# 他人を許容するということ
世の中には本当にいろんな人がいるなぁと改めて思う.
視界が広がっていく感覚をつかんだのはやはり留学が大きなきっかけであったように思える.日本人より真面目で勤勉なドイツ人と友だちになれたのが大きな衝撃であった.
そして日本に帰ってきて,日本にもいろんな人がいる,ということに気づく.当たり前だけど一人ひとりその人の価値観をもって生きていて,そしてその価値観はよくぶつかり合う.街ですれ違う人同士ぶつかってお互いイライラする,こんなシーンはよく見る光景だ.
本当にいろいろな人がいるからこそ,みんなでよい社会を作っていきたいし,そう思う僕は多様な価値観を許容できる人でありたいと強く願っている.
他人の価値観を把握することはとても難しい.自分の価値観を把握することも完璧にはならないし,家族の価値観ですら捉えるのは難しいと感じることがよくある.研究室という狭いコミュニティですら,難しい.一番時間を共にしている家族ですら難しいのだからなおさらである.
最近僕の中では空前のアニメブームが起こっているのでアニメの話を例に引き出すと、好きなアニメの話,お気に入りのアニメの話を通じて,”あ,この人はこういう点に面白さを感じるのか”,という気づきを得るのは僕の中で最高の瞬間である.脚本なのかグラフィックなのか登場人物の見た目なのか,いいと感じるポイントはたくさんあって共有はできないかもしれないけど,共感を得ることで僕は満足する.
もちろん,僕が大好きな”僕のヒーローアカデミア(=僕史上最高傑作アニメ)”をいろんな人が見てくれればそれは最高に嬉しいことだけど,呪術廻戦が好きな人の理由が自分の中で腹落ちすれば,それはそれで楽しいことと僕は思える.
その人にはその人なりの論理構造があって,そこに善悪の区別なんてない.(似たようなテーマで書いた過去記事があった.)心の底から,”みんなちがってみんないい”と,今なら言える.
そこで完結していればそれでいいんだけど,ここで未熟者の僕が顔を出す.僕は自分で行っている他人への受容を,他人に求めてしまう.
自分を主張することはとても大切なことだし,そうしなければ生きていけないのだろうけど,多様な価値観があっていいじゃない,と俯瞰することはできないものかねぇ,と思ってしまう.
自己主張の激しい人を隣にすると,どこか息苦しい気持ちになってしまう.オンラインMTGで自分の声を常に上から被せようとするような,そんな姿勢(伝わるだろうか).
様々な価値観に触れる中で他人を許容できる幅は広がったと思う.最大限の楽をしたくて常に最小限のパフォーマンスで物事を乗り切ろうとする研究室の後輩ちゃんも,最後の最後で分かりあえた(というより僕が許容できるようになった).
みんなちがってみんないい,と思って完結していればよかったのになぁと思うのだが,僕の器はそこまで大きくなかった.他人と比較し,自分と違うことにストレスを感じているみたいだ.
全然,みんなちがってみんないい,じゃないじゃん.笑
僕はどこにいるのだろう,自分らしさって何だろう.
器は大きくなったかもしれないけど,僕は空っぽのまんま,取り残されているような,そんな気分.