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君に贈る色

「色褪せない想い出って、ありますか?」
 
携帯ショップの店頭。まだこの仕事を始めたばかりの私は、ついそんなことを口走っていた。
取り繕う時間もないほど、お客さんの顔には「?」が浮かんでいる。一刻も早く、この発言の意図を伝えなければと、本当はない原因をこねくり回す。しかし、とっさの言葉にまともな理由など思い当たるわけがない。そして、焦れば焦るほど考えがまとまる気配もない。
 
「ほ、ほら、あれですよ。スマートフォンで写真撮ったり、動画撮ったりするじゃないですか。解約する際にはそうした想い出ごと消されたりしてないかなぁ、なんて」
 
さりげなく相手の様子を窺うと、苦し紛れの私の弁明を呆れ顔して聞いていた。
 
「事前にパソコンにバックアップとったので大丈夫です」
 
お客さんは早口でそう言った。
ああ、やってしまった。これでまた“お客様アンケート”に散々なことを書かれる。そんな予感しかしなかった。


「柚ちゃん、また余計なこと言っちゃったんでしょ?」
 
そう肩を叩くのは、職場の先輩で、いつも気さくに話してくれる光季さんだ。
 
「はい。つい……」
 
「気をつけなよ~。まだ新人って枠だからいいけどさ、こういうのは癖みたいなもんだから。いくら仕事ができても、余計な一言ってのはまずいよ。ね?」
 
そうして小さくウインクすると、光季さんは腕時計を一瞥し、足早にスタッフ用の廊下を走る。本当は走っちゃいけないのに、光季さんにだけは許されているような、不思議とそんな行為のように思える。

正直すぎる性格からか、どの職場でも白い目で見られてきた私。この仕事場でも似たようなものだったけど、それでも光季さんのおかげで、私は何とか仕事を続けられている。私にとって、そういう人に出会えたのは幸運以外の何物でもない。


「なんで待ち受け、真っ黒なんですか?」
 
その数時間後。
「解約したい」と手渡されたスマホの画面を見た瞬間、性懲りもなく私はそんなことを口にした。思わず口に手をやるが、一度声にしてしまった言葉は引っ込められない。宙に浮くのではないかと思うほどの間があった後、私は立ち上がり頭を下げた。
 
「ごめんなさい! 余計なことを言いました。黙って解約手続きを進めますので、どうかお許しください!」
 
顔を上げてしまえば最後、お客さんの不審がる顔か、辛辣な一言が待ち受けているのだろうと諦めた表情で前を見ると、お客さんはこちらを見ることなく呟いた。
 
「余計とか、無駄とか、世の中そんなのばかりなんで。気になさらずで」
 
あっけない返答に思わず、思わず「えっ」と声に出してしまう。
薄くかかったサングラス越しに、不器用そうに別のスマートフォンを操作している。見た目は20代後半から30代前半のように見えるが、その年代でデジタル機器を苦手そうにいじる人は最近見ない。
 
「これじゃ店員さんのフォローになってないか。僕の方こそ余計なことを言いました」
 
暗めの茶髪が少しだけカールしていて、それがお洒落なのか寝ぐせなのかわからない。
全体的に落ち着いた色合いの服装だけど、すらっとした体型で童顔寄りだからか、「大学院生です」と言われても不思議と納得してしまいそうな風貌だ。
 
「実はそのスマホ、僕のじゃないんですよ。ほら見てください、これ」
 
そう言って委任状を差し出しながら、それと引き換えに彼は私の手からスマホを取り、やはり苦手そうに操作し画面を見せてきた。
どうやら画像フォルダにアクセスしたらしいその画面には、何枚もの写真が並んである。しかし、例えば外食の写真とか旅先で撮影したと思われる写真が白黒だった。
 
「どうやら僕の兄、数年付き合っていた彼女に振られちゃったらしくて。写真を消すのが一番いいって本人もわかっていたようなんですけど、そんな勇気は出なかったらしく。挙句の果てに全部、想い出をモノトーンにしちゃったんです」
 
見せてくれている画面を触り、スクロールさせていく。彼の言う通り、画像編集アプリで加工でもしたのか、恋人と思しき女性とのツーショットを含め、フォルダにある写真すべてに色がない。
そして、さっきの反省はどこへやら、私はやっぱり、思ったことをそのまま口にしている。
 
