月の海で溺れてる、わたしの傍には女神さまがいて・・・。/前編
【川の月にポケット瓶】
「んんにゃぁぁあああっっ!!?」
左手で握ってたポケット瓶のスクリューを回して、濃い蜂蜜色の液体をゴクリ。
それで一気にむせ返した。アルコール度数四十パーセントのウイスキーのストレートで、喉が炎上。口内の劇薬を吐き出すために喉だか気管だかが痙攣にも似た大運動会。
崩れ落ちるように欄干にもたれ掛かり、涙と、鼻水と、よだれと、ウイスキーで公共の地面を汚す。
最低で、
最悪だ。
半分以上なくなったポケット瓶中身はわたしの喉を経由して地面に染みを描いているのだが、頭のほうにも搬入されていたらしい。
視界がぼやけるし、鼻の奥もじんじん響き痛い。
胃からエマージェンシー・コールで、再度の嘔吐。
こんなの、新入社員の歓迎飲み会以来だった。二十歳(はたち)で初めてのんだお酒が焼酎のお湯割りで、わけも解らず次々と喉に流し込んで。
最後にはマーライオン。
わたしの人生の三大ガッカリなイベントのひとつ。
弥世川(みよがわ)に目を落とすと、初夏の月が映っていた。
夜風と静けさが心地よくてため息がもれる。
わたしも明日で、正確にはあと二時間ちょっとで、二十三歳。
あんまり楽しいこと、なかったな。
職場の後輩に小バカにされたり、部長にセクハラされたり。
付き合って半年の彼氏は、わたしの誕生日を目前にしても連絡ひとつもくれない。
代わりに携帯電話(ケータイ)に詰まった、ママからのオニ着信。
つまんないな。
苦しいことばっかり起こって、良いことなんて、ない。
明日は日曜日なのに出勤。
風邪でもひいて休めたらいいのに。
弥世川(みよがわ)に落ちて水をかぶれば、風邪くらい引けるかな?
「よっ・・・・・・と」
体にチカラが入っていない。橋の欄干から爪先立ちで身を乗り出した。踵が痛いのも我慢する。
思っていたよりも、ずっと高い。
水面までは五メートルくらい。真昼に見たときは水が澄んでいた。底には泥もあると思う。
「あ」ポケット瓶を取り落とし、ボチャリと水面の月を濁してしまう。
中身がまだ残っているのに、などとは考えない。
落とした瓶を拾わないと。
乗り出した身を、さらに、さらに。
欄干に足を掛けた。滑るから片方のヒールは脱ぎ捨てる。
届くはずもない手を伸ばす。
川に映る月。その中に落としたポケット瓶。
瓶が大事なのではなく、川を自分が汚したくなかった。
あと少しで、手が届くから・・・・・・。
ふっと、カラダが軽くなって、わたしは月を掴むことができたんだ。
【優しい月がしろしめす、場所】
ずぶ濡れで、わたしは夜空にある月をぼぉっと見上げていた。
ゆらゆらと流される。水面なのに、ぬるま湯みたいなのが気持ちよくて、ハンモックってこんな感じなのかな、とまず頭をよぎった。
お風呂で寝ちゃってたっけ?
電気も付けてないし。
服も着たままだ。
また、ママに怒られちゃうな。二十三歳にもなって、酔っ払って、服のまま湯船に潜ってさ。うわ、片方のだけヒール履いてるし。廊下汚したのも言われるなぁ・・・・・・。ママって昔から口うるさかったし。
でも、スーツどうしよう!? 乾燥機かけたら縮むだろうし。替えのスーツはクリーニングに出したばっかりだ。
とりあえずは主任に連絡しよう。
それとも、本当に仮病(カゼ)で休んじゃおっか。これだけ毎日ガンバってるんだから、さ。
たまには、良いよね?
さもないと、本当に、死んじゃうよ・・・・・・。
わたしは。
アイスが食べたいな。帰りに買ってくればよかった。
それなのに、ウィスキーだけ買っちゃって、橋で吐いて、瓶まで川に落としちゃって。
川に落ちて。
でも、瓶は拾えたみたいだから、良かった。
弥世川(みよがわ)は綺麗にしないと、ママに怒られるもんね。
「っ!?」
空に浮かぶ、巨大な満月がまぶしくて、煌々と黒い空を青紫色に塗り替えている。
少なくとも自宅の浴室ではない。湯船に服のまま浸かっていたわけではない。
そもそも家に帰った記憶もない。
弥世川(みよがわ)の橋でお酒をあおって吐いて、瓶を川に落として、拾おうとして、橋から身を乗り出した。
落ち、た、の?
