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飼い慣らされたハヌッセン

物語を書く端くれとして、また純粋なイチ視聴者として面白そうなテレビドラマを探す習慣のある僕だが、この夏最も惹かれたのがTBSで放送されていた『笑うマトリョーシカ』だ。
 
原作は早見一真の同名小説。名門高校の同級生として出会い、その後将来を嘱望されるほどの政治家になった清家一郎と、彼の有能な秘書として傍に仕える鈴木俊哉の奇妙な関係を描く。原作では清家が主人公だが、ドラマでは鈴木周辺を取材していたジャーナリストの父を不可解な事故で亡くした、新聞記者の道上香苗を主役に据える。

道上は父の死の真相を追ううちに清家と鈴木の関係に目をつける。国民からの人気はあるものの、自らが抱く確固たる国家観や推進したい政策などがない、いわば中身の空洞な清家を裏で操る人間こそ父に手をかけた犯人、またはそれに近しい人物だと確信し、その真相に迫っていく。
 

作中では、実在した人物の名前が幾度となく登場した。ドイツ民族至上主義者として、そして、ありとあらゆる権力を濫用した独裁者の典型例でもあるアドルフ・ヒトラーと、ヒトラーお抱えの預言者だったエリック・ヤン・ハヌッセンだ。

ヒトラーに出会う前のハヌッセンは、ヒトラーの主導するナチ党の熱烈な支持者であったとともに、いくつもの舞台を満員にするほどの手品師でもあった。人気を得ることで政界とのパイプができ、やがてヒトラーとも出会う。そして、自らの期待するヒトラー像を盛り込みながら効果的な指南をし、ヒトラーをカリスマのように仕立て上げ、強烈な大衆扇動に一役買っていた。つまるところ、ヒトラーのブレーンがハヌッセンだったということになる。


人はその人が近しい間柄であればあるほど、自らの「こうあってほしい」をつい期待してしまう生き物だ。
子に対する親の願望、恋人や友人に抱く様々な理想。相手を尊重しているはずだと信じるものの、その心中に抱えるエゴをそのままなかったことにできる人は、果たしてどれほどいるのだろうか。
 
他人に期待することほど、徒労に終わることはない。
最近はそんな側面をようやく持ち始めることのできた僕ではあるが、それでも半ば勝手に人に期待してしまう自分がいる。ひとりで生きていくことが難しいこの社会では、周囲と協力し合いながら生活を営むほかない性質上、やはりそうした理想は自然に積み上がっていく。
 
もしかしたら、そんな過程のある人間の方が、精神衛生的には健康なのかもしれない。
周囲に一切の期待をせず、自らの力だけで道を切り開いていくのはかっこいいが、そんな強い人がゴロゴロいたらたまらないし、そんな人物に僕は到底なれる気がしない。だからこそ、理想と乖離した現実に出くわすと惜しげもなく愚痴を吐くし、どうしようもなく嫌気の差すことだってあるのだ。
 
もちろん、ハヌッセンのように誰かを裏で操り自らの意のままにしたいという願望はない。
そもそも、どんなに純粋な人に対してもそんな所業を完遂できる能力がないのがこの僕だ。相変わらず心の内では小さなところばかりで「この人にはこうあってほしいな」という想いを抱える日々だけど、でも、それがうまく達成され期待が成仏することなどほとんどないのだから、これからも心の中で僕自身のハヌッセンを飼い慣らすしかないのである。
 
でも、たまにはお互いのハヌッセンを見せ合ってもいいのかもしれない。
「えっ!? お前、そんなハヌッセン的なこと考えてたの!?」だとか、「ほう、そうきたか! 腹黒だな、君のハヌッセンは~!」みたいなことを笑って言い合えるのかも。
 
……こんな馬鹿馬鹿しい締めを、本記事を書き始めた当初は微塵も想定していなかったが、たまにはこんな終わり方もいいかもしれない。もし読者に期待された文章でなかったとしても、僕はこのまま行く。読者の心に棲む小さなハヌッセンへの、ちっぽけな抵抗でもある。

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海人
皆さんから大事な大事なサポートをいただけた日にゃ、夜通し踊り狂ってしまいます🕺(冗談です。大切に文筆業に活かしたいと思います)