「本当だ。これなんかパッと見お高そうなランチですけど、なんだかとっても味気ないように見えますね」
 
「そうそう。色がなくなるだけでだいぶキラキラした感じが薄まります。やっと想い出が色褪せたって喜んでいたのも束の間、一昨日かな。駅の階段で手を滑らせて、画面割っちゃったみたいで」
 
「それで、お客様が代理で解約の手続きを?」
 
彼はコクっと頷く。サングラスの内にある瞳が黒目がちで、内心ドキドキしている自分がいた。そして、その顔を私はまじまじ見てしまっているが、彼に気にする様子はない。
 
「もちろん最初は機種変更を勧めたんですが、プライベートではしばらく誰とも連絡を取りたくないらしくて」

彼は小さなため息をつく。それはまるで塞ぎ込む兄に対する感情がぎゅっと凝縮されているかのようだった。

「そうだ。今思いついたんですが、ただの解約になると名残惜しいので、兄の電話番号は僕の2台目の携帯として使わせてください。ちょうどサブ携帯も欲しかったし」
 
「かしこまりました。後ほど携帯番号の移行手続きをさせていただきます。でも、そんな時にお客様を頼るなんて、よほど信頼されているんですね」
 
兄弟仲がいいことに憧れがあった。
そもそも私は一人っ子なので、もし上か下に兄弟か姉妹がいたらと想像すると、それは漠然とした憧れのようなものだった。
 
「そうだったらいいんですが。多分ですけど、兄は忙しい会社員なので暇な僕にやってもらいたかっただけかなって。それか、そんな体力すら残されていないかの二択ですよ。実は昨晩、もう何もかもやる気を失ったーって珍しく電話がかかってきたんです。あっ。今、店員さんに解約してもらっているこの携帯からね」
 
そう言い、持っているスマートフォンを小さく揺らす。「お仕事の邪魔をしました」と申し添えて、スマホを私の手にそっと戻した。
 
「なるほど。きっと、お兄様も疲れてしまったんでしょうね。画面と一緒に、心も壊れちゃったのかな」
 
「そうかもしれません。一生懸命想い出を書き換えようとしても、やっぱり忘れられない。忘れようとすればするほど、ずっとそのことばかり考えている、みたいなね。そうして結局、心に限界がきちゃったのかも。人間って、本当に難儀なもんですよ」


実は昨日、変わったお客さんがいて。
 
休憩室で自前の弁当をつつきながら、私は光季さんにその話をしていた。彼女に振られた矢先、スマホの画面を割ってしまった不憫な兄の携帯を解約しに、この店を訪れた彼の話を。
 
光季さんは「へぇ」と相槌を打ちつつも、その目線は自分のスマホに目を落としている。最近できた恋人にゾッコンのようで、仕事中はともかく休憩中は私の話なんか聞いてくれちゃいないのだ。
 
そんな光季さんには話さなかったが、実はあの彼とは続きがあった。
解約に至るまでの話の後に、私は人が良さそうな彼に興味を持ち、その身の上話を聞いてみた。どうやら彼の家族には多額の借金があって、両親と絶縁状態の兄とは違い、彼がその大半を肩代わりしているため、いつも首が回らない状況らしい。

「本来、兄は幸せ者のはずなんですよ。僕とは違い、いい会社に就職して贅沢な暮らしを送っている。本人の努力の賜物だと頭ではわかっているけど、そもそも努力のできる環境に置かれていたからだと思います。同じ兄弟でも、僕にはそれが与えられず、その代わり親の借金だけが与えられた。一方、兄は親と絶縁したのを理由に一銭も払おうとしない。そのことに無性に腹が立つんです」

「隣の芝生って、たまらなく青く見えることありますよね。もしかしたら、それ以上にその人が自分のことを羨ましく思っているかもしれないのに」

そう言うと、彼はこちらをまっすぐ見た。
何か気の障ることを言ってしまったのか。いや恐らく言っているのだろうと自覚しながらも、今の私の役割はその思いを残さず彼に届けることだと考え、遠慮なく言葉を続けた。

「幸せって、形も色も様々だと思います。自分の望む幸せを身近な他人が持ち合わせていることだってある。私も、空気が読めてそつなく人間関係を作れる人を羨ましく思うひとりです。でもそんな時、私はその人の“不足”をつい探してしまうんです」

