EP.02 多様性と矛盾

本来、この話はもっと先に書こうと思っていた。しかし、今日書かなければならない気がしてしまった。なら、書かない理由はない。

今回の話は、タイトルにある通り、「多様性」である。

そもそも、あなたは多様性という考え方に賛成だろうか。私は、大いに賛成である。各人、好きな形をとって選択できる世の中が素晴らしくないはずがない。お互いを尊重し合う。その意味での多様性は、大賛成だ。

しかし、現代社会は本当に多様性に向かっているだろうか。例えば、ポリコレや自主規制、これらを行うことは本当に多様性への迎合だろうか。

ここで一度、多様性の言葉について考えてみたい。辞書で「多様」と引くと『いろいろであること。変化に富んでいること。また、そのさま。』とある。これが転じて、あらゆる考え方・価値観を認めることとして「多様性」は使われているのだ。

では、改めて、現代のあらゆる方面への「配慮」という形の規制は多様性の賜物であるのか、甚だ疑問である。規制をしている時点で、一方の考えを潰しているのではないか。私は、そのように考える。

つまり、何が言いたいかというと、最近は多様性という言葉を武器にマジョリティとマイノリティの反転が起きているのではないかと思うのだ。多様性という言葉が、マイノリティがマジョリティを攻撃する免罪符として機能してしまっているように感じてしまうのだ。

多様性はあらゆる考えの共存を示しているのであって、今まで社会的弱者とされてきた立場が「当たり前とされてきたこと」を攻撃するものではないのだ。

近年、SNSが発達したことで、今までは声無き声とされていたものが有声となった。その結果、レジスタンスが起きた。かつての考えは、ステレオタイプと揶揄され、非難の対象となった。

特に、フェミニズムにはそのきらいがある。フェミニストと呼ばれる人たちは日夜、女性の社会的地位向上のために働いてくれている。その活動に対しては、とやかくいうつもりはない。非常に素晴らしい活動である。しかし、時に過剰なパターンがある。彼らは「女性の社会的地位向上」を掲げていたはずなのに、「男性への糾弾」を目的としていることが多々あるように思えてしまう。それは、ただの自慰行為でしかない。多様性を武器にすることで、罪悪感を感じることなく、他人へ暴力を振るい、自分だけが気持ちよくなっている。自己満であり、傲慢である。

もちろん、前近代的な考えが、時として良くない部分を併せ持っていることは否定のしようがない。そういった部分への、対抗意識を持つことは絶対に必要である。ただ、それが行きすぎているようにしか感じないのだ。もっと、お互いを尊重した上で、建設的に話を進めればいいのに、と外野からは思ってしまう。


そして最後に、私は前近代的な考え方も「多様性」の世界では存在し得ると思うのだ。なぜなら、思想は自由だからである。しかし、私の中で前近代的な考え方が多様性の世界で存在できる条件が一つだけあると思っている。それは、多様性を下地とした上で、前近代的考え方を選択しているのかどうか、ということである。

つまり、前近代的な考え方も、いろいろな意見を総合した先にある選択肢にはなり得ると思う、ということである。

今はあらゆる考えがあって、自分に合うものを取捨選択した先にある答えが前近代的でも成り立ち得ると思うのだ。その結果として、亭主関白を選択する新郎がいてもいいし、同性愛を選択する人たちがいてもいい。人の数だけ答えはあるし、考えがある。

だからこそ、頭ごなしに相手を非難することは憚られるし、批判・規制の対象にすることは気が引けてしまうのだ。

その考えを「問題発言!」と捉えるのではなく、そういう人もいて、でも自分はこう思う、その考えが世界に流布して初めて多様性は確立すると思う。


この世界は本当に、多様性へ向かっているのだろうか。



(多分、修正します)

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