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魔女裁判 #3「幻影」
「なぁ、才奨」
僕がタクシーの窓から外の景色を眺めながら言うと、相棒は目を閉じて腕を組んでいる。
「こういう風に事件を追っていると、いつも鷹見先生のことを思い出すんだ」
才奨が少し驚いたように目を開けた。
「鷹見さんの話なんて、急にどうしたんだよ?」
「特別な意味なんてないさ。でも先生もこんな風に、どこか危険な場所に赴いて真実を追い求めていたんだなと思うと、なんだか僕も背中を押される感じがするんだよ。あんなに強い人でも、恐れはなかったのかなって」
「いや、怖かったに決まってる。でも、それでも前に進むからこそ、俺たちに道を示してくれたんだよ」
才奨が少しだけ微笑んだ。そういえば、こんな風に先生の話をするのも久しぶりなような気がする。
「鷹見さんは俺たちがこうして進むことを、ずっと願っていたのかもしれないな」
アトラス・ホテルに到着したのは、日が沈みかかった夕刻だった。
周囲は賑やかで、ホテルの外観は豪華絢爛そのもの。特権階級の人間だけが足を踏み入れることのできる場所。そうした雰囲気がそこら中に漂っている。
ホテルの脇でタクシーから降りた僕たちはそのままエントランス付近に立ち止まり、周りを見回す。
「まずは、情報を集めよう」
才奨が目を凝らす。才奨とは違う方向を見ていると、目の前にいるリムジンの運転手が、何かを気にしている様子だ。その動きが妙に気になった。そっと才奨に耳打ちした。
「おい。あれ見てみろ」
才奨もものの数秒で同じことを考えたようで、
「怪しく見えるか?」と小声で返す。
「ああ。それに見覚えがある」僕は少し眉をひそめた。
「確か、あの車種はケマル・バイラルが乗っているとされるもの」
「本当か?」才奨の目が輝いた。
「さっき彼女も言っていただろ。かなりの高級車だからか、所有者も少ないとも。確かめてみるしかない」僕は早速その運転手に近づいていった。
運転手は、僕が近づくのを見て一瞬動きを止めた。しかし、声をかけると、すぐに無関心を装って肩をすくめてみせる。
「何か御用ですか?」
「ちょっとお聞きしたいことがあって」
僕は優しく、しかし決して引き下がらない口調で言った。
「あなたが乗っているこの車、これはケマル・バイラルさんのものですよね?」
運転手の顔色がわずかに変わった。僕はそれを見逃さなかった。
「なぜそんなことを?」彼は目をそらしながら言う。
「ただの興味ですよ」軽く笑ってみせた。
「ケマルさんがどこにいるのか、教えてもらえるとありがたいんですけど」
「私は……一介の運転手です」彼は少し焦った様子で言った。
「それ以上はわかりません」
その瞬間、僕は彼の手が少し震えているのを見つけてしまう。
「そうですか。お仕事中に失礼しました」それ以上追求せずその場を離れ、才奨のもとへ駆け寄った。
「どうだ?」
「間違いない。彼は奴の運転手だ」僕は冷静に答えた。
「あの反応、間違いなく何か隠している」
「じゃあ、もう少し聞き出すか?」
「いや。中を調べてみよう。奴は必ずここに姿を現すはず」
僕たちはそのままロビーに入ると、左手にある高級そうなレストランに目が留まった。どうやらそこには、政治家やビジネスマンが集まっている様子だった。ケマルの手がかりが、ここにあるかもしれない。
「よし! チャンスは絶対に逃さない。調べ尽くしてやる」
才奨も俄然やる気が出てきた様子だ。
◆
レストランに足を踏み入れると、目に飛び込んできたのは、きらびやかなシャンデリアと豪華な内装が施された空間だった。さすが国を代表するアトラス・ホテルだ。高級感が漂う中、ビジネスマンや政治家風の人物たちが、談笑しながらワインを楽しんでいる。しかし、その中を数分探してみるがケマルの顔は見当たらない。
「とりあえず、あのテーブルにいる連中に話を聞いてみよう」
才奨が一歩前に出る。彼はすでに目星をつけたようで、目を細めながら周囲を観察している。
僕は少し躊躇しつつも、才奨に続く形でそのテーブルへと近づく。賑やかな会話の中、僕たちの足音がわずかに響いた。
座っているのは、スーツを着こなした男性たちだ。年齢は様々で、見るからに政治家か、または企業経営者だろう。中でもそのテーブルで一番年齢の若そうな男性が僕たちに気づき、すぐに目を向けてきた。
「おや、お二人とも」その男はニコリと笑った。
「お見かけしない顔だな。何か御用でも?」
「ええ、実は」才奨がすぐに切り出す。
「ちょっとお聞きしたいことがあって。ケマル・バイラルさんに関して、何か情報をお持ちでないかと」
