会食恐怖症と給食
雑談ですが、思い出した話。
以前、会食恐怖症のリハビリがてら一人でカフェに入った際、近くの席に座っていたママ友と思われる女性二人組の会話。
「息子が小学校で給食を食べ切ることができない」
「クラス全体で食べ切ることを学年目標としている」
「息子は悩んでいる」
こういった話をしていた。
私が小学生だった時代もクラス全体で
給食を残さずに食べることを強いられた。
なにしろ、私が会食恐怖症になった原因は、担任の給食完食指導だ。
給食室から運ばれてきた缶を全部、空にして返しましょう。残したときは連帯責任。
給食を残さないクラスになりましょう。
おかわりした生徒にはご褒美シール。
シールがたくさんある子と1枚もない子。
今、考えれば給食を残す・残さないということが担任の査定の対象にでもなっていたのだろうか。
だから、給食を食べ切ることが出来ない私のような生徒は担任にとっては忌むべき存在であり、完食を強要することを是としていたのかもしれない。
しかし、この令和の世になっても給食を残すことをクラスの連帯責任とする考えがあるのかと思うと、恐ろしい。
もちろん、担任が生徒に給食を無理やり食べさせることは虐待だ。今の時代なら声を上げれば、担任が批判されてもおかしくはないだろう。
そして何よりもこのママ友の会話を盗み聞きながら、私の頭に浮かんだのは
この息子さんが食べることを嫌いになりませんように…ということだ。
会話からは母親の考えや、担任の指導内容までは私の知るところではないが。
もしも、この子が給食を食べられないことで担任に傷つけられ、自分を否定するようになってしまったら…こんなことで学校に行きたくなくなってしまっていたら…
その時は、親は子の味方で居てあげてほしい。
担任と同じように怒ったりしないでほしい。
食べられないことを我儘だと突き放すことは簡単だ。
本当にそれだけなのか?
食べることが出来ない理由があるのではないか?
親は、その子が抱えている悩みや苦しみに寄り添って、一緒に考えてみてほしい。
「この子のためを思って」「食べないことが心配だ」
親としては、このような気持ちもあるだろう。
だが、食が細い子供に対して「残さず食べなさい」という言葉はプレッシャーになるだろう。家庭で出来ることを考えよう。1人前の量を食べる事を負担に感じる子供なら大皿料理にして、取り分けて食べたほうが意外と食が進むかもしれない。
食べられたときは一緒に喜ぼう。褒めてあげよう。
小学校1年のとき、優しい担任が
「うりちゃん今日、牛乳半分飲めましたよ」と嬉しそう書いてくれた連絡帳を、母親に見せたら 「何だ、そんなことか」と言われた思い出を持つ私だからこそ、なおさら思うのだ。
本来、食べることは楽しいことでなければならない。
人の心は他人が思う以上に壊れやすく、元に戻ることは容易ではない。
楽しいはずの食事が苦しみに変わる前に、出来ることはあるはずだ。