「不足?」

「はい! この人は私が持つアレやコレは持ち合わせていないよね、っていった風に。お客様の場合だと、借金を肩代わりしているけど、ご両親との繋がりがある。借金を返すために日夜奮闘しているのですから、ご両親はさぞかし感謝されているでしょう。一方お兄様は、いい暮らしはできているけど、お客様以外の信頼できる身内がなく、そのお客様にも内心呆れられ、ついには恋人にも振られる。そして、今は人間不信」

「僕ら兄弟の場合は、経済的豊かさと精神的豊かさが各々足りてないってことですか」

「そうです!」と、今度は私が頷いてみせる。頷いた直後、私は今かなり失礼な同意をしているなと思ったが、その反応を見ると彼の口元はクスッと笑っているように思えた。笑ってくれているのならまあいいか!笑
それにこの話題だと、彼が私の目を見続けてくれるから、私はとにかく言葉を紡ぐ。この時間がなるべく続け! と心の奥で願いながら。

「人間って、“客観的”を意識してみても、結局は“主観的”にしか物事を見れないと思うんです。そうしないと、自分の感情に嘘をつくことにもなるから。だからこそ、隣の芝生が青くなってしまうわけで」

「“社会の正しさ”と“自分の納得感”なんて、一致しないことの方が多いなと僕もよく感じます」

「それなら、主観から見える世界を少しでも彩ってみたくないですか? そうしたら、隣の芝生の色なんて気にならなくなるかもしれませんし。それが難しいなら、せめて、その主観をふちどる額縁だけでも」

小刻味のいい会話のラリーが続いた後、ふと沈黙が訪れる。
その時、さっきまでは夢中で喋っていたけれど、私は今さらになってあることに気がついた。それは彼の目のことだったが、不確かな根拠でもあったので声には出さないようにする。
そんな彼は私の言葉をゆっくり咀嚼するように黙っている。そこには重たい雰囲気などはなく、あくまで受け取った言葉たちを心の内で再読してくれているような、不思議な時間が流れていた。

職場でこんなに私見を語ったことがあっただろうか。きっとないだろうし、この先もまずないだろう。
そして、それはある種の議題を終え気楽な雑談をするかのような感覚で、頭に過った疑問をぶつけてみる。
 
「多額の借金があるって言ってましたけど、身に着けているものは高価に見えますね。そのサングラスとか」
 
「ああ。これ?」
そう言って、何気なくサングラスのふちを触る。本当はその瞳をじかに見たかったのだけど、現実はそううまくはいかない。
 
「ファッション用のサングラスってかけ始める前はどうなんだろうと思っていましたけど、かけだしてからは良いものだなって思えたんです。色に溢れる世界を一瞬にして脱色してくれるんですから。今ではすっかり、コイツが僕の相棒みたいなものです」
 
すると彼は、「回答になってないですね」と慌てた様子で話を元に戻した。
 
「これは貰い物なんです。羽振りのいい友人がいてね。古くからの付き合いで、悪友みたいなものかな。努力をしてこなかった怠惰な僕にも、欲しいと言ったものは何でもくれるんです」
 
「じゃあ借金も、そのご友人に返済してもらっちゃえばいいんじゃ」
 
意地悪く言ってみると、彼は「ははは。店員さんって本当に面白いな」と微笑む。
「実は今、絶賛借りている最中なんです。借金の借金というやつですよ。これはもう救えない」


そんな風に昨日起きた、私にとっては非日常的な彼との時間をひとりで思い返していた。あの時間は果たして何だったのだろうか。
そりゃ、「解約手続き中にお客さんとちょっとした話で盛り上がった」という括りになるのだろうけど、なんだかそれだけではないものがそこには確実にあった。今の私には、それが何だったのかはまだわからない。

すると、いつもはのんきな昼下がりにすぎないこの時間帯に、殴り込むかのような威勢で大声を上げている男性の声が聞こえた。

何事かと思い、休憩室を飛び出して店頭に戻る。恰幅のいい、40代半ばくらいの高級そうなスーツを着た男性が、一足早く昼休憩を終え仕事に戻っていた光季さんに詰め寄っている。
 
「お客様、どうか落ち着いてください」
 
「だから、俺の携帯を勝手に解約したのは誰だって聞いてるんだよ!」
 
困った顔で逡巡する光季さんが私に気づくと、こちらを手招く。すぐさま駆け寄ると、光季さんは小声で言った。
 
「柚、さっきの昼休み、昨日代理で解約を申し出たお客様がいたって言ってたよね。それって、この人?」
 
そうして、光季さんは目の前の男性のものであろう運転免許証を見せる。
昨日の委任状に書かれていた名前を思い出す。確かに一致していた。ということは、この人が昨日の彼のお兄さん!? うーん。あんまり似てないな。
というか、光季さん、ちゃっかり私の話聞いていたんだ。やっぱりこの人は抜け目ない。「そうです。ここは引き継がせてください」と光季さんに返すと、私は目の前の男性に居直った。
 