男は少し驚いた顔を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「ケマル氏のことを話すなんて、あまりいいことじゃありませんよ」と、まるで警告するように言った。
「そんなことは承知しています」僕は穏やかな声で返す。
「ただ、今は彼のことがどうしても知りたくて」
才奨は少し遠慮してみせるが、すぐに笑顔で言う。
「別に悪い意味ではないんです。ただ、ケマルさんの動向にちょっと興味がありましてね」
男は一瞬黙り込んだが、僕たちの誠実そうな態度に心を動かされたのか、少しだけ口を開いた。
「まあ、あなた方がそこまで言うのなら、少しだけ」
その時、レストランの入口でベルが鳴り、ドアが開いた。その音に、男は一瞬だけ目を向けた。僕たちも無意識にその方向に視線をやると、ドアの外に立っていたのは、紛れもなくケマル・バイラルの姿だった。整えられた短髪に何もかも吸い込んでしまいそうな瞳。グレースーツをきっちり着こなす様は、周囲の目を引く雰囲気を持っていた。
「ケマルだ」
僕が小さく呟くと、才奨は不意に彼に駆け寄ろうとする。
「ちょっと待て」僕は慌てて才奨の腕を掴む。
「何をするつもりだ?」
「チャンスだろ?」才奨はにやりと笑って答えた。
「目の前にいるんだ。こんな機会、逃すわけにはいかない」
「待てって。落ち着け。こんな大物、簡単に近づく方が危険だ。さっきの男も警告してたろ。まずは周辺の聞き込みをして、奴の外堀から埋めていく方が賢明だ」
僕は冷静になろうとしていた。命を懸けてここにきているのだ。慎重にならざるを得ない。
「そんなことしてもじれったいだけだ。ケマルと話せば、すぐに何かわかるかもしれないだろ?」
才奨は僕の制止を振りほどき、ついにそのままケマルに向かって歩き出した。
「おい、待て!」
僕は思わず叫んだが、才奨は迷いのない歩みでケマルのところへ向かってしまう。あまりにも無謀な行動に僕は一瞬言葉を失ったが、もはや才奨とは運命共同体。後ろをついていくしかない。
僕たちがケマルの前に到達すると、彼はゆっくりと振り返った。その目は鋭く、瞬時に僕たちの存在を認識したようだ。
「誰だ? いや、私の長年の勘で言い当ててやろう。君たち探偵だろう?」
ケマルが低い声で言うと、その場にいたほかの男性たちが一斉にこちらに視線を向けた。そのうちの何人かが、まるで警戒するように僕たちを見つめている。
「どうでしょう? ただ、単なる興味があっただけです」才奨は堂々と答えた。
「ケマル・バイラルという人物に」
「興味か。だが、私に対して興味を持つこと自体、あまり賢明とは言えない」
彼はゆっくりと一歩後ろに下がり、周囲にいる一人に何かを指示した。彼の一挙手一投足がいちいちこちらに緊張を強いてくるようでもあった。
その時、僕は冷静に周りを見渡した。どうやら、ケマルはただの大企業のオーナーではないらしい。何かが違う。この人物には、あまりにも隠された面が多すぎる。何か恐ろしい秘密があると僕の五感が必死に訴えている。
「特段興味を持つのは悪くないが、今は十分に警戒した方がいいだろう。それは君たちのためでもあるのだからね」
ケマルは言葉の端に、微かな威圧を込めた。
◆
「君たち、調査をしているのだろう?」
ケマルが沈黙を破って、低い声で言った。彼の声には、冷徹な響きがあった。
「ええ、ちょっとしたものですが」
才奨が素直に答えると、ケマルは目を細め、無言で僕たちを見つめた。その視線に圧倒されそうになりながらも、僕はどうにか平静を保って言った。
「実は、ケマルさんについて知りたいことがあるんです。あなたの周辺に関する情報が妙に気になっておりまして」
ケマルは薄く微笑んだ。
「ほう。それは興味深い。だが、残念なことに君たちが求めるようなものを、私は何も持ち合わせていないのだよ」
どうしても、この男にはただの民間人の匂いがしない。きっと、彼は自身が持っている情報の価値を知っているからこそ、それを出さないようにしているのだろう。
「いや、多分ご想像されているような意味じゃないですよ」才奨は悪びれずに笑っている。
ケマルは一層目を細めて、しばらく黙った。
「なぜ、そんなに僕たちのことを警戒するんですか?」なるべく冷静に尋ねてみる。
「俺たちはただ、少し興味を持っただけですよ」
ケマルの目が鋭く光った。
「興味で済む話ではない。君たちは今、踏み込んではいけない領域に足を踏み入れようとしている。その自覚はあるのかね?」
その時、突然、テーブルの向こうから声がかかった。
「ケマルさん、お待ちください」
振り向くと、その声の主はさっき僕たちに声をかけてきた男性――先程の紳士たちの一人だった。彼は、今までの穏やかな態度から一転して、険しい表情を浮かべている。
