異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験12
12 疑問もあったが……
会社を辞め、アパートを解約し、わずかにあった銀行の預金を下ろす。病院で健康診断もした。役所や職安にも手続きに行った。印鑑を押して手続きして回るのを、「スタンプラリーをしている」ように感じていた。それまでの生活をすべて断ち切る、という実感が薄かった。
もちろん、周囲の人には反対された。
「特講」を勧めた地域の‘’村‘’の人ですら、「今行かなくてもいいのではないか。地域で‘’村‘’の活動をするという方法もある」と言っていた。でも、地元にいても中途半端な気がしていた。バカは死ななきゃ治らない。行くところまで行かないと、納得できなかった。
「いつかは」と思っていたことが、現実となりつつあると思った。
「行ってみて、どうなるかは、わからない。落ち込むこともあると思う。挫折感に打ちのめされて、年も年だし、もう2度と立ち直れなくなるかもしれない。でも、今からそんな傾向と対策を考えて、またおじけづいてやりたいことに飛び込まないのか。今ここでやめてしまったら、それはそれで激しく後悔し、自己嫌悪に陥ってしまうだろう。どうせ落ち込むなら先送りした方がマシだ」と考えていた。
‘’村‘’を出た人が書いた本も読んだ。けれども、その人にとってはひどい所でも、私は大丈夫、とたかをくくっていた。それに、書いてある内容の年代が古く、「昔はそうでも今は改善されているだろう」とも思っていた。
また、‘’村‘’を出た人が財産返還を求めて裁判を起こしているとか、実顕地で農薬を使って周囲の人とトラブルになっているとか、学園の子がいじめられているとか、よくない話も知ってはいた。
でも、私にはもともとお金もあまりないし、子どももいないし、自分とは縁がなく、どこか遠いところの話のような気がしていた。とにかく、よくない情報があっても、目にも耳にも入らない状態だった。
そういった外部からの情報以外に、自分でも、感覚的な抵抗感はあった。
女性はファーストネームで呼ばれること。男女差別があること。夫婦の場合、参画するかどうかを決めるのも男性である。女性の場合には「おとうさん(夫のこと)とよく研鑽してからにしましょうか」と言われていたようだ。
‘’村‘’は、養鶏から始まっただけあって、「鶏は雄を中心に生きている、それが自然の姿だ」と言われた。でも、人間に飼われている鶏は、自然のままではない。人間が管理しやすいようにしている。それに、動物の中には、雌が主導権を持っているものも多い。そういう疑問を持ってはいけないことはしんどかった。そして、体力にも自信がなかった。
また、結婚相手まで研鑽で決められる、というのにも抵抗があった。ある人を好きになることなんて、理屈じゃないのに。それに、「結婚しない」という選択肢がないのも、不満だった。「特講」のときにも感じたのだが、「結婚して子どもを産む」という以外の生き方が認められない。
一つの価値観を強要される。なにしろ、価値観なんてものは、「自我」の最たるものだから、認められるわけがないのだ。
でも、結局、「外」の世界に疲れていて、「入ったら何とかなる」と思い、自分で感覚を押し込めてしまった。「自分が‘’村‘’を改善していくのだ」という気負いもあった。
サークルの仲間と別れるのはつらかったが、「‘’村‘’で元気に暮らし、何年かたって、幸せな姿を見せることが、一番恩に報いることではないか」と思っていた。
サークルの人に、「初めはともかく、1年、2年とやっていくうちに、だんだん窮屈になっていくのではないか」とか「‘’村‘’を出たらどうなるのか」と言われた。
‘’村‘’を出ても、具体的なことは何とかなるだろう。何をしてもやってはいけると思う。しかし、問題は挫折感である。「取り戻すことのできない時間に対して、一体何をしていたのかと悔やみ、落ち込み、滅入るのではないか、そこまで深く考えているのか、それでもやってみたいのか、覚悟はあるのか」と問われた。
「覚悟はない」と答えた。そんなものがあったら重たくて仕方ない。「覚悟があって入るものでもない」と思った。落ち込まないという自信もなかったが、「とにかく早く行ってしまいたい」とそれだけを考えていた。
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