「お問い合わせのスマートフォンですが、昨日弟様からお申し出がありましたので、解約させていただきました」
 
「はあ? 何を言っているんだ? 俺は身内に『自分の携帯を解約しといてくれ』だなんて、一言も言ってないぞ!」
 
依然強気な態度に思わず狼狽しかける。
これは新手のクレームなのか? と頭の片隅で考えた。もしくは、恋人を失ったことによる、一時的な記憶障害?
どちらにせよ、店側である私たちは事実を粛々と伝えるしかない。もし悪質なクレームなら、なおさら毅然とした対応が不可欠だ。
 
「何をと言われましても。数年お付き合いされた彼女さんに振られて、思い出の写真全部をモノトーン加工して忘れようとしたけど、不注意で画面を割っちゃって意気消沈しているお兄様のために! わざわざ! 弟様がこちらにいらしたんです!」
 
いつしか私は、昨日の彼の肩を持つような口ぶりになっている。そして、自らに向けられた威圧的な態度が感染したのか、私も普段は見せない声で荒げていた。
 
「そうか。わかったよ。全部言えばいいんだろ?」
 
その様子を見てか、男性は諦めたかのような顔で、やがてゆっくりと息を吸って吐いた。いわゆる深呼吸というやつだ。でも、なんだか嫌な予感がする。私の中の全細胞がそう言っている。
そして、目の前の男性は耳を塞ぎたくなるような、外にまで聞こえているのではないかと思えるほどの大きな声を張り上げた。
 
「彼 女 と は 今 な お 付 き 合 っ て い る し !! も ち ろ ん 写 真 を 白 黒 に し た 覚 え も な い し !! そ れ に な に よ り !!!」
 
「……な、なにより?」
 
その勢いに気圧されながらも、瞬間ごとにボルテージが上がっていくその顔に、私が火に油を注いだ張本人であることを自覚する。しかし、そこで間を置く男性の言葉を待てず、茶々を入れるようについ言葉を急かしてしまう。
 
「俺 は 三 人 兄 弟 の 末 っ 子 !! 弟 は い な い !」


どうやらSIMスワップだったらしいよ。
 
あの恐ろしい形相と、つんざくようながなり声が未だフラッシュバックしていた一週間後の昼休み。いつもの休憩室で、私は光季さんからそう聞いた。

他人のスマホを勝手に解約、同じ電話番号で他社機種に契約をしたうえでSIMを乗っ取り、その中にあるネットバンキングのアカウントに不正ログインし自らの口座に有り金全部を送金する。そうした手口のようだ。
 
男性から被害届を受けた警察が銀行に送金先口座の開示を要求、銀行側もそれに応える形になった。が、それが架空口座宛の送金で、第三者経由での海外送金でもあったため足跡を辿るのが難しく、捜査は困難を極めているようだ。

少しでも手がかりを掴もうと、警察は「犯人像を詳しく教えてくれ」と連日店に押し寄せた。私も真摯に彼の容姿や話していた内容を伝えていたせいか、ここ最近はだいぶくたびれてしまった。
 
「何スワップでも何でもいいですけど~わたしゃ、どっと疲れましたよ……光季さん、今度美味しいものでも奢ってください~」
 
片頬を机にくっつけ、二席隣に座る光季さんにねだってみる。休憩室に二人しかいない時は大体、こんな具合で光季さんに甘えてしまうのが私の癖なのだ。
 
「まったく。この前奢ってあげたばっかりじゃん。そもそも、柚、犯人見たんでしょ? どんな風だったの?」
 
そう言われ、彼の容姿を思い出す。パッと見、それはいい男風だったけど、なにより気になったのは彼の瞳にある影だ。あれはなんて形容すればいいのか。私の言葉の辞書だけでは適切な表現が難しい。
 