「この二人、ただの探偵じゃなさそうです」その男性が真剣な視線をケマルに送る。
「調査のプロだ。もしかしたら我々の望む探偵たちかもしれません」
ケマルの眉がわずかに動いたが、彼はすぐに冷静さを取り戻す。
その男性がさらに一歩前に出ると、ケマルの周りにいたほかの男たちもじわじわと近づいてきた。僕と才奨はあっという間に取り囲まれ、圧迫感に押しつぶされそうになった。
「何を調べている?」ケマルが、今度は僕たち二人に向かって鋭く言った。
負けじと睨み返すことしかできない僕たちの様子を見て、やがてケマルはにやりと笑った。
「君たちが調べているのは、この国の闇の一部に過ぎない。それが何を意味するか、本当に理解できているか?」
ケマルの目が、僕たち一人一人をしっかりと見据えている。
僕は、言葉を詰まらせた。これ以上近づくと、何かとんでもないことに巻き込まれる気がしてならない。そう思い才奨を見てみると、その顔は「何があっても、一歩も引いてやらん」といった様子だ。
「闇? それが何なのか、いい加減教えてもらえませんか?」
才奨が軽く肩をすくめ、笑顔を浮かべて答えた。「ただの興味本位なんですから」
ケマルは一瞬冷徹な表情を浮かべたが、やがてその目にほんの少しだけ優しさを帯びた。
「普通だったら怖気づくものを。久しぶりにいい暇つぶしになりそうだ。よかろう」
そして、手を振って、周囲の男たちに何かを命じている。
「上の階で待ってもらえるか。少しだけ話してやる」
僕たちはあっという間に別の階のある部屋に案内された。
さっきの一幕で寿命が確実に削られた。あんな思いはもうこりごりだと回顧しながら部屋に入る。そこには簡易的な赤いソファーと小さなテーブルだけが用意されており、まさに殺風景。未だに僕の胸の奥には不安が広がり続けていた。
ケマルが言った「闇」が何を意味するのか、そしてその先に何が待ち受けているのか――まるで、未知の世界へと足を踏み入れるような、そんな気分だった。
重い空気が漂う中、ケマルが姿を現すと、その後ろから別の人物が入ってきた。先ほど声をかけてきた紳士――背が高く、紺のスーツ姿で、見た目は精悍な男性だった。
「彼は私の優秀な部下だ。まずは彼の話から聞け」ケマルが淡々と説明する。
二人が目の前に座り、その男性が冷静に僕たちを見つめた。
「君たちが探しているのは、ただの金や名声ではない。もっと、深いところにある」
彼の目は鋭く、まるでその意図をすべて見透かしているかのような印象を与えた。しかし、その表情に浮かんだのは、冷徹さとともに、何かしらの悲しみを帯びたものだった。
「君たちが追っている真実は、簡単には語れない」
男性が口を開くと、その声は重く、抑えたトーンで響いた。
「それを知る覚悟があるのなら、話す価値はある」
才奨はじっとその男を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「覚悟はとっくにできてますよ。俺たちがここまできた理由を考えたら、それを知らないまま帰るわけにはいかない」
その言葉に、ケマルは微かに目を細めた。彼が何かを考え込むような仕草を見せると、男性は黙って頷き、僕たちにあるものを見せた。
「この国には、長い間隠されてきたものがある」
男性はそう言いながら、古びた地図を広げた。その地図はトルコ国内のある地域を示しており、特に目を引くのは、東部の険しい山脈と、そこに点在する小さな村だった。
「君たちが求めているのは、この地域のことだろう」
「これは……?」
男性がゆっくりと顔を上げて、僕を見据えた。
「この地域には、長い間トルコ国内でも知られざる『危険地帯』がある。だが、それだけではない。そこには今もなお、過去の出来事が色濃く残っているんだ」
「過去の出来事?」僕が尋ねると、男性は一瞬黙り込んだ。
「二十年以上前、ある民族がこの地域で大量に迫害され、抹殺された」
彼の声は静かでありながら、重く響いた。
「それが何だったか、君たちが想像するよりもはるかに大きな出来事だ」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。才奨もその言葉に反応し、その表情は一層引き締まる。
「迫害された民族?」才奨が眉をひそめて言う。
「クルド人のことか?」
男性はゆっくりと頷いた。その頷きは、まるで長い間隠されてきた重い真実を認めるような瞬間だった。
「トルコ政府によるクルド人に対しての大規模な弾圧があった。それは国家の隠蔽された一部であり、今でも多くの証拠が隠されている。しかし、それを暴こうとする者が現れる度、暗闇の中に消えていった」
