会食恐怖症のはじまり 4
自分の異変に気付きながらも、誰にも相談することができなかった。
病院沙汰になったときは、さすがに母も心配してはいたが
まさか娘が、精神疾患になろうとは思いもよらない。
私が子供の頃はネットはおろかPCですら一般家庭には
そうそうあるものではなかった。
現代のように、症状や病院について調べることは簡単ではなかった。
そうこうしているうちに、会食恐怖症の症状は進んでいった。
家族との外食も辛いとなると、家族旅行や遠出も困難になった。
どこへ行くときも、食事のことが不安で仕方がなかった。
食事はどこで、どんなものを食べることになるのだろう。
残したらどうなるのだろう。怒られるのだろうか。 実際に、父親には食べ物を残すことに対して注意されることもあった。
気にすればするほど、旅行前日から吐き気や気分の悪さを感じるようになった。
この頃は、家で食べる食事も必死だった。
私自身も、食べられるようにならないといけないと思っていたからだ。
母は、最近ちゃんと食べられるようになってきたから
給食も頑張りなさい、背が伸びたらあの担任のおかげじゃないの、 なんて言うのだから、苦しんでいる私は、拍子抜けだ。
これが当時の母なりの愛情だと言われても受け入れ難い。
小学校4年生の1年間が終わった後の給食の時間は、
修学旅行欠席の件以外は比較的、穏やかに過ごせたように思う。
「残しちゃう子は、少なめに盛っていいよ」
という方針の担任になったのだ。
次の学年の担任はどうか給食を残しても許してくれる人で
ありますように、ということだけをひたすら祈ったものだが、
その祈りが届いたのだろうか。
この「少なめ」という言葉に甘えて、
私は給食をほとんど食べなくなった。
「少なめ」を通り越して、一口しか盛らない。
それなら、確実に食べきれる。
残してしまうのではないかという不安はなくなる。
クラスメイトからは不思議に思われ、
ダイエットしてるの~?などとからかわれたりした。
少し腹は立ったし、良い気分はしないが
説明のしようがないし言い返す言葉も見つからない。
そのせいで、いじめの対象になることはなかったし
曖昧な返事をしておけば良い。
それでもこの間にも、学校生活で食事イベントは多々あった。
給食を全学年で食べるお弁当給食ではいつもと違う先生が
監督をするため、不安でたまらなかった。
この先生は食べられないと怒られるのだろうか…と。
遠足や校外学習に行く際も、昼食が気がかりだった。
母が作ってくれた弁当も、慣れない環境では
喉を通らなくなることもあった。
私の小学校生活はもはや会食恐怖症の序章でしかなかった。
〈続く〉