「色のないように見えて、本当は色のある自分を見てほしい。そんな人でした」
 
「……は?」
 
光季さんは反射的に言い、「あんたは哲学者か?」とか言いながら、「外見だよ。若かったのか、とか」と、噛み砕いて再度質問する。
 
「ちょっとカッコよかったです。飄々としているのが様になるくらいには」
 
「もしかして、惚れてた?」
 
いたずらそうに笑う光季さんが、なんだか妙に恋愛上手な女子っぽく見えてしまう。態度に100%出てしまう性格なのだから、私はらしくもなく微笑み、それには返答しないで弁当箱をしまうと、慌てて休憩室を出た。


それからというもの、私が聞く限り、彼のその後の足取りに進展はなく、気づけば10年が経っていた。
 
あの日から2年後、当時私がいた店に携帯の解約手続きをしに訪れた今の旦那と結婚。その翌年には東京を離れて、旦那の故郷でもある長野に移り住んだ。
もう結婚8年目を迎えるけど、周囲に妬かれるほど未だにラブラブ。素朴で、誰とでも悪気なく接することのできる旦那は出会った頃から何ひとつ変わっていない。

ちなみに、この前ふと、私のどこがよかったのか聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
 
柚ちゃんを見てると、なんだかこの世界も悪くないなって思えたんだよ。まだ何にも染まっていない人が目の前にいる感覚というか。その真っ白な柚ちゃんを自分色に染めてしまおうと思う人が現れる前に、その色を守ってみたいと思えたんだ。
変な話かもしれないけど、これは本当だよ。それと、多分そんな風に思った人は、ほかにもたくさんいたような気がするんだ。

学生時代の友人たちも次々に家庭を持ち、今は育児で大変な様子だけど、私たちは稼ぎの少ない夫婦だから「子どもは持たない」と二人で決めた。
もちろん、その結論に義理を含めた両親からは当初色々と言われたものだ。でも、経済的な事情以外でも、ずっと二人で支え合って生きていきたいことを丁寧に伝えた。時間はかかったけど、最終的にはわかってもらえた。それからは精神的にも楽に生活できている。

たとえ子どもがいなくても、私たちが持つ色を日々掛け合わせて暮らしていく。それがありふれた色であってもいい。それが私たちだけの色なのだから。今の私は、そう思っている。


そして今。私は再び携帯ショップの店頭に立っている。
この店に入った頃は相変わらず失言ばかりで、思ったことをそのまま口にしてしまう性格だったのに。雇ってくれたこの店には感謝してもしきれない。だから、今日も働いて恩を返す。私の人生はきっと、その繰り返しだ。
 
携帯ショップの店員が到底向いていないだろう私にとって、この仕事を続ける理由はもうひとつある。あの日の彼に再会することだ。
まだ東京にいた頃。当時の店を辞める際、事務職にでも転職しようかとも思っていた。でも、なぜか頭から離れなかったのは彼。10年前、本当は知りもしない男の偽りの弟として来店し、私が解約手続きをした、あの人。
 
れっきとした犯罪者なのは重々わかっている。未だ逮捕されていない彼に会いたいなど、世間には口が裂けても言えない。それに、事件に巻き込まれて当時はかなり疲弊したし、あれからしばらくは犯罪の片棒を担いでしまったかのような罪悪感にも襲われた。

それでも、どうしても忘れられなかった。
あの日、彼の目の奥に秘められた哀しそうな表情が、どうしても頭から離れなかった。

当時目を奪われた淡白で色白な見た目ももう40歳前後だろうし、以前よりは代謝も落ちているから、もしかしたら太ってしまって今や見る影もないのかもしれない。でも、叶うならもう一度、ゆっくりと話してみたい。その時ばかりは本当の心同士で。それは今になっては、男女としての感情ではない何かも含まれているような気がしてならなかった。


今日も朝になり、いつものように出勤する。

「おはようございます!」

何人もの後輩たちに元気よく挨拶される。
最近は入社歴も重ねてきたせいか、店員たちをまとめる立場として、後進の育成に力を入れている。未だ店頭に立つこともあるけれど、それが今の私の主な仕事だ。
 
今日もお客さんの入りは上々。
軽く昼食を取っておこうと休憩室に入ると、一人だけ先にいた若い子がこんなことを言ってきた。
 
「柚さん聞いてくださいよ~さっき変わったお客さんがこられて~」
 
自前らしきお弁当の中身を細かく口に運び、大きな口を開けて喋っている。
この子はあまり行儀はよくない。でも、元気な性格が気に入って、周りの反対を押し切って私が採用を出した子でもあった。