「それが、俺たちの知りたいケマルさんとどう関係が?」才奨が冷静に問いかける。
ケマルは、男性が語った内容に頷きながら、静かに口を開いた。
「私もその時代に生きていた。そして、私はその真実を知る者の一人だ」彼の声には、悲しみがこもっていたが、どこか冷徹な響きもあった。
「だが、今やあの出来事を知っている者はほとんどいない。それを語る者もな」
ケマルが言っていることはただの歴史ではなく、今なお続く闇の一部であるということだけが今の僕にはわかった。
「でもケマルさん、あなたはその大弾圧を首謀したアフメット・カヤ氏と懇意の関係ですよね?」
そう聞くと、ケマルは顔を少し俯けた。
「それはすでに昔のことだ。私たちの関係は今なお良好と見る者も多いが、実態はとっくに壊れている」
その言に僕たちは驚きを隠せない。それもそのはず。これまでその確度を外したことのない情報屋の彼女ですら、そう思っていたのだから。
「この大弾圧が起こる前、私は彼に忠告した。なぜここまで彼らを嫌うのかと。政治的な思想はあれど、近くでその状況を見続けていればいるほど、同じ人間の所業とは思えない。そう言ったことがある」
ケマルは当時を思い出しているのか、目を覆うような様子で続ける。
「すると、彼は『なら、お前も必要ない』。それだけを言ったんだ。それ以降、私たちは一度も言葉を交わしちゃいない」
「あなたが知っていること、全部話してください」僕は強く言った。
「クルド人の迫害に関する事実を。隠された真実を」
ケマルはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「カヤはすでに死んでいる」
その言葉に、僕たちは絶句した。
「いや、ちょっと待ってください。カヤの動向はつい最近の大臣動静にも記載があるし、現に僕たちもテレビニュースでカヤの姿を見ましたよ」
言うと、そう思うのも無理はないといった顔をした。
「生成AIだよ。政府と全メディアが口裏を合わせて彼の死を偽装しているんだ」
さすがの才奨も処理が追いつかないといった表情で黙っている。何か言おうとしても何も思い浮かばないといった様子だ。
「その事実は巧妙に伏せられ、国民のごく一部にしか知らされていない。なぜかわかるか? 暴動が起きるからだよ。この国にはカヤに心酔し、その政治思想にゾッコンの者も多い。だが、本当の彼はすでにこの世の者じゃない。暗殺されたんだ」
「じゃあ、あの家を放火した犯人って、一体誰の指示なんだ?」
僕は独り言のように呟いてしまう。せっかく真実を掴みかけていた気がしたのに、それは全部幻だったということか?
「もし君たちが本当にその真実を追い求めるのであれば、一つだけ教えておこう。あの迫害事件には、現在も強い力が働いている。あの時代に加担した者たち、もしくはその血を引く者たちが今も生きていて、この国を支配しているんだ」
「それが何を意味するのか、理解しているか?」部下の男性が補足した。
「君たちが調査を続ければ、君たち自身もその渦中に巻き込まれる可能性があるということだ」
僕は言葉を失った。真実を追い求めることが、単なる正義感からくるものだけでは追いつけないという現実を突きつけられたようだった。
事件解決をしたいといえど、これまで携わってきた事件とは比較できないほど大きなヤマ。僕たちはこれを本当に乗り越えられるのか。
「後戻りなんてできない」才奨が悔しさを滲ませながら、しかし冷静に言った。
「ここまできて、引き返すことはできない。知りたいだけなんだ。この背後にあるものを。ただ一つの真実を」
ケマルはしばらく黙って僕たちを見つめた後、再び言葉を口にした。
「カヤが生前接していた人物を徹底的に洗い出せ。そして、カヤが死ぬ間際に得た情報を探し出すんだ。私はすでに何年も前に縁が切れているから、目星すらわからん」
僕と才奨は自然と目を合わせた。その瞳の奥には相変わらず情熱が宿っている。この事件を追うか否かは、言葉にするだけ野暮ってことだ。
「君たちの登場をどこかで待ち望んでいたのかもしれない」
ケマルは僕たちの様子を見て言った。その言葉には、かつての旧友への思いが滲んでいるようにも感じた。
「くれぐれも気をつけろ。カヤの元側近には血の気の多い者もいると聞く」
ケマルは警告を続ける。まさにこれは、単なる脅しではない、何かもっと重い現実が含まれているのは間違いなかった。
「覚悟を決めたら、行動を起こせ」ケマルはそうして、立ち上がった。
「私みたいに後悔しても遅い。真実を求める心。それがそんなに大事なら、決して忘れるな」
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