うつらうつらとしていた意識は急速に醒めた。
なんとか、なんとか理解した。
ここは、違う場所だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
夕方と夜のをちょうど半分にしたような、空。上に行くほど黒くて、下に来るほど青紫。
見渡す限り、全部が海。
濃紺の海。
わたしは、そんな海だらけの世界にいて、ただひとつの島にいて、砂浜に立ち尽くしていたのだ。
わたしは、生きている。
でも、死んでしまったんだろうか・・・・・・?
弥世川(みよがわ)の伝説。この世とあの世をつなぐ場所。
わたしはウィスキーの瓶を拾おうとして、川に落ちた。深さは三十センチあるかないかくらいだ。川底に頭をぶつけたんだとしたら、重症は確実だ。
頭は、痛くない。
いいや。もしも、もうわたしが死んでいるとしたら、痛みなんて感じな・・・・・・、
いや、めちゃくちゃ痛かった。
誰もいない。
海に囲まれた島に、たったひとり。
ああ、これが孤独ってやつなのか.。
生きていた頃も大して変わらないけど、せめてスマホくらいは使えたらいいのにね。
大きな月は、まるでわたしのことを見守ってくれてるみたいで、
わたしは、声に出さないように、泣いたんだ。
【わたしと、女神さま】
無我夢中で泳いだ。
水泳は得意ジャンルじゃないけれど、そんなこと言ってる場合じゃない。
女の子がいた。
わたしが泣きじゃくっていた砂浜から遠く離れた白い岩場。
女の子は岩に掴まり、海中に手を伸ばしている。そのように見えた。
ずぶ濡れのスーツの上下と、カッターシャツはボタンを引きちぎりながら脱ぎ捨てる。下着姿で海に飛び込んで、十年ぶりにクロールの封印を解いた。
荒い呼吸を繰り返し、体は酸素を取り込もうとする。仮にこの世界があの世なら、呼吸の必要もなさそうなものだけど、百メートルくらいは泳いだはずだ。
白い岩場に手を掛けて、驚かせないように猫なで声をつくる。
「お嬢ちゃん、危ないよ。海に落ちちゃうからさ」
十歳くらいの外国人の女の子。
色素の薄い真珠(パール)の肌。
蒼玉(サファイア)を埋め込んだ瞳。
髪は上品な白金(プラチナ)の繊維。
神話の登場人物(キャラクター)のような、羽毛でできたのローブを着た幼い女の子。
それに比べて、わたしは下着とストッキング姿の危ない露出狂。
いや、ないわ~。
ないのはもちろん、信頼と説得力だ。
少女はわたしと、伸ばした手を交互に見て、ゆっくりと両手を差し出した。
あたたかくも、冷たくもないが、柔らかい感触を知る。
海面から顔を出したまま、岩場の少女を仰ぎ見た。
表情らしい表情は浮かんでいないし、感情らしい感情もあらわしていない。
ただ無垢で、無知な、生まれたてのような少女を、わたしは女神さまなんだと思うことにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※
とりあえずは陸地に戻りたいけれど、女神さまを連れて泳げるものだろうか?
女神さまはキョトンとしたままで、わたしの手を握っていた。恐る恐ると腕を撫でたり、掴んだり、間近で見て、匂いを嗅いで、頬を擦った。感触でも確かめているんだろうなと最初は好きにさせていたが、女神さまの好奇心はわたしのカラダに及び、まずは下着を触り始めので、距離をとることにした。
逆効果だった。女神さまは余計にわたしの貧相な胸を覆うブラに興味を示し、手を伸ばしてくる。
わたしが腕を組んでブラごと胸を隠すと、次はショーツとストッキングに狙い始めた。
さすがに止めた。
女神さまとはいえ、見ず知らずの少女に剥かれるのは、恥ずかしいに決まっている。
ただヘンな気は全くなさそうだ。
まるで生まれて初めて、誰かを見たようだった。
しかし、そのきれいな姿は、無数の傷で飾られていた。
傷だらけの、小さな女神さま。
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