材している内容を、そのまま映像化したような構成で現在と過去を行き来しながらケーンの歴史が紐解かれていく。黒澤明の『羅生門』やミロス・フォアマンの『アマデウス』、クリストファー・ノーランの『メメント』などの名作には、『市民ケーン』からのダイレクトな影響が見え隠れするものも多い。
『市民ケーン』にはフロイト的な心理分析の影響が色濃くみられるが、母との決別はケーンの自我の形成にも影響し(もしくは自我を破壊したとウェルズは捉えたのか)、晩年のケーンには母の存在そのものを思い出す描写は1つもなかったものの、妻との距離感となって彼の人生にまとわりつく隠喩( Übertragung)となった。後半のストーリーの多くは、そうして潜在的にケーンの過去、つまり貧しいが居心地の良い両親の愛情の象徴である”ローズバッド”へと近づくように仕向けられている。つまり、観客は最後のシーンまで「あのソリだよね」とは思わないにしても、ケーンの行動と孤独は彼の過去に起因していると徐々に感じていくはずだ。
普通の脚本なら、視聴者にわかりやすく伝えることを意図し、ストーリーもセリフで直接的に表現して「ドラマの言いたいこと」を手取り足取り教えてくれるが、『市民ケーン』は一筋縄ではいかない。母親は泣いてチャールズとの別れを悲しむのではなく、チャールズの未来を思うがあまりに、もはや泣き疲れたように感情を出さない。そんな無表情ながらも、冒頭の「マフラーを首にしっかりと巻きなさい」という母のセリフに、子供の将来を思う母の心の全てが詰まっている。子供を売り物と見ていたのなら、風邪をひくかどうかなんて関心事ではなかっただろう。
さらに、両親と別れた直後には拗ねていただろうチャールズ少年の描写をすっ飛ばしてしまうところにも、この脚本の美徳を感じる。脚本の構成としてはジグソーパズルのように異なる人物による異なる時代の異なる見解が寄せ集められてケーンの生涯の断片が描かれており、最終的にケーンの生きざまや境遇に同情するのも批判的に感じるのも、受け手次第に委ねられている。
ローズバッドの真意が理解できなかったトンプスン記者は最後に言う。「どんな言葉も、人の生涯を表せるわけなんてない。”ローズバッド”は、ジグソーパズルの一片に過ぎないってことだろうね。謎の一片の1つだ。」 こうして、カメラはケーンの残した膨大な財宝や遺品の数々をハイアングルのカメラで捉えていき、最後に処分されかけているソリを映し出す。トンプスンを始めとする映画の登場人物ではなく、映画を鑑賞していた観客だけがわかる”謎の一片”だ。
ザナドゥ邸は、ケーンにとって文字どおりの「象牙の塔」となったが、自分の心の隙間を埋めるように異常な収集家と化したケーンが集めていた高価なアートコレクションの数々ではなく、1つの古ぼけた粗末なソリ(と小さなスノードーム)だけが、ケーンという一人の人間にとっての、彼自身も気付かないままの心の拠り所となっていたわけだ。
■ 最後に
『市民ケーン』の評を読んでいると、「昔はスゴい映画だったんだろうけど……」などと書かれている人の文章をよく目にするが、今もスゴい映画だ。実際には当時、元ネタにされたことに怒り心頭だったハースト系列のメディアには酷評されたことで興行的にも失敗していたし、アカデミー賞の9部門にノミネートされながら脚本賞しか受賞できず、アメリカ人の記憶からはすぐに忘れられたスゴくない映画だった。再評価されたのは、第二次世界大戦のために1946年になってから劇場公開が始まり、アンドレ・バザンに論評された戦後のヨーロッパでのことだ。
陰影の強い映像スタイルは、直後のアメリカで量産された「フィルム・ノワール」に多大な影響を与えたし、クリエイティブ全面で一人が大きな役割りを果たす「作家主義」の最初の芸術的成功例として、第二次世界大戦後から現代にまで続く世界中の映像クリエイターたちが大なり小なり恩恵を賜っているのは疑いない。若くして名声を獲得していたウェルズの異質さが当時のハリウッドの旧体制に楔を打ち、自由を保証されたその発想と表現力は、マンキーウィッツとの脚本、トーランドとの撮影、そしてワイズとの編集までの共同作業の中で爆発した。
もちろん、現代映画にも『市民ケーン』の時代の映画にも、個人的嗜好で『より良い映画』は誰にでもあるし、映像表現に新鮮さをもたらす技術革新は今も続く。それでも『市民ケーン』が、公開から80年以上を経てもなお誰かが作る「名作映画100選」のトップに選ばれ続けているのは、今もそれだけの影響力があるマイルストーン的作品であり、今でも超えることが難しい高い完成度を誇っている作品だからなのだ。
(テストで夕食後の4時間ほどで書いてみました。再考・修正はするかもしれません)
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