「変人って意外と世の中多いからね。どんな人だったの?」
 
「それが弟のスマホを解約しにきた方だったんですけど、その方の話が意味不明だったんですよ~。この手続きが終わったら、昔から付き合っている悪友とも関係を切るんだ、って」

どこか懐かしい言い回しに、私はまさかと思う。「それで?」と、彼女にその先に続く言葉を急かしてしまうあたり、私も成長してないなと不甲斐なく思った。

「僕には兄弟まがいな人が数え切れないほどいたんだ、とも。それって奔放な夜の経験の自慢かと思いましたけど、深くは聞きませんでした。確かに、ちょっとイケオジでしたけど」
 
ハタと何かに気づいた様子を悟られぬよう、私は最大限態度に出さないように踏ん張る。相変わらずでもあるし、なにより今日まで元気だったんだ。そのことがわかって安心する。押し寄せてくる様々な感情は、この時ばかりはとりあえず飲み込むことにした。
 
「明日のニュースはちゃんと見ておかないとね」
 
「えっ。なんでですか? もしかして、やっぱりソッチ系の犯罪者なんですか!?」
 
「いやいや、あくまでもこっちの話。休憩13時まででしょ? さ、そろそろ時間!」
 
そうして私は立ち上がり、後輩の背中を優しく押した。「きゃー怖い怖い」と冗談みたいに言いながら、そそくさと弁当箱をしまい、彼女の後ろ姿はドアの向こうに消えていく。
 
私もいつしか、清濁併せ呑む世間の色に染まっていた。若い頃よく口をついて出た余計な言葉は、ここ数年はめっきり言わなくなったし、配慮のないストレートな物言いは人をひどく傷つけてしまうことを、痛いほど思い知ったからでもある。
 
でも、たとえ以前の私じゃなくても、やっぱり彼に会ってみたい。明日、もしかしたら新聞やニュース番組で彼の現在の顔写真なんかが報道されるかもしれないけど、それは見ないでおこうかな。想い出は美しいままで。こんな気持ちも、世間には到底言えないことだろうけど。
 
そんなことを考えながらコンビニのサンドウィッチを食べていると、さっきの後輩が小走りに休憩室に戻ってきた。

「こら。走っちゃダメだって。どうしたの? なんかトラブル?」
 
私の注意には耳を貸さずに、というか聞こえていない様子だった。少し青ざめた様子で、彼女は何かが書き込まれた用紙を手渡してくる。
 
「お客様アンケートにこんなのが……多分、柚さん宛です。中身は怖くて読んでないですけど、委任状の筆跡と一緒だったんで……」

その手は小さく震えている。ああ。なんか勘違いしてるな、この子。ますます昔の私みたいだよ。

「実は、さっき話したお客さんが柚さんを指さして、名前を教えてくれって聞いてきたんですけど……嫌な予感がしたんで断ったんです。だからこれ、間違いないです」
 
用紙が私の手に渡ったことを確認すると「それじゃ」と小さく手を上げて、やはり小走りで姿を消す。
以前の私そっくりで、敬語があまり得意でないことが女性の多いこの職場では毛嫌いされているけれど、私はどうしても彼女を嫌いになれない。もしかしたら、あの頃の光季さんも同じような気持ちだったのかな。
 
そんな感慨にふけっていたら、13時のチャイムが鳴った。私もあと10分で戻らないと。
焦りつつも、今手にしている紙に彼からのメッセージが書かれていると思ったら緊張してきた。

彼は私に向けて何を書いたのだろう。自分を落ち着かせるために深呼吸をする。体も心も深呼吸。
一旦時間のことは忘れてみる。そして、心の水面に波風がなくなったことを確認すると、私はあの日から今日に至るまでの答え合わせをするような気持ちで、そっとその二つ折りの紙を開いた。

 




 
いつかの店員さんへ
10年前、店員さんを巻き込んでしまった、サングラスの客です。今さら遅いですが、その節はすみませんでした。

僕は生まれつき弱視でした。10年前は立場上嘘ばかり言いましたが、あのサングラスはファッションでもなんでもありません。こればかりは余計な嘘を言ってしまいました。
 
でも、恥ずかしいことに借金については本当です。悪いことばかりして借金は全部返しました。この目も誰かが稼いだお金を使って、ある程度は視力を取り戻せました。
欲しいものは何もかも手に入れたはずなのに。長年の習慣で詐欺がやめられなくなっていた時、偶然店員さんに再会しました。本当は見かけただけなんですけどね。

他人の想い出を八つ当たりみたいに勝手に塗り潰して、お金もたんまり盗んで。それが僕の生き方でした。そして、誰かを騙すような嘘ばかりついていたら、次第に他人全員の発言を疑ってかかるようになっていました。
それでも、あの日の店員さんの疑う余地もない言葉だけは、あの頃の僕に向けられた慰めのように思えて。
 
相変わらずまっすぐな人かなと思っていたんです。でも、偉そうに聞こえるかもしれませんが、大人になったんですね。
今日その姿を見て、店員さんから見える世界にはたくさんの色で溢れていることを知りました。だからあの頃の、何もかも黒塗りしようとする僕すらも受け入れてくれたんですね。
 
そろそろここから抜け出さないと。そう思わせてくれたのは、やっぱり店員さんでした。
店員さんの芝生は誰が見ても青い。色の乏しい僕ですら、その色ははっきりと見えるんです。




 
10年前の彼の声で文章が再生された。
私にとってはあっという間の10年だったけど、彼にとってはどんな10年だったのだろう。

本当だったら、直接彼の目を見て話したかった。光を湛えたその瞳を見てみたかった。
よく見えるこの世界は、彼の目にどう映ったのだろう。もしかしたら、あまりの眩しさに目を瞑ったり、見たくないものまで見えてしまって辟易したかもしれない。でも今の彼なら、これまでの過去と向き合いながら、その中を歩んでいくだけの力があるはず。私はそう信じている。
 
まだ整理はついていないけど、この仕事をやってきてよかったなと思える自分がいた。疎外感ばかり味わってきた人生で、数少ないけれど私を必要だと言ってくれた人はみんな「君は何にも染まってないね」と言ってくれた。

本心を隠すことが苦手で、いつも周りと真っ向からぶつかってしまう性格に損をしてきてばかりだった。でも、そんな自分を受け止めてくれる人がいたことは、これ以上ない幸せだった。今の私はそんな人たちがくれた色が混ざり合ってできている。そして、それはきっと、誰も持っていない私だけの色なんだ。


柚。すっかり様になってるね。
 
店頭に戻るやいなや、懐かしい声がする。
光季さんだ。メールなり電話なり、これまでも途絶えなく繋がりはあったがお互い忙しく、こうして顔を合わせたのは実に数年ぶりのことだった。

その手に繋がれている小さな手は8歳になる男の子。あの当時、早々に別れるだろうと密かに思っていた恋人との子だ。
 
「わあ、光季さん! ご無沙汰です! 光一くんも大きくなったね!」
 
すると、光季さんの後ろに隠れていた少年が顔を出した。光季さんに促され、「こんにちは」と小さく呟いた。
 
「長野に観光に来ててさ。今日東京に帰るんだけど、その前にこの子の携帯の下見をと思って」
 
「えっ? さすがに早くないですか!? まだ小学二年生だよね?」
 
そう聞くと少年は頷き、いたずらな笑顔を浮かべる。顔をくしゃっとさせて笑うのは光季さんそっくり。赤ん坊の頃から知っているから、なんだか親戚の子みたいで、相変わらず可愛い。
 
「まったく。あたしの前では本音ばかり言っちゃって。来月から隣駅の塾に通うことになったから、用心のためにね」

光季さんは微笑んでいる。仕方のない妹だなぁ。そんな眼差しを勝手に感じる。
 
「あらあら、そうでしたか! いやぁ、なんだか光季さんの前だと昔に戻っちゃうみたいで。よし、じゃあ光一くん、とびきりカッコいい携帯買ってもらおう!」
 
そうして子ども用携帯の商品カタログを取り出し、席へと二人を案内する。
未知なる機器を前に飛び跳ねる少年と、それを温かく見守る母。その光景は、あの頃は想像すらしていなかった、新しい色をした未来だ。

今この瞬間も、いつかは何色かの想い出になるのかもしれない。その時、私は心から笑えていられるのだろうか。
らしくもなく感傷的な気持ちになってしまったから、思わず胸ポケットにしまってある、初めて嬉しいことが書かれたお客様アンケートに手を伸ばす。その紙には微かに、彼の温もりがまだ残っているような気がする。

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海人
皆さんから大事な大事なサポートをいただけた日にゃ、夜通し踊り狂ってしまいます🕺(冗談です。大切に文筆業に活かしたいと思います)